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平成15年3月寄稿

兄を想う

嶋津 強(義公の弟)

嶋津 義公 航空母艦 神鷹

 昭和十九年十一月七日、空母神鷹乗組の兄が東支那海で戦死してから五十八年が過ぎた。戦死の公報は、昭和二十年二月頃、海軍大臣米内光政名で届いた。届いた「遺骨」は空箱であった。享年二十二歳。

 兄が戦死した当時、私は国民学校三年生であった。我が家は、父義孝、母美喜を両親とし、戟死した義公兄を頭に、九人の兄弟姉妹(四男五女)である。一番上の義公兄と私は一回り、一番下の弟とは十八も年齢差があった。

 義公兄は海兵入学以来、ほとんど家にいなかったので 年齢差もあり、兄のことは余り覚えていない。従って、その後、両親や業兄(二番目の兄で海経に進んだ)或いは姉たちから聞いた話として覚えていることが多いと思う。しかし、兄戦死の公報が入った時のことは割合覚えている。公報を受け取った際、割烹着姿のまま.仏壇の前で、声を押し殺して泣き崩れていた母。翌朝、顔中擦り傷だらけ、洋服は泥だらけ、眼鏡を失くして ひどい有様だった父。

 後で姉たちから聞いたところでは、兄の戦死を知らされた父は、その晩、やりきれない思いで、前後不覚になるまで泥酔したらしい。

 両親は、最も期待していたかけがえのない兄に死なれ、その打撃はとても表現出来ないほど大きなものだったと思われる。

 「なにわ会」については、両親の晩年の姿と重なって覚えていることが多い。

 一つは確か東京オリンヒックの頃だと想う。九段会館での「なにわ会」に母が出席した時のことである。「なにわ会」の諸兄にお会いした母は『兄さんに会ったような気がする』と上気した様子で私に語り、とても喜んでいた。

もう一つは、毎年お盆の時期になると、豊田さんか桑原先生が必ず焼香にいらして下さり、そのことを両親が何よりも楽しみにしていたことである。私が盛岡に行くたびに、両親はいつもこのことに触れ、二コ二コしながら.「義公がまた来てくれた」「兄さんに会ったようだ」と話すのか決まりであった。

兄二人が海軍だったので、どうしても海軍にまつわる話、事柄には特に関心がある。

阿川弘之の「山本五十六」、吉村昭の「戦艦武蔵」を始めとして、豊田穣、江藤淳、奥宮正武、秦邦彦、半藤一利、三野洋等々の作品を割合読んだつもりである。

 こうした作品もさることながら、実際の海軍を知る事も心掛けてきた。仙台港や小名浜港に寄港した「しらせ」や掃海艇、或いは外国の艦艇を見学した。しかし、仙台では、陸上自衛隊、航空自衛隊は基地、駐屯地があり、訓練展示に触れる機会があるが、海上自衛隊は横須賀か大湊と遠く、見学に機会が少ないのが残念である。そのうちに観艦式を是非見学したいと思っている。

 それはさておき、定年後、兄の足跡を少しばかりたどることができた。

 一つは、平成七年十月、金沢護国神社における「空母神鷹会」に参加し、軍艦には大勢の人が乗組んでいたのだと言うことを改めて実感した。

 もう一つは、平成十年十二月、念願の江田島を訪れることが出来た。義公兄の銘牌、戦死者名簿、神鷹の沈没地点等を確認した。万感胸に迫るものがあった。

 神鷹の最後については、石渡幸二著「軍艦物語」の記述が艦艇の説明、経緯等極めて親切であり、最も肯綮(こうけい)に当っていると思われる。

 戦後も五十七年、両親も既になく、私も馬齢を重ねて六十七歳になった。この頃になって、両親が生きている間に、兄についてもっと話を聞いておけばよかったと思うことが多い。ともあれ、兄を思うとき、私の脳裏に浮ぶ兄の面影は何時までも、二十代のままである。

(なにわ会ニュース88号65頁)

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