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平成22年4月24日 校正すみ

昭和60年9月寄稿

植田伸二君の戦死状況

宮原 健児

日時 昭和20年3月13日

場所 富高航空基地上空(宮崎県)

所属 戦三〇七飛行隊第四中隊長付

植田 伸二

20・3・12
 敵機動部隊本土に向け北上中、明朝敵機来襲の算大なりとの報に接し徹夜にて邀撃準備をなす。

20・3・13

 黎明より第一大隊零戦三十二機上空哨戒をなす。

〇六三〇頃、海上に敵機発見の電話(機上より)あり、第二大隊三十二機発進す。

海上にて邀撃、敵を撃退す。全機帰投後、基地燃料の在庫量の関係により上空哨戒を中止す。

 正午頃、敵機来襲し来り地上銃撃を行う。戦闘機全機発進、之を撃退す。

 地上よりの帰投電話により味方戦闘機逐次誘導「コース」に入りつつある時、雲上より「グラマン」数機襲いかかり大損害を蒙る。この時、第四中隊長機植田機山上に墜落す。

〔詳報〕

三月十三日遊撃戦の午後、地上電話「全機富士山(全機掃投せよの意)」により解散せんとせし時、後方より「グラマン」一機我編隊に集いかかる。二番機上村上飛曹之を発見、左に回避し、一番機植田中尉機に「バンク」を以て知らしたれど中々了解せず「グラマン」は一旦下位迄下り優速を以て後下方より銃撃す。

植田機は火を噴きて山上に墜落す。植田の屍体、胴体のみ残り、頭、手、足は全然見当らず。

(編注、本稿は58・10・2病没した宮原健児君の遺品の中から発見されたものである。植田伸二君の戦死日(名簿は18日)および場所については、名簿記載と相異するが、おそらく宮原の記述が正しいと考えられる。この種の間違い、あるいは間違いと思われる点にお気付きの向きは、名簿係市瀬文人あて連絡ありたい。宮原のように亡くなってから発見されたのは、偶然に過ぎない。生きている間にモノを書いたり、言ったりしておこう。)

(なにわ会ニュース53号 16頁)

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