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平成22年4月27日 校正すみ

昭和53年3月寄稿

関谷年男君奮戦の跡を偲んで

上田 敦

はじめに

 関谷年男君は、大正12年2月8日愛知県新城市に出生(昭和34年のご尊父のご連絡では3月5日出生となっているが)、愛知県立時習館豊橋中学校・海軍機関学校(第53期)・海軍練習航空隊飛行幾整備学生(第34期)を経て、昭和20年7月20日第341海軍航空隊戦闘第402飛行隊付【兵力部署では、クラーク防衛海軍部隊としてイバスラ方面で戦病死したことになっていた。

ご母堂キン様とされては、関谷君の戦没状況になみなみならぬ関心をもっておられた(別掲第一 49・4・13付書翰参照)が、当時防衛庁戦史室在職中の小生としてもいかんともいたし難くご期待に副えないのが残念であった。

 ところが、昭和51年新春に当たり、ご母堂キン様から「中村信義氏(筆者注・・中村正義氏の誤まり)より赤松信乗氏の戦場日誌を受領、戦病死の詳細判明」の旨、年賀を頂いた。(別掲第二・・・年賀状参照)しかし、中村信義氏が整備学生一クラス上の正義氏であることも、赤松信乗氏の日誌が刊行されたことも承知しないまま、小生としては打ち過ぎざるを得なかった。

たまたま、舞鶴の海軍機閑学校慰霊塔名板の改修が行なわれることとなり、昨52年夏、記載事項の確認を求めたところ、ご令弟節郎様から「命日 昭20・8・3、部隊名 戦闘402飛行隊、場所 フイリッピン・ルソン島・イバスラ地区カテガイ」に訂正を求められ、証拠として赤松信粟著「赤松海軍予備学生日記」を示された。そこで、折返し、当該日記の借用方をお願いし、関係者各位にご披露申し上げる次第である。

 

赤松信乗著「赤松海軍予備学生日記」の抜粋、

 筆者注‥赤松氏は、徳島県出身、京大法学部卒、第14期飛行専修(要務)予備学生、戦闘第711飛行隊付として、クラーク防衛戦に参加、第17戦区三、〇〇〇名中僅か13名の生存者の一人として、20・9・16武装解除、同年11月15日加治木着、徳島県市場町尊光寺住職として現在に至る。
 この著書(48・8・4轄u談社発行)は、同氏の比島マルコット基地進出(19・12・5)後の日誌を整理されたもので、玉砕をやめ遊撃戦に移った海軍部隊(20・4・23クラーク防衛海軍部隊解隊、5・2第17戟区部隊解隊)の悲惨な飢餓戦の実相と一・二航艦司令部戦場離脱(20・1・8)の真相については、深く心を打つものがある。
 
 比島地上戦で戦死した期友には、前述の関谷・成瀬両君のほかに、

青木光雄(4・24 攻3)  菊池滋(9・11 偵301) 
岸 昭(4・24 戦312) 国生真三郎(5・27 北比空) 
掘 哲男(2・27 攻5)  増井吉郎(4・24 戦313)
松山行輝(4・24 戦315) 山崎 登(6・7 戦701)

などがあるが、最後を偲ぶよすがとして是非一読をお奨めしたい。別掲第三は、関谷・成瀬両君に係る記事の載っている部分の抜粋である。

 

【別掲第一】

 前略 ご無沙汰申し上げまして誠に失礼致しております。漸く春の季節となって参りました。

お元気に在らせられますことと、ご推察申し上げております。

私事、海機第五十三期生関谷年男の母でございます。

 

 いつもなにわ会のお世話を頂きまして、ニュースをお送り下さいまして誠に有難う存じます。拝見させて頂きます度に思っておりましたことを申し上げまして、お願い申し上げます次第でございます。

と申し上げますことば、あの激戦の最中での戦病死でございますので、誠に困難な願いと存じましていつも心の中にありながらお尋ね申し上げるすべもございませんでしたが、一昨年主人他界致しましてからは、私も病のため不自由の体となりまして、一層故年男の戦病死の時の状況を少しでも知ることが出来ましたならという願いから、皆様の中にて何方様か状況をご存じのお方様がおられましたら、お聞かせ頂くことができましたらと、毎朝仏壇に焼香致す度の思いでございます。

 三十年も過ぎましたる今もなお、断念致すことができません。身体障害のため國へ参拝もかないませず、只今はそのことが心に掛っておりますので、思い切ってご相談申し上げる次第でございます。ご多忙にいらせられます中を誠にお手数をお掛け申し上げまして恐縮に存じますが何卒お願い申し上げます。

 なお、当時復員庁第二復員局人事部長川井巌様よりのご通知によりましては、戦闘四〇二飛行隊分隊長として服務中、昭和二十年七月二十日比島方面にて赤痢のため戦病死を遂げられましたー とのご通知でございました。

これだけわかっておりませば、これ以上の状態を知り度いと願うことは、やはり無理なことでございますなれば、それであきらめることができますが、一度ご相談致して見度いことが私の最後の願いでございましたので、誠にお恥しながらお願い申し上げる次第お許し頂き度右お願い申し上げます。  かしこ

  四十九年四月十三日    

 関谷 キン

    上田  敦様

 

【別掲第三】 赤松日記より

一月二十日(昭和二十年)

 B24一編隊二十四機が北方より侵入。パンパン市街を爆撃。蓄積の弾薬が大爆発を起す。敵機の去ったあと、昨日見付けた兵器が気になり駆けてゆく、無事。熱でふらつく体でトラックに立ち、作業員に運ばせる。小銃弾薬を数える。米式小銃七十二、同弾二十五箱、手榴弾三百、信管、軍刀、ダイナマイトなど多数。こんなものでも大きな戦力。陣地でも大歓迎。

 すでに春口や成瀬中尉は先発として新陣地に出発したとか。敵はタルラック市に侵入し始めているらしい。市街の炎上が夜になるとよく見える。輸送隊の食糧搬入は依然続いている。原地人そっくりの服装をした憲兵が司令部濠に出入りするようになった。住民は全部ゲリラ化していると大声をあげる。食糧徴発の主計士官がもう何名も帰って来ないらしい。

 

四月七日

 本部は飛行長や成瀬中尉等が出発した。主計隊も残りの食糧の輸送に全力をあげ、ピナツボ山中腹迄運んでいるとか。角谷主長と会う。主計科の連中は、われわれと違って美食だ。個人用の食糧も背嚢にギッシリ詰めている。われわれの中隊は、各人に分配した食糧の残りを中隊補給用にし、各小隊に移送員を置くことにした。従ってまた小銃を少なくする。第一小隊には擲弾筒と弾十二発。第三小隊は軽機と弾丸が入っているから各人の小銃弾を二百発までにした。また拳銃弾は百発にする。手榴弾は各人三個。武装はそれのみ。終日、籾(もみ)を米にすることが、われわれの仕事。

 

六月十九日

 大隊長の意向で小屋を一つ病室にすることになったらしく編成替えをなす。実際はその対象とする大部分は、そのまま部屋に居残る病人なのだが、その食糧の所属を残りの三つの小屋にするためである。何のことはない。

 関谷中尉が病人ばかりの中で困っている上に、食糧は雨に打たれ芽を出しかけているのを利用するだけとの話であった。三中隊、五中隊、大隊本部の三つの単位になる。顔も知らない隊員が三人増えたが、籾の代償に過ぎない。同時に各隊の病室係が定められた。(主として次席士官) 田中軍医の指揮を受け、患者の食糧に万全を期すというのだが、表裏は逆で、内規として、病人の食糧一人一日七〇グラムに決め、火気厳禁ということになる。二食しか与えず三人に飯盆一つの薄いカユである。一日二回くらい見廻りに行くが、どうも立上ると目まいがするようになった。私ももうすぐこの病室に人らねばならぬかと思うと淋しい。

 

六月二十九日 

 偵察に単身カミリン方面に出ていた関谷中尉がフラフラになって帰って来た。北方方面には食物もなく警戒は厳重だという。道路沿いの山には所々にマイクが仕掛けてあり、カミリン、リンガエン方面には入り込めぬらしい。噂によると飛行長、司令の組はこの附近で消息を断ってしまったというが、何分関谷中尉自身が発熱し、二日(?)も薮の中でうなっていて、どの道をとって帰って来たかも憶えていないのだから仕方ない。大隊の意向も先ず当分ここで鋭気を養うというのだが、鋭気どころか、次第に死滅する公算が大である。

 

七月十四日

 案のじょう、夜の間に合田上整は死んでいた。苦しかったのか昨日着せてあった合羽まではね飛ばしている。何日も意識がなかったためか、口にまでよく見るとウジがわいている。勿論、尻にはずっと大きいのがいる。朝のうちに下の基地に埋葬。病室でも五中隊の者が一名戦病死。名前未詳。午後、大隊長の命令で五中隊は解隊となり、関谷中尉、望月兵曹は大隊本部に。田中医中尉と清野整曹長、林兵曹が三中隊に転入して来る。勿論五中隊の籾も二分するが、思ったより少ない。隊員はこれで中村大尉、田中医中尉、私、清野整曹長、江崎兵曹、渡辺兵曹、北川兵長、西井兵長、林兵曹の九名。

 

七月二十六日

 E隊攻撃の計画が成った。大隊長はこの攻撃に参加できぬ程の体力の者は病室に送ると申し渡した。病室に送られることは先ず死の宣告と異なる所はない。マラリヤと栄養失調で倒れていた関谷中尉は、その命令通り病室に送られ、一日僅か二合の籾、米にすれば一合の支給を受けることになった。整備士であり、十七戦区副官であった彼。

 

八月三日

 近頃、米の消費は以前の倍以上らしい。病室では関谷中尉が飢死したが、兵員室は満腹だ。もう病室には小林兵曹と某上整の二人しか残っていない。米の関係からか、大隊長は急に予定を変更して八月中旬に出発せねはならぬという。いろいろいってみたが、結局は米だ。元気をつけるために飽食して、少しずつ長く食うことは止める方がよいと決った。

(この日記をお読みになった関谷のお母様のご心中、察するに余りあり。関谷はじめ比島に散ったクラスメイトの冥福を祈るのみ。  上田 敦 合掌)

(なにわ会ニュース38号45頁)

(何に

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