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平成26年6月寄稿

空母神鷹洋上慰霊の記

飯沼 和子(嶋津義公の妹)

嶋津 義公 航空母艦 神鷹


平成18年暮、たまたま入った交通公社で「飛鳥U就航一周年記念上海・大連浪漫クルーズ」というチラシを見つけ、手にとってみると、横浜出港後・長崎に寄港して以下上海・大連を訪ねて横浜に帰って来るというクルーズで、航跡を見ると上海を出て、大連への航路が、私の兄の乗っていた空母神鷹の沈没地点(東支那海)を通過するように見え、早速郵船会社へ船長宛に手紙を出しました。

「上海より大連へ向かう時、東経123度38分北緯32度5分の地点を通りませんか。この地点に私の長兄、および艦長、石井少将以下千百十余名の乗った航空母艦、神鷹が沈んでいます。若し通るのであれば妹としてぜひ慰霊したいのですが…」

と。 すぐ船長よりお返事があり、

「少しそれるのですが通ってあげます」

とのこと。
早速、妹3人、仙台の弟へ連絡して乗船を申込みました。
昭和五十年代だったと思いますが、宝塚市にお住いの岡村信幸氏が、朝日新聞に投稿され「神鷹の乗組員の遺族の方と連絡したい」とのこと。早速お手紙を差上げました。

ご存知かと思いますが、空母神鷹は旧帝国海軍の軍艦の中で唯一の外国船籍の船です。ドイツのブレーメンで建造され「欧州航路の貴婦人」と言われた豪華客船シャロンホルスト号で、昭和15年日本へやって来て神戸に入港中ドイツが連合軍に宣戦布告した為、帰れなくなり、戦争に勝った暁にはドイツに返還してもらうという約束で日本海軍にゆずり渡したのだそうです。すぐ日本では呉で解体、航空母艦に変身、神鷹と命名されました。これは余談ですが沢山の客室にあった鏡が、その頃、婚約が決まり東久邇盛厚殿下へとつがれる照宮成子内親王に、献上されたそうです。岡村さんはドイツの製薬会社に勤めておられたので、ドイツにも行かれシャロンホルスト号にも乗られたことがあり、最後の神戸入港の際も神戸に行かれその姿を見られたそうです。 戦争さえなければ軍艦にもならず、大勢の人に平和な旅を楽しませたであろうと、海底に眠る神鷹の洋上慰霊を相談されたのです。慰霊といっても洋上であれば船を一隻チャーターしなければならず、費用も重く当時の遺族の方々から申込は35名しかなく、中止となりました。

一度も行ったことがないのですが神鷹の母港は舞鶴だった由。
神鷹は昭和19年11月17日午後11時頃、上海に近い東支那海でアメリカの潜水艦からの魚雷により沈没致しました。乗船者千百十余名中、生存者は62名ときいています。比島策戦の援護の為、6隻の船国で陸地沿いに南下中だったそうです。 生存者の将校で73期の今野忠豊少尉が中心となって一度、金沢の護国神社で合同慰霊祭を行い私も参加いたしました。

義公の海へ行きたいと申していた両親もすでに亡く、飛鳥のクルーズへきょうだい4人で乗船、(2番目の妹は乳がんの手術後でドクターストップ)平成19年3月10日横浜の大桟橋より出港、一路南下して翌日長崎に寄港。
私達は先ず花屋を探して戦死した兄の大好きだった白百合等二抱えの生花を船の居室に運びました。

3月15日船長さんとの打ち合わせの通り早朝7時上海を出港。わざわざ副船長がお迎えに来て下さり、私共は第7デッキの後甲板に生花・盛岡の御酒や菓子・果物等を運びました。

沈没地点に到着、船長は汽笛を鳴らして下さいました。
黙祷のあと、つたない乍ら私が、今迄慰霊に来れなかったことのお詫びと平和になった日本の現状への感謝を申し上げ、どうぞ安らかにおやすみ下さい、どうぞ風になって、皆様の故郷へ帰られて下さいと申し上げました。
洋上に花やお酒・お菓子・果物・手紙を撒き、最後にワインを注ぎましたら海面が血の色になり、海底の皆さんがこたえて下さったと涙があふれて仕方ありませんでした。
東支那海は鳥の姿もなく、海の水さえ濁っておりました。兄を始め将兵の皆様も軍艦が枕では、さぞ安らかにねむることが出来なかったことでしょう。

眼を閉じるとハンサムだった兄義公の顔が浮かびます。僅か21歳。千余名の遺族にかわって僭越乍ら本当にご苦労さまでした。これからもどうぞ日本を見守って下さいと申上げてきました。 あれから7年。今でもあの濁った海の色が忘れられません。まっ青な海になることを祈っております。

                           平成26年6月4日 海軍大尉 嶋津義公 妹 飯沼和子 代読

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