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多田圭太の思い出

本山 和男

 ほっそりした美しい母君に手を預けた圭太の写真を見せて貰ったことがある。まだ学齢には達していないようであり、英国駐在武官の家族三人が倫(ろん)(どん)から帰国したばかりの頃、場所は館山、新たに海上勤務になった父君を訪ねた折と聞いたが、その後数年をへて四谷の小学校に入学、二年生になって直ぐ母君はなくなった。圭太の教育のこともあり、夛田中佐は間もなく再婚されたが、新しい母子関係は温かいものであったし、教育も十分眼が届いており、付属中学への入学も極めて自然なものであった。彼のクラシック音楽のレコード収集はその頃始まった。

 既に圭太は剣道に熱中する一方、伝書鳩の飼育と訓練にのめりこんでいたが、これらは彼が孤独から解放されるために自ら見出した優れた方法であった。多摩川マラソン、修学旅行などに専用のバスケットに入れた鳩数羽を携え、休憩時に放った低学年時代、付属中学剣道部の中堅として相手の選手を牛蒡(ごぼう)抜きに討ち取り、勝利の最高功労者となった高学年時代のことなど憶(おぼ)えている人も多いだろう。

 当時の中学剣道では片手による側面打ちは先生方にとっては奨励されておらず、竹刀から片手を離すなど許されないのが常であった。圭太は右横面を得意とし院戦でも派手にやってのけ、見事に決めた右手はさらに伸び残心そのままに思い切って道場を疾風のように斜めに駆け抜け喚声と共に腰高の大床間に飛び込んだ。その瞬間、彼我の応援団、観衆は、嘗て見たことの無い非日常の光景にただ呆気(あっけ)にとられるばかりであった。

 圭太が父君を尊敬して已まなかったのは当然のことであった。その理由の第一は多田中将(最後の海軍次官)がクラスヘッドであったことだろう。圭太は多くを語ったことはないが、「海軍大学には父を教えるだけの力をもった教官が誰もいなかったので入らなかったのだ」とポツリと言った。戦後阿川弘之がその作「井上成美」の中で多田次官を「凡庸な」の一言で切り捨てているが、圭太は次官就任のことも阿川の讒謗(ざんぼう)も知らない。

 ところで、圭太は何故あんなにお洒落(しゃれ)であったのか。その頃の用語では、何時もメカしていて、今ごろの言葉ではカッコよかったが、その原因はどこにあったのか。身嗜(だしな)みの大切さについては、海軍に入って直ぐに叩き込まれたが、後に、人によってかくも差がつくものかということに気づかされるところよりすると、圭太の超お洒落のセンスはただごとではなかった。

 どの写真を見ても、スカットして周囲の生徒、将校士官とはハッキリ異なる。付属時代、すでに短靴を履いていたし、毎年の服装検査でも、そのねらいはズボンのサイドポケットを禁止しようとする学校側の方針に背いて、そこを縫込み、閉じることに頑として応じないのは何時も圭太であった。圭太が冬でも穿()いていたサージのズボンの前側の「線」が見事に裂けたことがあった。これは、ズボンの「線」が失われることを嫌った圭太がアイロン掛けを女中さんに任せず、自ら高熱にして力まかせに連日のようにあてていたことに起因する。足も露(あらわ)になった圭太がどのように対応したか見届けていないが、かなり慌てたことであろう。

 

 江田島へは圭太と同行した。呉駅下車、直ぐに海が見え、そこには宮里大佐研究所(実は艤装中の戦艦大和)があり、偶々日没であり、港内一斉の軍艦旗降下を見た。海軍のことをまるで知らない者にとって、圭太はよい先達であったし、特に航空機についてはよく知っているが、江田島の千日間、すれ違ったことさえ数回しかなく、卒業後も一度も会わないままになった。

 旧制中学校レベルの校風を全国的に比較すると「蛮カラ」「知育会系」「軍人志望」の相関度はかなり高く、そこで見られる西高東低の傾向は今日でも同じようである。(防衛大情報)従って、兵学校のクラス(期)の気風も年度毎にかなり異なり、入校時の最上級学年の期風の影響を受け、俗に言う「土方(どかた)クラス」 「お嬢(じょう)さんクラス」に分けて語るものもいるが、それは単なる語り草にしか過ぎないし、圭太が「お嬢(じょう)さんクラス」の象徴になっているとは思えない。

 もう一つ触れておかなければならないことは、附属の最終学年時における学芸会での彼の独演ぶりである。アメリカ歌謡作詞・作曲の恩人フォスターになり切った圭太は楽しそうであったが、相手役になったものは、ありあわせの扮装(ふんそう)でごまかし、世にも哀れな脇役をつとめた。脚本・主演・監督を勤めた圭太の才能は捨て難く、戦後を生き延びても十分やっていける才能を持っていたと見られる。

 圭太は何故死に急いだかという問いは私の頭を離れず、私にとっては正しい問いであっても客観的には正しくないであろう。彼自身「そのようなことは決してない」と断言するかも知れず、事実の上からも、形式の上からも、彼に二階級特進をしており、多田少佐という扱いを受ける名誉の戦死を遂げている。

 戦場はフィリッピンのレイテ湾、神風特別攻撃隊第二朱雀隊隊長として戦闘機を操り一九四四年十一月十九日敵艦隊に突っ込んだ。突っ込んだ瞬間の圭太の心情はどのようなものであったか。私はただ、息を呑()む。

 父君が「凡庸な」と謗(そし)られたのは、戦争の末期に海軍のすべてを特攻戦術に任せ、その先端に立つことを主張し、実践したからであり、降服を「賢明」とすれば、抗戦は「凡庸」となろうが、その三十九年前、二〇三高地で二子息を失い、なお攻撃作戦を続けた父親乃木第三軍司令官の心情もあったかも知れず、そこで孝子 圭太が父君の心情に呼応し身を挺したのだとも考える。しかし、その原動力は幼くして亡くなった母君への思慕にあったとも思える。

(編集部注)

 この記事は、東京高等師範学校付属中学で多田圭太君と同窓であった本山和男の筆になるもので、市瀬文人経由で編集部に送られたものである

(なにわ会ニュース94号30頁)

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