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平成22年4月29日 校正すみ

35年目の再会

松山 実


若林 立夫

「忠義心如鏡石。上命のみけのまにまに。さらば」と訣別の辞を残して、君は海へ、小生は空へ、江田島で袂をわかつてからの君の消息は知らない。

 昭和十九年十月二十五日、駆逐艦山雲の航海長として比島レイテ沖海戦において、壮烈なる最期を乗艦とともに遂げられたことを、戦後なにわ会会報で知る。

 「海軍も早く大艦巨砲主義の夢を捨て、飛行機に重点を置いた戦略に方向転換をしないと、取り返しのつかないことになる。しかし、俺は貴様と違って、身体は頑丈、できが大きく、小廻りがきかないので、飛行機乗りには 適してない。しかも、海軍を志望した動機が船乗りになることであったし、艦艇勤務が縁の下の下積み的任務に変ったとしてもよい、俺は船乗りになるのだ」と、卒業の迫った夏の熱っぽい寝物語を聞いたのが、つい昨日の ことのように思われる。

 彼は眉目秀麗、竹を割ったような爽やかな気性、その上、その行動には陰日向がない。剣道四段の達人であり、海軍士官になるためにこの世生をうけたかのように、海軍士官の制服姿が絵になる生粋のネービーである。

 彼の名は若林立夫君。三十五年目の再会の縁は、彼の姉の遠藤弘子様の一通の手紙が、なにわ会の湘南地区の名誉幹事市瀬文人君に届けられたことに始まる。市瀬君も、海軍の良き伝統を何時までも継承しているクラスの一人であり、不言実行、職責とあらば、黙々とその任務を遂行してくれる貴重な存在である。

 「身体の具合が悪く、本年の法事が危ぶまれていましたが、医者の許可がおりましたので、行ないます」との弘子様からの連絡があり、一号時代同分隊の中山 皎君に、万障繰り合わせて貰い、八月十五日早朝、二俣川に落ち合い、東名高速道路から、富士川沿いにご生家に向う。

 南巨摩郡中富町下田原の素封家の次男として生をうけた彼の父弘毅様は、大学から海軍を志され、主計士官として八雲に乗艦、ご活躍になられたが、日本海々戦には、佐世保海軍病院で病気療養中で、参戦の機会を逃されたとのことであり、昭和三十五年八十四歳で、また、母上も昭和三十八年七十八歳で、長寿を全うされたとのことである。

 兄の弘道様は、農林省に勤務中応召を受け、昭和二十年五月ニューギニアで戦死された。姉の初子様は鎌倉に、弘子様は清水に、実枝子様は甲府にそれぞれ嫁がれ、ご生家は無人となり、立夫君の従兄弟に当られる若林 勇様、都江子様ご夫妻が管理されている由である。勇様は、立夫君の卒業した旧制身延中学の七年先輩に当り、現在の身延高校の校長をなされた教育者であり、立夫君の幼少時代の、雑草のように強い人間たれとのご両親の教育方針など、想出話に時の経つのを忘れる。

 ご生家から畔道伝いに裏山の入口まで、そこから山の尾根へと続く急坂を、約十分登りつめると、突然前方に、小山の中腹から頂上にかけて点在している若林家一族の墓が視野のなかに飛び込んでくる。

 若林家一族の墓を、一段高い後方から見守っているかのように、富士川を見下す尾根を登りつめた、約四十坪の本家の墓地で、彼は静かに眠っている。三十五年後に、このような姿での再会になろうとは、夢にも考え及ばなかったことである。

 中山君ともども冥福を祈る。

 真夏のギラギラした太陽、蝉時雨がうだるような暑さのなかに吸い込まれてゆく。三十三年前もこのような日和である。十二時、ボリュームをあげた町内会の三十三回目の全国戦没者追悼式のラジオ放送が、谷間伝いにか け上ってくる。それに合わせて一分間の黙とうをして下山する。

 昼食をご馳走になりながら、昔話に花をさかせる。名残はつきないが、皆様とご一緒に記念撮影をすませて、別れを告げ帰途につく。

 そういえば、西田哲学も彼との議論の対象である。その意味するものは、その現在とは、その過去とは、そしてその未来とは。運命共同体としての日本の未来にその青春を賭けた、青年の心を動かしたものは何であるのだろうか。「現在、過去、未来・・・・」と歌謡曲の歌詞となって、現在歌われている「現在、過去、未来」の意味するものとの違いを理解して貰えるのだろうか。昭和生れが全人口の八〇%を占める今日では、第二次世界大戦も歴史のなかに埋没してゆくことは、ご時世というべきであろうか。

 終戦を迎えての拙句

  国破れ 平和の鐘は鳴り渡る

      護国の鬼に 如何に響かん

           (53816記)

(なにわ会ニュース40号22頁 昭和54年3月掲載)

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