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平成22年4月28日 校正すみ

平成17年3月寄稿

特攻出撃 宇佐群像の中の野中繁男君

泉  五郎

 

 最近光人社から「カミカゼの真実」という本が出版された。文中「宇佐の群像」という一章に、我が期友野中繁男君が登場する。そこには出撃を前にしてなお洒脱(しゃだつ)飄々(ひょうひょう)たるかれの様子が作者須崎勝彌氏の見事な筆使いで描かれている。
 
一号時代、野中は四席、私は五席、お互い隣同士で、しかも最も気のあった友であつた。
ここに一枚の写真がある。 
 昭和十八年夏の頃、我々海軍兵学校七十二期第四十八分隊員の卒業前、第二種軍装での記念写真である。
 
夏季水泳訓練が終わったばかりの頃らしく、全員真っ黒の顔である。白服だけにコントラストが強く、誰が誰だか判らないくらいである。中央には分隊監事栃木幹正大尉、その右には伍長の飯沢 治、左には伍長補の小林正一、更にその右には府瀬川清蔵と、ここまでは席次順であるが、あとは無関係、四席であつた野中繁男は前列最左翼に座っている。
 これは少々変である。序列の世界である軍隊での記念すべき卒業写真であるから、少なくとも最前列の一号生徒は席次順に座るのが普通であつた。
 然しそのような極めて常識的な習慣を無視して、野中は前列最左翼に位置している。 

 何故そうなったのかその時のことは明確に記憶していないが、私も野中にひかれて何となく彼の隣に座つたのではなかつたろうかと思っている。要するに彼はそのようにシャイな男であつた。
 
 兵学校の生徒館生活では原則として建前が優先する。鍛えて、鍛えて、海軍将校としての資質を練成するのが兵学校の教育であつた。然し海軍は公人としてその任務に忠実である限り、私人としての生活には比較的寛大な社会ではなかつたかと思う。彼と私はその本音の部分で相通じるものがあつたのではなかろうか?
 
 同じく卒業記念にとつた分隊一号の記念写真がある。櫂(かい)を持つたり、柔道着姿であったり、夫々担当した係りの格好をしているが、野中と俺とはラグビー服姿である。つまり二人はラグビー係であつたということになる。 
 
機関学校ではラグビーが校技であったが、兵学校ではラグビーなど殆どやったことはなかった。それなのに二人はラグビーのジャージーに半ズボン、ちゃんとストッキングまではいて様になっている。
 普通、係は夫々一人であったのに、我が分隊に限り何故二人もラグビー係がいたのかはまるで記憶に無い。
 何しろ寒い江田島でラグビーのジャージーは特に暖かい衣類であつた。勿論下級生はジャージーなど身に着けることは出来なかったが、そこは一号の特権、特に寒い日などこっそり事業服の下に着込んでぬくぬくと重宝したものだ。
 もっともラグビー係というのはズベ公が多いという説もある。そうなると二人はその類ということか!
 そんな詮索はさておいて、このあたりでも気が合っていたのであろう。然しベタベタと仲がよかったという訳でもない。
 彼にしてみれば私は些か迷惑な存在であったかも知れないが、私にとって彼は言わば水か空気のような存在であつた。

要するに彼には人間的な嫌味がなかつた。生きておれば戦後も親交を結ぶことが出来たであろうにと、彼を偲ぶこと頻りである。
 
 余り知る人は少ないが彼はもともと七一期、府立三中四修で入校したが病気のため休学、改めて我々と共に入校教育を受けたようである。だから彼自身もそうであつたし、我々も全く違和感を持たなかった。
 
 卒業後彼は飛行機に、私は艦船へと別れて以来遂に再会することは無かったが、漸く昭和六十年、彼の命日である四月六日、第一八幡護皇隊突入の日に彼を偲ぶ為の分隊会を催すことができた。幸か不幸か一号時代の分隊員で特攻散華したのは彼独りである。
 そこで会場は彼の実家があつた池上本門寺近くの中華料理店を選び、令妹片山薫さんにも出席していただいたがご両親は既に亡くなれていた。
 
他に一号同分隊で偵察に進んだ府瀬川も出席したが、同じ飛行機乗りでも配置が違った為、卒業後の野中のことは詳しくない。 
 当然肝心の特攻出撃の様子など話題に乗せることも出来ず甚だ残念であつた。
 そこで改めて宇佐空で一緒だった東條重道君に話したところ、快く会誌五十三号(六十年九月発行)十三頁に心温まる記事を投稿してくれた。
 私としては他人の褌(ふんどし)で相撲をとったような後ろめたさはあるが、野中に対し多少の気休めにはなった。
 更に残念なのはこの時、ご両親は既に亡くなられていたことである。もっと早くこの分隊会を催すことが出来たらと悔まれたが、個人的には私自身は終戦間もないころ、この本門寺近くのご実家に弔問に伺ったことがある。ご両親とも健在でお父上は機関学校十七期、戦前既に退役されていた機関大佐と記憶している。
 
そしてその後、ご母堂が本門寺の境内で土産物店を営んでおられると聞き、本門寺参詣をかねてお店にお伺いした。
 既に齢九十を越えても大変お元気で安心したが、その時のお話で、戦後生れた野中の兄さんの子供さんに繁男の名を継がせたところ、この繁男君も夭折されたと聞かされた。
 
ご両親もお兄さんもせめて故人の生まれ代りに野中の分まで長生きさせたかつたろうに、そして、また野中の分まで平和な人生を楽しませたかったであろうにと、何とも無惨なお話しに胸も詰まって返す言葉もなかつた。
 その後平成六年四月六日、彼が特攻出撃の日に串間の慰霊碑に詣(もう)でてから十年、烏兎怱々(うとそうそう)として平成も十六年春、光文社から一冊の本が発刊された。

須崎勝彌著「カミカゼの真実」である。
 
 その第七章に野中君のことが記されている。面目躍如たる彼の様子を著者のご了解を得て会誌に転載、諸兄にご紹介する次第である。

 ・・第七章 宇佐の群像・・
  
 「見て下さい。たわわに稔(みの)る稲穂が垂れて、宇佐平野は見渡すかぎり黄金色に染まっています」 
世紀が改まったいま、私が語りかけるその人の名は宇佐の慰霊碑に刻まれていない。
 海軍中尉野中繁男は兵学校七十二期のエリート士官である。昭和十九年の九月末に、中練教程を終えて宇佐へやって来た十四期予備学艦攻隊の指導官として、開口一番われわれに言った彼の言葉は忘れられない。
「この辺り一帯は田んぼだった。昔から宇佐神宮に神饌(しんせん)米を供えてきた美田をぶっ潰(つぶ)して飛行場にしたんだ。勿体(もったい)ねえ話だよな。」
 美田を惜しみながら美田の跡の滑走路から飛び立つ。彼には二つの祖国愛が併存していた。農村出身かと思ったら、東京育ちの下町子だとか。府立三中(両国高校の前身)を卒業したと知って私は呟(つぶや)いた。
「芥川龍之介の後輩か」
 娑婆(しゃば)気の脱けないこと夥(おびただ)しい。

 宇佐空には彼の後輩になる兵学校七十三期の偵察専修学生八十人ほどが居た。彼らはすでに少尉に任官していたが、鬼の宇佐空の鬼ぶりを奔放に発揮していた。「待てェ!」の怒声を浴びると下士官兵はすくみあがった。
 われわれ予備学生には対抗意識もあったのか、殊更に肩をそびやかした。
 一度呑み込んだ声を、もう一度肺の奥から破裂させる威嚇的な口調は、なぜか後年のゼンガクレン闘士の口調に甚だ似ていた。彼らの居丈高なお説教から無意味の意味を汲()む間もなく、いきなり両びんたを食った。修正という名の暴力である。
「搭乗員は地上で死ぬことを恥と知れ」
 誰が言ったかは問うまでもない。凱(がい)(せつ)の言である。ところが試運転中のペラに刎()ねられて彼らの二人が殉職した。あっという間の呆気ない死である。
「搭乗員の通夜は湿っぽくなるな」
 これも至言である。われわれ数人が十四期を代表して通夜の席に侍った。
「おお、来てくれたか」
 迎えた野中中尉のにこやかな顔が忘れられない。そのころ彼の頭髪は、七・三に分けてもサマになるほど伸びていた。彼はさも得意げに長髪を撫()でた。
「どうだい、いいだろう。おっと貴様たちは娑婆(しゃば)の大学でとっくに経験済みか」
 通夜の席で所かまわず笑い飛ばすとはなんとも心憎い。
 その彼が一度だけすごく真剣な顔をした。訓練用の燃料が底を突いて飛行作業を中断していたときである。戦況は日毎に逼迫(ひっぱく)してくる。フィリピンはすでに敵手に落ちた。南方からの補給ルートは断たれた。燃料が補給される当てはない。このままでは十四期予備学生の戦力は零に近い。指導官として野中中尉は焦っていた。
「寄れ」
 指揮所前に整列していた艦攻隊の学生は、列を崩して指導官を囲んだ。
 呼び寄せたものの彼には言うべき言葉が用意されていなかった。
「あのな、ええと、うん、貴様たちは操縦の素質はある。スジは確かだ。だから早く一人前になれ」
 学生達が何かを言おうとすると、
「言うな、わかっとる」
これでは相手が納得しないとみたのか、彼は唐突に話題を変えた。
「俺は手荒く下手くそでな、いままで六機もぶっ潰したんだ」
 言うなりこのときも大声で笑った。
 吉井巌(京大)は、上官たちの名を列挙して洒脱(しゃだつ)な人物評を試みている。
 もし彼らの部下として共に戦うとしたら、われわれはどんな死に方をするだろうというわけだ。

野中中尉 愉快に死ねるだろう
松田大尉 男らしく死ねるだろう
西元中尉 一緒に死にたくないと思って死ぬだろう
山下大尉 夢中で死ねるだろう
 ・・・ 中略 ・・・ 
 そしていよいよ四月四日、宇佐の艦攻隊主力が串良基地進出の日の様子を記したくだりには 
   ・・・・
 美田を飛行場にするのは勿体ないと言った含羞(がんしゅう)の男・野中繁男中尉は、こんなときにも笑みを忘れない。微醺(びくん)を帯びてやってきた。
「別れのバンクを振ると口の悪い貴様たちは言うだろう。野中は酔っぱらいながら飛んで行ったと。こんちくしょうと思ってもひっぱたくわけにいかん。もう二度と戻ってこんからな」
 言うことが少しも湿っぽくない。
       ・・・・ 以下略 

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