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平成22年4月27日 校正すみ

平成6年3月寄稿

鈴木忠雄君の五十回忌に参列して

伊佐 弘道

鈴木 忠雄 伊佐 弘道

 平成五年八月三十一日付の葉書にて鈴木富千代氏(故忠雄君の弟、兵七十六期)より亡兄忠雄の五十回忌の法要を十月十七日午前十一時より執り行うとの御知らせを受けましたので喜んで参列させて頂く旨御返事申し上げましたところ、後日自宅の地図と七十二期出席者名(後藤(英)、今井(いずれも浦和中出身)、鬼山、谷内、伊佐 (いずれも艦爆出身)が、親切に同封されて来ました。

 十月十七日は昨夜来の雨がまだ降り止まず、西川口駅に着いた時も未だ降っていましたが、先日打ち合せた通り、午前十時半後藤、今井、鬼山、谷内と改札口で落ち合ってタクンー二台に分乗し鈴木家に向いました。鈴木家に着いた時は予報通り、雨も上り初秋の気があたり一面に漂って気持よく、鈴木君の五十回忌を執り行うにふさわしい秋日和となりました。 鈴木家の門を入ると左側が広い庭園で、松、杉、桧等を始めとして、梅、桃、柿、みかん等の果樹もあり、一見して田舎の庄屋の如き風情ある邸宅(敷地四九〇坪)でした。玄閲を入ると、左上手に八畳二間と六畳一問を、襖をとり払ってぶちぬきにして、亡父藤蔵氏(一間忘)亡兄忠雄君(五十回忌)の壮麗な祭壇が設けてあり、その祭壇には鈴木忠雄君の凛々しい軍服姿の写頁が飾られていました。 

 我々五名は暫時応接室で茶菓の接待を受け、其問鈴木忠雄君の昔の古いアルバムを拝見致しましたが、そのアルバムには百里空時代(艦爆学生時代)の写真が多く、今は亡き戦友が数多く再現し、当時のことが彷彿として思い起されました。

猛牛の如き川端、金時のような午尾(久)、ズーズー弁の折笠と増子、高橋ナグロウ、ガス金こと金原、ラージ・ノーズの西田、モモタロウの岡田、ナイスな深井、ヘルマンポスルキーの黒髪、体操の小鳥、マジメいちずな高崎、特攻の近藤(機)、女形の小山(機)、ダーティ園田(機)、等々の懐かしい艦爆野郎どもです。                  

 同じく艦爆出身の鈴木忠雄君も昭和十九年十月敵機動部隊が台湾沖に来攻するや、十月十四日K5の攻撃隊員として彗星に搭乗して、これを攻撃、雲を紅に染めて散華しました。同じく、T3の川端が十三日、T4の金原が十四日に台湾沖に散華しました。誠に痛恨の極みです。

 追憶の夢から覚めたところで、祭壇前に案内され、真言宗の老師の懇篤な読経が始まり参列者全員がご焼香を終わってから、裏の源永寺にある鈴木家並に鈴木忠雄君の墓所に参詣する。

 墓参は厳粛なうちにも温かく行われ、線香の煙が初秋の墓前にたなびき、参列者の気持ちが故人に伝わっていくかの如くでした。

墓参後全員は再び鈴木邸にもどり祭壇前で盛大な直会が行はれました。まず、ご遺族を代表して鈴木富千代氏がご挨拶並に全参列者のご紹介をされ、続いて我々五名が順次鈴木忠雄君の追憶談を語り、会は盛大且故人への限りなき追慕のうちに終りました。

 思へば、平成五年及び平成六年は、今は亡き戦友の五十回忌です。戦没した戦友のご冥福を祈るとともに、彼等の遺志を後世に語り継がねばならないことを再確認すべきでしょう。

戦友やみ霊よ 安らかな打

我等は貴兄等の 志を体し

神風の剣 祖国を救いしと

百年の後まで 語り継がん
(なにわ会ニュース70号15頁)

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