平成22年4月27日 校正すみ
昭和58年3月寄稿
清水 武・元木恒夫中尉の最期
赤城飛行長 増田正吾遺稿集「赤?賦」より
特攻隊指揮
昭和四十一年六月四日 正 吾
清水 武 | 元木 恒夫 |
これは、昭和十九年十二月二十四日以後の陣中日記を書き写したもので、殆んど原文のままである。
特攻機を指揮して、幾多青少年を死地に投じ、自らは命長らえて恥多し。敢えてここに書き更むるは、一つには亡き部下に手向けたき気持と、一つには子孫をして後日ひもといて、かかる事実のありしことを知らしめたき念願からである。
書中( )内は、清書に際して附記したるものである。
昭和十九年十二月二十四日
神風特攻隊金剛隊の一部をバタンガスに進出せしめられることとなり、これが基地指揮官を命ぜられる。
七六一航空隊の彗星にて、攻撃隊とともにマバラカット基地を出発し、バタンガス基地に着陸す。大橋中尉、吉村主計大尉、小島軍医大尉、東山氏、花田整備兵曹長、新城(コレヒドールにて戦死)、兵約五十。
特攻隊を指揮して、よく戦機に投じ、若き武神の念願を達せしめるは、実に我が責任なり
我今、生れて四十有余年。長く航空の事に従い、ここに皇国危急存亡の秋に際会し、この重責を負う。実に感慨無量、当に粉骨砕身の努力をいたして遂行せざるべからず。我さきに、かのケンダリーにありしとき、彼地を墳墓の地と思い、定めたりき。しかるに、今またこの地に移り一望するに山高く海近く、草木深くして緑多し。此の地また故郷の風景に似たり。さればここをもって第三の故郷として骨を埋めるべし。
特攻隊の編成 次のとおりなり。
直接掩護隊
海軍中尉 清水 武 山口県山口市古熊一九七
上飛曹 荒井敏雄 千葉県香取郡八都村小見六六
二飛曹 谷内善之 富山県氷見郡上庄村柿谷三八九
二飛曹 児島 茂 群馬県伊勢崎市美茂呂町三五五八
特別攻撃隊(第十五金剛隊)
海軍中尉 増田 脩 名古屋市昭和区長戸町四丁目二一
一飛曹 小野田敏明 東京都杉並区馬橋三の三〇一
二飛曹 伊藤 弘 兵庫県姫路市京町二丁目五二
飛 長 山脇 速 高知県幡多郡大正村打井川一六三三
攻撃隊指揮官の同姓なるは、また奇縁と云うべし。我伊勢の国に生まれる。今神風特攻隊を指揮することとなる。神助必ずありて偉功疑いなかるべし。
昭和十九年十二月二十六日
隊員と晩餐を共にし、一杯を傾く。あすをも知らぬ生命とも思はで「鳴呼久しぶりに快しや」と楽しげに箸を取りたり。
昭和十九年十二月二十九日
特攻出撃の目なり。敵はミンドロ島サンホセに進攻基地を構えんとて、数十隻の輸送船続々と入泊するとの報告なり。特攻はこれら輸送船隊にかけられた。
未明のほの暗き食堂にて出撃の命を与え、別れの盃を交したるあと飛行場に向う。いよいよ機上の人とならんとする増田中尉とかたき握手を交す。無言のまま互いに焼きつく如き瞳を交える。「やります」と魂の奥より絞るが如き一言を残して、愛機零戦に歩を運ぶ。基地隊員全員、帽を振って見送る。
最若年の山脇飛長、紅顔の美少年である。梢紅潮せる貌に決死の相を示して導くもこれを機上に仰ぐ。滑走を始むるや我より挙手の敬礼をなせば、彼機上より答礼して離陸点に向う。小野田、伊藤両勇士また等しく機上より答礼して雄々しくも大地を離れたり。
ミンドロの山をのぞみまっしぐらに進撃して行った零戦の小さくなり行く機影に合掌せり。直掩隊との連携に欠くるところありしため、戦果を完全に確認し得ざりしは口惜しき限りにして、武神に対して申訳けもなき始末とはなれり。
直援隊、先に離陸して上空に待機し、攻撃隊の離陸後、これに合同して進撃する計画であったが、攻撃隊の一気に突進せんとする攻撃精神は、直接隊を待ち切れず無帽の形にて進撃し、ために直接隊はこれを追跡せしも遂に完全に合同し終わらざりき。
戦果 巡洋艦一隻撃沈。あと詳細不明なり。
青少の純血をして、完全な姿で突撃し得しめざりしは、指揮官たりし我一生の痛悔にして、終生償い得ざる罪過なり。謹んで地下に謝す。
夜更けて人還らず。燭光の下静かに航空図に面し、今は神となりし故人を思う。東亜永遠の正義のために潔く殉国の誠を捧げて、人機ともに華と散りし人柱に悠久の栄光あれと祈る。
昭和二十年一日一日
大東亜戦第四年の元旦を、ここバタンガスの基地で迎う。支那事変より起算すれば実に九年なり。一度は電撃して北はアリューシャン、南はガダルカナルにまで進攻せしが、今は遂に非島(フィリッピン)の線に退く。
× × ×
昭和二十年三月一日
着任・台南基地。正に我が死処たり。
昭和二十年三月二十五日
台中派遣中の特攻銀河及び彗星、沖縄方面敵機動部隊攻撃に出でて遂にならず。或いは自爆し、或いは空しく帰る。
台南基地を出発するに当り、所持の金全部を飛行機増産のために献ずとて残し託したり。殉国青少年の純情忠烈涙なき能わず。和歌二首を記しあり。
神かけて 武運祈りし諸人に 感謝捧げつつ 今ぞ出で立っ
たらちねの 親の御恩に報いなむ 今日の出で立ち 伝へてしがな
銃後の人々にも感謝しつつ国の栄えを念じて死に赴かんとす。愛(いと)しき限りなり。
昭和二十年三月三十一日
月明を利用して、沖縄周辺の敵攻撃に向いたる中攻二機、遂に消息なし。隊長鹿野大尉機及び中島中尉機なり。
昭和二十年四月一日
新竹より彗星四機、特攻に出でて皆成らず。或いは引き返し、或いは不時着し、或いは不明となる。 嗚、機飛ばずこれを如何せんや。銀河一機、零戦直掩四機、一四三〇発進す。飛行機の可動少なくして只茫然たり。黒板に機の番号を徒に列記し、塔乗員整備員とも眉を愁(うれ)いて苦悩する姿見るに堪えず。
特攻隊員の出で発たんとするとき、眉秀で頬紅き若き兵あり。生まれて幾年をや経ぬる。血で染めにしや、黒じゅめる日の丸の鉢巻をしめおれり。命を受け終りて機上の人となるや、見送る人々に挙手で応えつつ是が最後とも思えぬにこやかなる頬にてほほ笑みぬ。短さ人生にうらみもなきが如くは見ゆれども、その衷情を察すれば涙なき能わず。
皇国のあらん限り若き武神としての誉れは朽ちざるべし。命のみにて 足らず所持の金もまで献じ、あらゆるものを捧ぐる心なるベし。嗚呼!
昭和二十年四月十六日
九六艦爆特攻隊忠誠隊の命名式あり。
元木中尉を指揮官とする二十五名の青少年に対し、大西長官親しく諄々として説かる。日本に降服なし。一億必死となりて、敵を迎え打たば、分悪くとも数百万を倒し得べし。百年の後、神風の剣、祖国を救いし勇士ありしを語り継がん。恐らくは国の宝ともならん。長官更に書して与う。
青少之純 起神風
下田大佐台南を去りて、新竹に移らんとする。夕食を曙楼にて共にする。送って台南駅に至る。暗き構内にて手を振って別れぬ。恐らくはこれが永別とならん。顧みれば大正八年兵学校に入りしより、二十六年の級友なり。我は頭髪少なくなり、彼は白髪多くなりぬ。年を経て朋友の親しむべきを知る。乗用車故障のためトラックにて駅にかけつけしは思い出なり。
友去って盃重し春の宵
昭和二十年五月九日
忠誠隊台東進出の日なり。これを帰仁基地に送る。このとき台北市高等法院上告判官草薙 晋氏令閏みさを様両名の名にて 息子 字君が予備学生中病死して戦場に出られなかったことを恨み、遺髪とマフラーを托さる。
特攻隊突入の際、子息 字の魂として同行されたしとの希いなり。
マフラーの一端に「必中を祈る みさを」とあり。
スターリンは、本日対独戦争が燦然たる勝利をもって終結せる旨宣言せり。これをもって今次欧州大戦は終焉せりと云うべし。
思えば昭和十四年八月、独逸の対英仏宣戦以来五年八ケ月の歳月は、欧州の天地を哨煙に包み弾雨にて蔽い、幾多の生命は露の如く消え、物皆亡びたりと申すも過言ならず。ヒットラーの覇業は空しく、ゲルマン民族千年の夢はかなくなりたり。
それにより大東亜戦争に及ぼすところ如何ならん。皇国今後の運命に甚大なる影響あるべきは最早疑い得ず。戦局は一喜一憂せんにはあまりにも深酷なる一線をすでに越えたり。人類をあげて死闘する姿は、宿命なりとして一蹴せんにあまりにも悲惨なり。あまりにも愚かなり。もし、千年の後世、史家は、今次の大戦を如何に叙述するや。恐らくは未開時代の一闘争として、僅かに一頁を割くであろうか。生けるもの死せるものすべては、永遠につながる。
昭和二十年五月十三日
先に台東に進出せし、元木恒夫中尉隊は、この日宜蘭(ぎらん)より沖縄方面進攻の敵機動部隊に突撃せり。九六艦爆六機なり。宜蘭に向って出発せんとするに際し、台東飛行場にて書き残せる遺書次の如し。
深甚なる御配慮御考察を謝す。天皇陛下万歳。
増田大佐殿
原文は鉛筆書きなり。遺書は、遺族に渡してもらうよう昭和三十一年七月三十一日永石正孝氏に依頼した。これに対し永石氏からの返事は次のとおりである。
冠書
五日附御依頼の絶筆 本日左記へ郵送いたしました
元木 たつ (母)
尚、久保中尉の父弥作氏は、富山県高田市定塚町一の二でありますが、柿本茂氏については、扶助料請求の様子なく御遺族について詳細わかりませんでした。
(編者注 本稿は福嶋弘から大谷友之を経由して送られてきたものである。
清水 武は二十年四月一日、第一大義隊々長として宮古島南方で散華している。
増田正吾氏は兵学校50期、55・9・28没)
(なにわ会ニュース第48号12頁)