平成22年4月27日 校正すみ
平成9年3月寄稿
人間魚雷回天を運んだ故海軍大尉齋藤徳道を想う
ー伊号第三十七潜水艦の最後ー
山田 穣
齋藤 徳道 | 山田 穣 |
プロローグ
「宮城県桃生郡河南町」
東京に生まれ育った筆者にとっては全く土地勘の無いところであった。初めて訪れたのは、昭和六十年九月である。
駅前の町並みはすぐ終わり、イリゲーションが用済みとなり、乾燥された水田には、刈りとり寸前の稲田に、頭を垂れた稲穂が黄金の波を打っていた。見渡す限りは、田圃、田圃であった。まさに、ここは、天下に名高い「ささにしき」のふるさとである。空には航空自衛隊の松島の基地から飛び立ったジェット機が数機、飛行機雲をひつぼりながら、アクロバット飛行の訓練中であった。
上をみれば、ブルーに輝く桃生の青空。なびく数本の飛行機雲。下をみれば、黄金色に輝く豊かな稲穂の波。そのコントラストは、東京などの都会には窺い知れない、キュービックな空間美そのものであった。級友、齋藤徳道は、こんな自然の中に生れ、育った。
河南町須江山崎の齋藤さんのお宅にお伺いしたのは、遅れ馳せながら、故海軍大尉齋藤徳道のお墓参りを思い立ったときであった。海兵の同クラスの者、数名と一緒であった。由緒ある菩提寺であろう。西雲寺に到着。
齋藤家の先祖代々のお墓にお参りし、一同で住職に、お経をあげて戴いた。惜しむらくは、墓参の遅かりしことであった。
本堂広間の左横に、このお寺の檀家の方々であろう、戦死された英霊の写真が飾ってある。こうしたことは、終戦までの間は、決して珍しいことではない。しかし、戦争が終わり何十年。今日の日本では、戦争否定が行き着くところ、お国のために戦死した英霊のお写真を、いまでも、本堂の壁面に飾っているところは、他に見たことがない。西雲寺の住職の心意気がしみじみと伝わってくる。
それらの写真は、過ぎる明治の戦いから、この村から出征し、そして戦死された英霊の写真である。現在のご住職のご先代、あるいはまた、その先代からの継承であろう。この写真の列の最後の方に、故海軍大尉斉藤徳道の写真がある。
齋藤一族は、平成四年一月に逝去された徳道の母親ナミ様、平成八年三月に急逝された徳道の次弟豊様を始め、徳道の妹さん等、稀に見る情に厚い家庭である。多くの戦死者を出した家庭は沢山あるが、齋藤一族ほど、毎年の慰霊祭に家中あげて熱心に参加される家族を、筆者は、寡聞にしてしらない。
さて、本稿は、河南町の町史に関わる企画であって、町史の一部として、この町からかっての大戦に参加出征され、惜しくも戦死された英霊に関する方々を記録に留めようとするご計画であると承った。河南町の町民の方々、その代表としての町長、町会議員の方々のお考えには、筆者として、大きな感銘を受けた。まさにそれは、現代の都会では考えられない古くて新しい企画であり、世界に冠たる日本農村文化の華として誇るべきものであると思う。
縁あって、ここに故海軍大尉齋藤徳道の在りし日を偲び、その戦歴を記して、河南町の町史の一貫を飾り得る機会を戴いたことに、筆者は、深甚なる敬意を表したい。
齋藤徳道と海軍
「泪洞羅 (べきら) の淵に波騒ぎ、巫山 (ふざん)の雲は乱れ飛ぶ。
混濁の世に我立てば義憤に燃えて血潮湧く」
昭和の初年、の「昭和推新の歌」である。大正の末期に生をうけ、どうやら物心のついた昭和の一桁。その頃、わが日本の実状はこの「昭和維新の歌」に端的に歌い込まれている。言うに憚(はばか)るが、東北の農村には、娘を遊廓に売らねば食っていけなと言う貧農の家庭もあった。そこに、満州事変も起き上海事変も起きた。五・一五事件、二・二六事件も、そうした疲弊のどん底に喘ぐ農村を救うべく起きたもので、まさにそれは、昭和維新の到来を必要として叫ばれたものであった。
齋藤徳道は、そのような時代に桃生郡において生を受けた。いうなれば、軍国主義の時代である。長ずるに及び、支那事変となり、大東亜戦争へと拡大した。歴史観を述べるときに注意しなければならないことは、論者として、その時代とその時代の背景を踏まえて論を展開すべきであり、平和で豊かな現在の感覚で、現在の価値観をもって短絡的に論ずることは許されない。したがって、齋藤の被教育時代は、軍国日本の時代であったことはそのとおりであるが、祖国を救い、日本の礎になろうという志は、平成の時代の価値観によって云々されるものではない。それは、まさに、歴史の冒涜になると云うことである。
齋藤徳道は、石巻中学を経て、当時、難関と言われていた海軍兵学校第七十二期生として入学を許された。時に、昭和十五年十二月、その数、六二五名。まさに、大戦の足音が忍びよる時代であった。筆者も、齋藤徳道と同期生であった。
昭和十八年九月、海軍兵学校卒業、
昭和十九年四月、海軍潜水学校普通科学生拝命。
昭和十九年十月、伊号第三十七潜水艦乗組拝命。
同艦は、第一次玄作戦菊水隊に編成され、僚艦、伊号三十六、四十七潜とともに、回天特別攻撃隊菊水隊の一艦として、パラオ・コッソル水道に停泊中の米海軍艦船に対して、人間魚雷による特攻攻撃を行なう目的で、昭和十九年十一月八日、山口県大津島回天基地を出撃した。攻撃予定日は、昭和十九年十一月二十日であったが、出撃後全く音信なく、海軍当局は、昭和十九年十二月六日、戦死認定としたものである。
人間魚雷回天と伊号三十七潜
ミッドウェーの海戦で大敗を喫した日本海軍は、日に日に、敗色が濃くなり、昭和十九年の始めに至り、必殺必中の兵器をもって、輸贏(ゆえい)を一決しようと計った。それらの特攻兵器の一つとして考案されたのが人間魚雷回天である。この兵器の考案は、佐官以上の軍の上級者ではなく、当時二十二歳前後の若い憂国の士、黒木大尉、仁科中尉(何れも当時)により考案され、血書をもって、海軍大臣、軍令部長に採用を具申したが、容易に、当局の採用するところとはならなかった。しかし、戦局の劣勢顕著となるに及び、当局も意を決し、その採用を認めたものである。昭和十九年十一月を初回として、終戦までの十ケ月間、回天特攻作戦に投入された潜水艦は、十六隻、延べ三十五隻である。その半数の八隻が撃沈された。因みに、この間における回天の挙げた戦果は、撃沈四隻、撃破八隻。戦死した回天搭乗員は、訓練中の殉職者を含めて、一〇六名に及んだ。
筆者は、人間魚雷と言う必死必殺の兵器を作戦に使用することは、作戦上の邪道であり、これに過ぎる無謀はないと、今にして思う。しかし、それは、この太平の世における価値観であって、当時としては、国を思い、日本を救うには、これしかないと言う、止むに止まれぬ気持ちであった、と回想する。しかし、その当時においても、予備学生出身あるいは予科練出身の搭乗員の中には、進んで志願した人もいた反面、批判的であった人も沢山いた。してはならない無謀な戦争の悲しむべき結果であったと言えよう。
さて、戦後にいたり、米国海軍の資料公表により、伊号三十七潜の撃沈の様子が判明した。その資料を参考にして、伊号三十七潜撃沈の様子を、多少敷衍して説明しよう。
筆者は、潜水学校においても、齋藤と同クラスであり、嘗ての大戦においても、齋藤と同じように、潜水艦の勤務であった。併せて、齋藤の乗艦であった伊号三十七潜が、パラオ・コッソル水道の襲撃直前に撃沈されたことにより、パラオ攻撃の二番手として、第二次玄作戦金剛隊の一艦として齋藤の後塵を拝した因縁がある。
伊号三十七潜は、昭和十八年三月竣工した新鋭大型潜水艦で、齋藤徳道は、昭和十九年十月、同艦の呉出撃の直前、急遽、同艦乗組みの命を受け、伊号三十七潜の砲術長となった。大津島で搭乗してきた人間魚雷回天の搭乗員は、海兵七十期の先任搭乗員上別府大尉以下三名のほか、回天の整備員四名である。コッソル水道は、パラオ本島の北端に位置し、珊瑚の環礁が円周状に並び、その直径約十浬、環礁の表面は、殆ど水面下約一メートル程度にあり、環礁は水面上には現われていない。その点は、ウルシー環礁などとは大きく違う。コッソル水道の入り口は、東側にのみあり、入り口の広さは、約一浬程度である。その入り口に防潜網を敷けば、環礁の中の停泊艦は、全く、潜水艦に襲撃される危険がない。もちろん、対空問題はあるが、当時、日本は制空権を全く失い、米軍は、日本の飛行機に対する防御手段を講ずる必要がなかった。
伊号三十七潜は、北方から進撃し、環礁の入り口に極力接近、回天四基を発進する予定であった。定められた攻撃予定時刻は、十一月二十日〇四〇〇ごろと推定される。伊号三十七潜が、敵に発見されたのは、発進予定日時の正味十九時間前である。十一月十九日○八五八において、環礁入り口の北約三十浬の地点、全くの敵前において、米軍の哨戒艇に発見された。南洋のこの地域の海は、透明度抜群で、海面から三十メートルの透視は十分可能である。回天魚雷を積んだ潜水艦は、魚雷の安全潜行深度を考慮して、余り深くは潜れない。
伊号三十七潜の最後
伊号三十七潜は、十一月十八日の夜二一〇〇頃、充電を終わり潜航に移ったと思う。敵前三十浬とは敵の哨戒艇の哨戒範囲で、おそらく、十八日の深夜から、十九日の朝にかけて、敵の哨戒艇のソナーか聴音器に僅かな反応があったのではなかろうか。哨戒艇が潜水艦の存在を確認したのが、十九日〇八五八であると言われている。潜水艦発見の報告は直ちに、コッソル水道内の然るべき米軍の機関に報告されたであろう。
環礁内の駆逐艦レイノルズ号は、命を受け、味方が発見した敵の潜水艦の掃討に向かった。レイノルズは、十一月十九日一五〇〇、パラオ本島の北端約三十浬付近で、ソナーにより伊号三十七潜の探知に成功。爆雷攻撃六回(爆雷の個数として五十から八十個と推定)に及んだと言う。その結果、手応えのある巨大な気泡が水面に上がり、一七〇〇大爆発音を聴取。更に、爆雷攻撃を一回行い、多くの浮遊物により、同艦の沈没を確認した、と米軍戦史は語っている。
爆雷の脅威は、経験したもの以外に語るとのできない物凄いものである。この世における最大の恐怖の一つであろう。筆者は、帝国海軍潜水艦乗りとして被爆雷攻撃の経験では人後に落ちないので、多少なりとも、爆雷攻撃の恐怖の実態をご紹介しょうとは考えたが紙面の都合で割愛をさせて頂くことにした。
一般の水上艦艇では、乗組員総員が一度に総員戦死ということはあり得ない。しかし、潜水艦では、死ぬときは、全員が一緒である。爆雷により、十キログラム/平方センチ以上の圧力に耐える内殻の鋼板が破壊されたとき、瞬間にして、潜水艦は圧壊沈没となる。
同艦が、十八日の二一〇〇頃から潜航したとすれば、爆雷により沈没させられるまで、ちょうど二十時間、最後の頃は、無音潜航の号令のもとで、室温四十五度、気圧一・五気圧、湿度百パーセント、炭酸ガス含有量五パーセント以上にはなっていたであろう。その苦しさに耐えながら、敵の爆雷攻撃と戦ったのであろうが、武運拙く、敵前で散華した。
ここに、雄飛一番、救国回天の熱望をもって、十一月八日大津島を出撃した伊号三十七潜は、回天搭乗の特攻隊員四名とともに、目的を達することなく、神本艦長以下、百十名全員、南瞑の海深く、水濃く屍となった。時に、昭和十九年十一月十九日一七〇〇。河南町出身の齋藤徳道も、瞬間的に、同時刻に全員とともに水圧によって圧壊戦死となった。行年、弱冠二十一歳である。
エピローグ
歴史にはifがないと言う。今から考えれば、あの嘘のような日本の貧乏時代。そして昭和軍閥跳梁の時代を思い出して頂きたい。その当時、誰が思ったであろう。戦争には破れたが、昭和から平成にいたる今日の日本が、どれだけ住みよい国へと変わったか。筆者は思う。そこには過去の歴史に埋もれた名もなき一切の些事としての事柄が、今日の繁栄の中へ昇華されている、と。
齋藤徳道の戦死も、今日の平和な日本の構築に与って大きな力のあった礎石の一つである、とつくづく思う。
平家の若大将敦盛にも比すべき、齋藤徳道。河南町の生んだ若き勇士に対して、君は確かに、町史の一頁を飾るにふさわしい人材であったと言う一言を最後に、本稿を終る。
(なにわ会ニュース76号28頁)