平成22年4月27日 校正すみ
昭和55年9月寄稿
田中たくみ分隊長追悼の辞
松田徳三郎
(編者前書き)
ここに掲げた二つの文章は、故田中たくみ君の御母堂むら様から送られてきたものである。
田中は19年7月4日、飛行学生戦闘機教程を卒業し、同日付大村海軍航空隊(元山分遣隊)附兼教官に補せられた。同行したクラスは福山正通、竹内 茂、清水 淳、寛応 隆、時松三助、河野俊通であった。
それから後のことについては、分隊員の書いたこの文章にくわしいが、三十数年を経た今日でも、このようにかつての部下に慕われ続けているというのは田中の人徳のしからしめる処であろう。)
田中たくみ
過ぎし太平洋戦争の砌(みぎり)、一億同胞の楯となり、紺碧の大空を紅に染めて散華されし、神風特別攻撃隊、第二七生隊長田中たくみ海軍少佐の御霊前に、嘗ての部下、元山空・零戦隊員を代表して、一言追悼の詞を述べさせていただきます。
想い出せば三十数年前、我々同期戦闘機隊員五十七名は、第二航空艦隊麾下の基地航空戦隊台南空戦闘機隊要員として派遣されたが昭和十九年十月十二日未明からの台湾沖航空戦で、多数の戦友と愛機・零戦を失い、元山海軍航空隊へ転属となり、元山空にて第九分隊を編成、その分隊長が海兵出身の秀才「パイロット」、御生前中の田中中尉であられた。
珊瑚海々戦・「ソロモン」沖海戦等、歴戦の「パイロット」所謂「ラバウル」帰りの猛者達ばかりの教官のもと、決号作戦に備えての特別訓練が開始されたが、田中分隊長の御指導は、厳格の中にも温情溢れ、我々から兄のように親しまれておられたが、ひとたび戦闘になれば、真先に待機戦闘機を翔ってB29の追撃等、満身是胆の田中中尉で元山空・戦闘機隊にふさわしい分隊長であられた。
昭和二十年沖縄方面に敵機動部隊が接近するや、捷一号作戦が発動され、日本各地の航空隊で神風特別攻撃隊が編成され、我々の先輩、そして同期の桜、更には後輩と、数多の「パイロット」が護国の鬼となり、大空の彼方に散華された。
対「ソ」国境日本海軍、基地航空戦隊の最北端、元山空・戦闘機隊にも特攻隊編成の大命が下り、数次に亘り、神風特別攻撃隊が出陣されたが、中でも、昭和二十年四月七日、五十四機もの大編隊にて編成された神風特別攻撃隊第二七生隊の出撃は、我等一同忘れることの出来ない壮挙で、記憶も生々しい。それは、我等が兄と親んだ田中分隊長が総指揮官、即ち神風特別攻撃隊の隊長となられ、一機一艦、愛機諸共、我と我が身を敵艦隊に体当りすべくの出陣であった。轟々となり響く爆音の中、日の丸鉢巻も凛々しい隊長は、莞繭として「沖縄の空で待っているよ」の詞を残して、大編隊を引き連れ元山空を飛び立たれた。帽振れ! 見送る者達が千切れる程に打ち振る帽子、誰の面々にも涙、やがて大編隊は大空の彼方へ、涙でかすみ特別攻撃隊が見えなくなっても誰一人飛行場から立ち去ろうとはしなかった。
星霜めぐり経て三十数度、今なお生々しく我等が瞼の底に焼きついて、消え去ることの無い神風特別攻撃隊第二七生隊。
日本敗れたれと、永遠に我等が子々孫々の胸に生き続けるであろう神風特別攻撃隊。
沖縄の空に散革されし毘沙門天の権化、田中分隊長、護国院顧岳義忠居士英霊願わくは世界平和の為、我等が子々孫々を導き賜わるよう祈念し、謹んで墓前に参じ、追悼の至情を披瀝し、霊の御冥福を心から御祈り申し上げます。
昭和五十五年六月八日
海軍一八会員
旧元山海軍航空隊第九分隊
零戦搭乗員代表
松田徳三郎
(なにわ会ニュース43号16頁)