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平成22年4月27日 校正すみ

おとうと

山根 澄子

−、国分基地慰霊祭に詣でて

 鹿児島県国分市の特攻隊員戦没者慰霊祭が去る四月二十二日、国分自衛隊正門近くの、特攻機発進の地、記念碑の前で行われました。私は弟、高崎孝一の慰霊のため参列しましたが、あわせて、鹿児島湾上で戦死したという弟の最後の様子を詳しく知りたいという願いもこめて、鹿児島に参りました。

慰霊祭は全国各地から十七遺族三十七人と戦友、地元遺族会の約二百人が出席、谷口国分市長等の弔辞、参列者全員の献花で、三九六柱のめい福を心からお祈りいたしました。儀仗隊の弔銃、特攻隊生存者による遺書朗読、「同期の桜」の合唱は特に涙をさそいました.

 この基地からは、昭和二十年春から沖縄海戦支援のため数多くの特攻機が発進したそうですが、弟はその先陣を承り、勇躍飛び立ちましたが不運にも帰らぬ人になりました。

 出撃当時の様子を杉山部隊の記録「懐旧」より抜粋いたしますことをお許しいただき、左記いたします。

 

 四月二日

  快晴、南の風 視界七

 黎明攻撃のため優秀な搭乗員を選抜して午前四時、彗星爆撃機四機を発進させたが、全機敵を見ずして高崎機の外、帰還した。

 三番機(操)高崎中尉、(偵)中岡上飛曹 鹿児湾上にて戦死。

 この時高崎中尉機が鹿児島湾内に墜落して居たのを漁師が発見した。高崎中尉は硫黄島特攻作戦に参加を希望し、特に熱心に申出て来たのであったが、部隊再建上残留してもらったのであった。(中略)

 戦没状況

 海軍大尉高崎孝一殿には、昭和二十年四月二日、命により沖縄島附近敵機動部隊索敵攻撃のため第一国分基地を発進せるに、鹿児島市青野町大崎鼻東南約五〇〇米の海上に於いて敵と遭遇、これと交戦中被弾、戦死を遂げられた次第です。

         ×     ×     ×

 私は数年前退職して母の住んだこの東京に帰って来ましたが、去る三月、母の遺品整理の際、前述の貴重な記録等を見出し、はじめて弟の最後の地が鹿児島の大崎鼻岬の沖合らしいことを知りました。鹿児島には暫く在任しておりましたので地理も分り、幸い知己もありましたので、早速、事前準備にとりかかり、出発前に関係方面に御協力のお願いをいたしました。お蔭様で、このたび、国分自衛隊の格別のお力添えによりまして、白浜という、もと漁師の部落に、弟の遺体を収容して下さった方(故人)の息子様が居られることを教えていただき、その方にお会いして弟の最後の様子をうかがうことが出来ました。

 交戦後被弾して、落下傘が半開きのまま墜落死した弟らしき遺体を、恰度、たこ釣りに沖合に出ていた漁師の方がみつけて船に引きあげ、白浜の海岸に運んで下さったそうです。息子さんはその当時一四歳でしたが、はっきりと、脇腹に血のにじんだ、飛行服の若い飛行士の姿を見た、遺体は村人の見守る中を、直ちに迎えに来た軍の衛生車で基地に運ばれたということでした。

 私は今まで聞いたことや、記録とほぼ合うようですから、さだかではありませんが、この漁師の方に引き揚げられたのが弟ではなかったかと、心からこの親子の方に御礼を申し上げました。どしや降りの雨の中を白浜海岸の水際に下りて、亡き母の心もこめて、海に花束を投じ、弟のめい福を祈りました。

 鹿児島の方々は人情あつく、礼節正しい特性をもっておられますが、この特攻機発進の地の記念碑は、国分市住民方の浄財と国分自衛隊の尊い労力奉仕で建てられたとききます。そして何時も新しい香華がたえることのないこととうかがい、遺族として心あたたまる思いと感謝の気持で一ぱいでございます。

ニ、「羔(こひつじ)とその母」

 母によるこの著は、昭和二十年四月二日

  時ありて 咲き散るものは桜花

   今こそ征かん みたてとなりて

という辞世の一首をのこして、二四歳をもって沖縄戦闘中に散花した弟、孝一の兵学校入学より、百里ケ原、松山及び国分海軍航空基地を経て、同二十年、死地に赴くまでの彼の六年間の日記、所感、自啓録、生徒作業簿、夏期休暇日誌、そして丹精に書き綴った母への書翰一七八通を母がまとめて追憶し、加えて、我が子を失った断腸の思いと、そして再起の心情を、涙をこめて歌に、所感にと記した、かけがいのない基督者である母の愛の書であります。母は同じ境遇にある同期の遺された母上方の共感と慰籍のためにもと、この書を自費出版して贈呈しました。この母は七年前に九一歳で亡くなりました。

 私は繰り返し読みましては、かくも厳しい道のりを馳せ続けて、終に死にまで至った彼の張りつめた一生が余りにもあわれで、より悲しくなりました。

 二度とこのような悲劇は繰り返されてはなりません。このような尊い血潮が無駄にならないためには、いかなる戦争も肯定してはなりません。どんな戦争もこれにまさる罪悪はないと思われますので。

 

   母の歌より

 (わが子の入学)

  ただ真理をと 目ざす君が若き日の

       心はぐくむ 江田島の春

 (卒 業)

  幾年の 学びの道を すこやかに

    終えて世に立つ 今日の目出度さ

 (飛 行)

  大空に とぶ鳥みれば 思うかな

    吾子の平安を 祈り願いて

  磨かれし 百煉の腕 今こそは

    全力をもて お役に立てよ

 (別 れ)

  はるばると 松山に来り 孝一と

    会うて嬉しさ 胸にあふるる

  いそがしき時間をさいて 今日もまた

    母に会うとて 来るか愛し子

 (慟 哭)

  青山も 枯木の山と なるばかり

    泣いて叫んで 吾子をよびたし

 彼こそは私にとってまことに「暁の明星」であった。彼の肉体はもはや死の眠りに入った。しかしその心霊は聖国において、いやが上にも目覚めて神の働きにつき、その働きの家は地上にある私の中に結ばれてゆくことを信じる。最愛なる彼の死こそは私の生活中の最大の苦き酒杯であった。しかしその死は永の生命となり、私自身から死の刺を抜き去った。

 母へ捧げるの詩(1887帰省時に記す)

 我魂者母愛 正義必動神

 名利如埃? 孝以忠為盡 

孝一

 

三、ロング・サイン

 私は公私の生活の上で、時折、海軍兵学校出身の方にめぐり会う機会を得まして、嬉しく、また皆様より御厚情もいただき感謝しております。

 七五期生の溝部秀郎様(現、福岡労働基準局長)とは労働省、鹿児島時代にご一緒でした。兵学校のとりもつ御縁で、弟を偲ぶよすがにと「ロング・サイン」のカセットを下さり、今もよくかけては兵学校生活に弟を偲んでおります。

 カセットのA面は「海の追憶」、B面は「年譜でつづる海軍兵学校第七五期生徒の軌跡」となっており、勇ましい「江田島健児」の歌で始まり、悲しい「同期の桜」で終っています。幾度聞きましても懐かしく、特に心に残りますものは、「ラッパでつづる生徒館の一日」そして、B面の最後に、閉校に際して栗田校長が断腸の思いでのべられた悲しい惜別の訓示であります。

 私は神戸に進学しておりましたので、弟の在学中はたびたび江田島に面会に参りましたし、終戦後も追悼のため、数回参りました。転勤の先々では必ず一番に特攻基地を訪れて慰霊いたしました。

 私にとって、弟の江田島は大変身近な地域で、このロング・サインのカセットをだきましたことを、こよなく喜んでおりました。

 

四 飛行機と視力表

弟は幼少より飛行機が好きでしたが、彼が三歳の時、家の襖という襖に飛行機の絵を落書して、余りの見事な出来ばえに、母は叱ることも消すことも出来ませんでした。

 大きくなるに従って弟の工作(特に飛行機作り)の腕前は評判になりました。

兵学枚の入学試験が近付くにつれて、視力がとても心配で、毎日、庭に出ては、私が視力表を持ち、弟は向う側に立って、お玉杓子を片目にあてての検査々々、「あっ、今日は見えた、見えない」と一喜一憂したものでした。試験の当日は幸いにしてよく見えたそうです。

合格の電報を手にした時、こ踊りして「天下の難関 海兵 突破 !」と大書して、勉強部屋にはって大喜びした、その姿を、未だに忘れることは出来ません。

初の夏期休暇で帰省した時の、あの凛々しい軍服、短剣姿、それにもまして、素晴らしい海軍兵学校教育の成果を目のあたり、弟の心、身の成長の中に見まして、家族一同目をみはる思いでした。

私が今、私の三人の息子に望みますことは、どうか孝一叔父の精神を受けついで、良き社会人、職業人、として次代の日本を立派に背負っていってほしいということでございます。

(なにわ会ニュース45号13頁 昭和56年9月掲載)

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