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平成22年4月27日 校正すみ

「無名の碑 清水武」を読んで所感

 桂 理平

 これは実弟の昭さんが兄武氏の海軍生活と戦死の状況を全力で調査して、昭和49年に完成された追悼文であって、読んで感激しています。実によく調査してあり、その立派な戦歴は素晴らしく満腔(まんこう)の敬意を表します。彼とは兵学校の2号生徒の時に第4分隊で1年間寝食を共にした仲間であるので、改めて当時を思い起して懐旧の念に包まれています。

 付け加えると、同じく戦闘機乗りになり、昭和20年1月上旬ルソン島リンガエン湾の敵の上陸作戦に際して敵艦に体当たり攻撃をし、戦死したと言われる太田正一君は、同分隊で私と寝台が隣同士の親友でした。

 清水君は運動神経が抜群であって、特に体操と水泳を得意とし共に特級と認定され、訓練用白帽子には黒線2本が入っていた。太田君は純情、誠実、真面目で、あの闘志が何処に潜んでいるのかと思わせる好青年であった。

 第4分隊の2号生徒は水上艦艇に進んだ真崎(以下敬称を略す)、鈴木()、桂を始めとして、航空畑に進んだ清水、太田、本間、難波()、木村(G)、藤田()、伊吹の外、潜水艦には亀井が行った。更に在校中に短艇競技で準優勝した時、全力櫂漕(とうそう)して悲壮な殉職を遂げた田村誠治がいた。合計12名であった。

 昭和18年9月に兵学校を卒業して後、真崎が19年6月にタウイタウイ島の機動部隊泊地の外側の海域で駆逐艦谷風が敵潜に撃沈されて戦死したのを始めとして、厳しい戦闘を戦って戦死者が多く出て、終戦時に生き残ったのは鈴木、伊吹、桂の3名のみであった。

 当時の第4分隊の伍長(1号生徒の最先任者)は1年先輩の二階堂春水さんであった。この人は率先躬(きゅう)行を実践する武人の典型であったので、私が心から尊敬をしている先輩の一人である。

昭和52年秋に、終戦後約33年にして、その世話によって、第4分隊の戦死者の慰霊祭が、京都東山の名刹(めいさつ)南禅寺山内の専門道場で行われた。藤平宗徹管長が戦争末期に海軍航空隊で二階堂さんの部下であったご縁によるものである。

 管長が専門道場の修行僧約30人を引率して式を行い、管長らの読経の声は重厚に朗々と山内に木霊し、その光景は立会いの遺族、生存者の心に深く刻まれた。その時、伍長が朗読された「哀悼の辞」を記録に残しているので、次に引用する。戦死者を悼む切々たる真情が文中に溢れている。

 その伍長も先年他界をされ、寂寥(せきりょう)の感が大である。そして現在(平成1810)では2号としては桂が唯1人残っている次第である。

(なにわ会ニュース96号42頁 平成19年3月掲載)

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