平成22年4月27日 校正すみ
寺岡恭平君のこと
上田 敦
昭和四九年一〇月一二日(土)午後六時三〇分から東郷記念館において、故寺岡恭平君の三〇回忌追悼会が催された。学習院同窓の宇尾野公義、水野北氏、小津茂弘の三氏主催によるのもで、御両親・御令妹・御令弟それに機関科級友の上原・大森・福島・小生を加え参加者約三〇名の極めて盛大な追悼会であった。この追悼会は、併せて記念文集発行のためのものでもあり、学年監事山崎実徳教官を始め、級友多数から原稿を寄せられ、昭和一九年一一月二一日、伊号第四五潜水艦で南漠に果てた寺岡君の霊を慰めるに最も相応しいものであった。原稿未提出の方の督促を兼ねて、小生の呈辞した思い出の記の一部をご披露したいと存じます。
序にかえて
比島沖海戦(昭和一九年一〇月二四日〜二五日)もわれに利あらず、戦局の帰趨漸く定まらんとする頃、わが畏友 寺岡恭平君も、伊号第四五号潜水艦を駆り、長躯 レイテ方面に出撃、昭和一九年一一月二一日に至り、遂に名誉の戦死を遂げるに至りました。爾来星霜三〇年、一〇月一二日の三〇回忌追悼会に引き続き、記念文集を発行される由、誠に機宜に適ったことであり、発起人各位の労を多とする次第であります。幸い、小生海軍機関学校第五三期級会幹事でありごく最近まで、防衛研修所の戦史編集官をしていましたので、主として史実」に基づく戦績を偲びたいと存じます。
海軍奉職履歴
昭15・12・1 海軍機関学校入校(第五三期 一二〇名採用)
四号生徒(15・12・1−16・3・15頃) 第七分隊の生存者 二名 椎野 廣 吉田二三男
三号生徒(16・5・15頃−16・11・15頃) 第二分隊の生存者 二名 大森慎二郎、大山隆三
二号生徒(16・11・15頃−17・11・15頃) 第七分隊の生存者 二名 安藤 満、北村卓也
一号生徒(17・11・15頃−18・9・15) 第二分隊の生存者 六名中一名 森川恭男
15・12・1 海軍機関学校卒業 海軍少尉候補生 軍艦伊勢乗組(卒業人員111名)
○ 海軍機関学校53期の生存状況(掲載 略)
○ 戦艦伊勢乗組の生没状況(掲載 略)
18・11・15 軍艦長門乗組(福島 弘と一緒)
19・3・15 海軍少尉
19・4・10 呉鎮守府附
19・5・1 海軍潜水学校附 第11期普通科学生(兵学校出身者と一緒)
19・8・15 普通科学生課程修了 第11潜水隊司令部附
19・8・25 伊号第四五潜水艦乗組(機関長附)
19・9・15 海軍中尉
19・11・21 戦死 海軍大尉
○ 日本海軍公文書にみる戦死状況
第六艦隊機密第225−160 昭和十九年十一月二十一日
第六艦隊司令長官 三輪茂義
海 軍 大 臣 殿
軍 令 部 総長殿
聯合艦隊司令長官殿
伊号第四十五潜水艦乗員戦死認定ノ件報告
伊号第四十五潜水艦ハ昭和十九年十月十三日呉出撃南西諸島次デ台湾及菲島東方海面ニ来攻セル敵機動部隊撃滅ノタメ作戦中ノ処右出撃以後無線連絡ナク消息不明ナリ
是ヨリ先十月十八日敵攻略部隊「レイテ」島ニ来攻上陸ヲ開始スルヤ二十四日「レイテ」島東方海面二急行スベキヲ命ジ二十七日菲島東方海面ニ哨区ヲ変更次デ十一月五日「ラモン」湾東方海面二哨区変更ヲ命ジ之ガ了解ヲ求メタルモ応答ナク十一月八日撤哨横須賀帰投ヲ命ジタルモ未ダ帰還セズ
当時敵ノ「レイテ」島増援ハ極メテ活澄ニシテ敵艦艇ノ行動頻繁且警戒厳重ヲ極メアリ
十月二十四日以降水上部隊「レイテ」湾突入作戦ヲ決行スルヤ同艦亦之二呼応突撃二転ジ其ノ有力艦ヲ捕捉攻撃ヲ加へクルモ同艦亦敵ノ反撃ヲ受ケ沈没 潜水艦長以下壮烈ナル戦死ヲ遂ゲクルモノト認ム
同艦ハ所命ノ行動予定ヲ以テスレバ十一月二十一日横須賀ニ帰着スべキ処未ダ帰投セザルヲ以テ右ノ状況二徴シ同日附戦死(潜航中)ト認定ス
写送付先
横須賀鎮守府司令長官
第十五潜水隊司令
(終)
十五潜隊機密第一六号ノ五一月一六日送付
昭和十九年十一月二十一日
第十五潜水隊司令
海軍大臣殿
戦没者ノ件報告(掲載 略)
別 記
伊号第四十五潜水艦ハ昭和十九年十月十三日呉出撃南西諸島次デ台湾及菲島東方海面ニ来攻セル敵機動部隊撃滅ノ為作戦中ノ処右出撃以後無線連絡ナク消息不明ニシテ十一月八日先遣部隊指揮官(筆注、六艦隊長官の兵力部署上の呼称)ヨリ帰投命令発セラレタルモ応答ナク遂二帰還セズ 当時敵攻略部隊ハ「レイテ」島二来攻上陸ヲ開始シ其ノ増援亦極メテ活瀞ニシテ敵艦隊ノ行動額発且警戒厳重ヲ極メタリ 斯ル情況下同艦ハ 「レイテ」島東方海面、菲島東方海面及「ラモン」湾東方海面各哨区二於テ敵艦艇ノ攻撃々滅二任ジツツアリシ処十月二十四日以降水上部隊「レイテ」湾突入作戦ヲ決行スルヤ同艦亦之ニ呼応突撃ニ転ジ敵有力部隊ヲ捕捉攻撃シ戦果確認セルモノナキモ敵艦艇ヲ轟撃沈後同艦亦反撃ヲ受ケ沈没昭和十九年十一月二十一日附潜水艦長以下総員壮烈ナル戦死(潜航勤務中)ヲ遂ゲクルモノト認定セラル
(終)
日米戦史にみる伊号第四五潜水艦の活躍
日本側史料(第六艦隊戦闘詳報・戦時日誌)には、前掲の六艦隊長官の戦死認定報告のほかの顕著な事実は見当りませんが、米側史料には、次の二つの事実を指摘されております。
一、米海軍作戦史
19・10・28 伊45潜は、DDエバーソール撃沈後、北緯10度10分・東経127度28分においてDEホワイトハースト(護衛駆逐艦)の攻撃を受け沈没
二、米海軍駆逐艦戦史
19・10・28 伊45潜(前記「米海軍作戦史」では、伊54潜となっている。)は、北緯10度58分・東経127度13分において、DE-330グリッドリー、DD-388 へルム(いずれも米駆逐艦)の攻撃を受け沈没
筆者注、伊45潜の沈没日は、一〇月二八日で間違いないようです。行動については、米海軍作戦史のとおり、DD一隻撃沈の嚇々たる武勲をたてたのち南溟に果てたものと確信しております。
(なにわ会ニュース32号8頁 昭和50年3月掲載)