平成22年4月28日 校正すみ
野中繁男君を回想する
東條 重道
野中 繁男
野中繁男君。同期生中でも私の海軍生活の中で最も忘れ得ない人である。
昭和20年宇佐海軍航空隊から沖縄特攻隊として九七式艦攻で飛び立つのを見送ったのが最後である。「第1八幡護皇隊」の3中隊を引っ張って鹿児島県国分飛行場へ進出。そして、4月6日沖縄に突入した。
遠い昔の出来事になってしまったが、微笑んでくる野中君が私の脳裏から離れない。生きていてくれれば今も家族ぐるみで親戚付合して、同期生中でも特異な仲であろうことは間違いない。戦死から40年、只ただご冥福を祈るばかりである。
1 出会い
昭和15年12月海軍兵学校食堂入口前、食事5分前の待機中が出合い。当時の生徒隊編成4部10教班は10、22、34、46分隊で編成されていて、勉強も、訓練も、食事もすべて一緒だった。野中君は34分隊、私は22分隊。食事の5分前の待機も同じ場所。10教班の4号生徒がたむろする中で、隣合わせた野中君「寒いのう」と手をこすって話しかけてくれた優しい笑顔が、今も瞼に浮ぶ。そして、1年間4号、3号と一緒に鍛えられた。生徒さん倶楽部も近かったのでよく出入し、古鷹山にも一緒に登山した。
2 宇佐海軍航空隊配属
昭和19年7月、飛行学生を終了。宇佐海軍航空隊の艦攻隊隊付兼教官に配属された野中君と艦爆隊に配属された私と親密な仲はこの時に始まった。
艦攻隊は1ケ飛行隊だったと記憶する。当時艦壕と艦攻は3対1位の比率で艦爆隊の方が大世帯だった。宇佐艦爆隊には私と深井良が配属された。艦攻隊配属野中君は飛行隊士として艦攻隊全隊の訓練計画を担当し、毎日多忙だった。
士官次室(ガンルーム)は若い士官の食事の場であり、談笑の場である。よく野中君と腕自慢し合ったものである。野中君の操縦の腕は高く評価されていたようだ。「おい、今日は水平爆撃で隊長賞とったぞ」と清酒を持ってきて、一緒に飲んだ。水平爆撃で模擬弾が標的に命中すると隊長賞として清酒2本が出た。1本は偵察員(爆撃照準、誘導者)に1本は操縦者に。
当時の飛行隊長は大宮少佐(65期)。随分と野中、野中と愛されていた。
お蔭でそのクラスの私も一緒に可愛がられた。
3 服・靴のままベッドを共に
20年2月11日紀元節の日。4大節には隊挙げて奉祝。兵隊さんにも酒が出る。士官次室で祝盃、士官室から兵員室に廻る頃は大虎。ガンルームからもお酒を取寄せて湯呑みでガブ、ガプ。「俺の盃受けられんのか」「何を」なんぞとやるから大変。流石の青年士官も意識朦朧、どうして帰ったかは2人共判らないが、気付いた時は野中君の靴が私の目の前にあった。2人が目を覚ましたのは夕方だった。野中君も随分呑んだということ。
4 お婿さんに嘱目される
卒業後、19年2月に早くも戦死した同期池田誠治君の郷里は宇佐空の近くの法鏡寺。徒歩で20分位か。同期生3名は池田家では誠治君の身代りといった感じで取り扱われた。本当に親身のお世話になりました。お母さんは気丈な方で、誠治が帰って来たと喜ばれ、息子の戦死を決して嘆かれなかった。涕されることはなかった。
3人に向って「うちの友子の婿になってほしい」と真剣に云われたものだ。当の友ちゃんは野中君に一番甘えていた。生き残っておれば結ばれていたかも、結ばせたかもしれないと思う。
5 別府は杉之井旅館が常宿
宇佐と別府は近い。汽車で1時間余りか。毎週宇佐のチョンガー士官は別府へ出た。一行は別府の海軍クラブ(海竜荘?)でドンチャン騒ぎ。後、野中君と私は車で行き、杉之井旅館で次の日の帰る時間まで静養した。
杉之井旅館は今も別府の大ホテル。当時は群を抜いた大旅館だった。大政さんというお姉さんの女中さんが我々の担当でよく面倒をみてくれた。私は20年1月結婚して、その後は行を共にしなかったが、野中君の静養は別府の杉之井旅館にきまっていた。
別府の花街は当時も日本有数。美男子の野中君にはお誘いも多かったが、見向きもしなかった。それは私が保証する。
6 木石の堅パンででもなかった
宇佐空青年士官随一の美男子、心優しい彼への関心は高く、何時童貞を捨てるかが話題であった。中津での宴会も、長洲でも、別府でさえ彼を陥落させる彼女はいなかった。ところが彼の男心をゆさぶった女が表われた。三重県鈴鹿航空隊へ飛行機の領収に行った時のこと、整備が間に合わず数日逗留した。偶然に意気投合したようだ。気立てのよい女だったらしい。彼が云々した女の子は、この女だけだった。飛行機を空輸して帰って私に一言。
「おい、やったぞ」ともう安心だろうと云わんばかりに。特攻攻撃が一般に公開され始めた頃のことである。女も知らずに突入するなよとアドバイスしていた仲間の心情を汲んでくれてのことだったかもしれない。その後、出撃まで女の話は何もしなかったことを思えば。
7 意中の人と云えるかも
東京生れの東京育ち、美人の多い東京や意中の人がないのかとただしたことがある。私の新居に深井君と共に招待したときのこと。互いに心の底には長い命ではないとは暗黙の了解、生き残った者に後々を頼むといった感じのする雰囲気での話である。
「妹の踊りの先生、すごく美人でなあ」とぽつり、一目惚れだったのかはわからない。今にして思えば真剣な気持だったのではないかと思う。特攻で戦死後、野中君の御遺族を訪問、妹さんにそっと先生は?と問うたことを憶えている。真面目な男だっただけに、その心情を微笑えましく思う。
8 特攻出撃のこと
20年の紀元節までは宇佐は桃源境だった。大宮少佐が勲4等瑞宝章を凧用して式典参加、写真を撮影して差上げるという長閑さがあった。その後、マルダイ部隊野中一家が駐機するに及んで空気は一変した。戦局日々急迫、3月1日第10航空隊に編入され、練習機をもってする特別攻撃隊が編成された。その第1回の編成が第1八幡護皇隊である。艦攻隊は全機をもって編成した。八幡とは宇佐神宮の八幡さんから、護皇は勿論皇室を護るという意味であった。私は第1次編成からは漏れた。
出撃の準備で互いに忙しく話す機会もなかったが、出撃の前夜野中君が愛用の竃甲の煙草ケースを持って来て「おいこれやるよ」と気楽に差出した。直接敵陣へ特攻出撃するということでもなく、すぐ私も出撃することが予想されていて、又同じ国分基地で一緒になると思いつつ「もらっておくよ」と受取った。
深刻な気持はない。来るものが来たかと云った達観みたいなものだった。野中君は遺品のつもりだったろうと思う。艦攻隊は全員突入だという山下艦攻隊長の決意が野中君の決心を明確にした。一方死に急ぎすることはないよという艦爆隊長宮内少佐の作戦指導下にあった私の心情との違いかもしれない・・・。私は遺品を受取りながら私からは渡していない。野中君も遺品は私の妻に託すつもりだったように思う。
艦攻は3人乗りである。丁度7分咲きの吉野桜を背に挟み、八幡護皇隊と染抜いた白鉢巻も凛々しく正装して出撃命令を待っている。池田の小母さんも見送りにみえている。野中君とは目礼して十分意は通じた。「かかれ」の号令で愛機へ。そして淡々として次々に離陸、見事な編隊で宇佐空を飛び立っていった。操縦の乱れは全く見られない。何時もの訓練と同じように飛んで行った。私の胸にはジーンとするものが、いつまでも残っていた。
俺もすぐ行くのだ、こんな風に見送られてと思いつつ。
おわりに
野中君を回想していると尽きない。いつも優しい人をなぜ特攻に送らなければならなかったのか。私にとっては楽しかったが、悲壮だった海軍での最も深い仲間であり、妻にとっては海軍士官の本当の姿をとらえた人であったと思う。
ご冥福をお祈りしてやみません。
(野中中尉戦死の状況).
防衛研修所の戦史部で資料を探したところ、野中君についての記述(戦闘詳報)は次のとおり。
要約すると20年4月6日、菊水1号作戦が発動(4月5日天候のため1日延期)海軍の最大規模の作戦が実施された。
第1八幡護皇隊九七艦攻30機(宇佐空と姫路空とではぼ半分づつ)(未帰還 宇佐空4・姫路空13)その内突入(宇佐空3・姫路空2)となっています。宇佐空と姫路空がそれぞれ3〜4機の編隊で交互に15分間隔のインターバルで離陸発進、野中は宇佐の第2小隊長として12時30分発進(3機編隊)。
以下戦闘詳報の記事「連絡良好。1522 「敵部隊見ユ」 「ヒ」連送後連絡ナシ敵戦闘機卜交戦自爆ノ算大ナリ戦果不詳」
推定すると沖縄に近づいた所で敵艦船部隊を視認直後、敵の警戒戦闘機群に襲われ(「ヒ」連送)撃墜されたか、空戦にいそがしくて(後席電信員が機銃手なので)電信が打てないので艦船にとっつくまで、連絡がなかったなどが考えられるが、いずれにしても推定の域を出ない。野中の後席(偵察員)は73期大藪 晃君。
なお、小生の記憶ではこの前日あたりから野中君は身体をこわし(腹痛?)編成からはずされるのを敢えて本人が断り出撃したという事を当時聞いたように思います。
(なにわ会ニュース53号13頁 昭和60年9月掲載)