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平成22年4月29日 校正すみ

波のような男 村上克巳少佐

佐丸 幹男

村上克巳少佐(出撃当時中尉)と私は、海軍機関学校第53期の同期生である。海軍における同期生は誰もが深く強い絆によって結ばれているのであるが、村上と私とはその中でも取りわけ親密な関係にあったようである。一号生徒のとき1年間を同分隊(第14分隊)で過ごしたこと、そして海機卒業後もともに戦艦伊勢乗組を命ぜられ、候補生の第1期、第2期さらに少尉の初めまで同艦で起居をともにしたことである。第1期の間は同期生も約40名、他に戦艦山城に約40名、巡洋艦竜田に約30名が分乗―の多人数であったが、第2期以降は、各艦船に分散してゆき、伊勢に残ったのは村上と私との2人になったのである。

こんなわけで2人はますます親密の度を加えて行き、文字通り、爾汝(じじょ)の間柄で、互いに切瑳琢磨して行ったが、接すれば接するほど2人の心は溶け合い、これほどの親友はまたと得られまいと思うようになり、ほんとうに触れがたい感じを持つようになったのである。

今、彼についての思い出を書けということであるが、私としては勢い海機における一号生徒時代のこと、戦艦伊勢時代のこと、そして大竹の潜水学校で再び出会った時のことなどが、とくに強い印象となって浮かび上がってくるのである。

村上(大正131023日生)は山口県出身、門司中学4修で海機に進学して来た秀オであった。年は若いが身体は大柄で、私よりは一回りも二回りも大きかった。一号生徒になって駆け足をすると、一般的に両手が下方に下り、基本的な姿勢が崩れて、とかく無格好な姿になるのであるが、この点では彼もご多聞に洩れなかった。大柄なうえに、やや上体をゆすぶって走るので一種独特の格好になり、お世辞にもスマートとは言えなかったが、しかし彼はきわめてエネルギッシュであり、いわゆる馬力のある男″であった。水泳、相撲、体操、ラグビー、柔剣道などの武技体技は何んでもよくこなした。細かいことは記憶に残っていないが、中でも水泳や相撲は最上級で、柔剣術も2段か3段かになっていたように思う。

そして、彼のニックネームは無法松″であった。身体全体から受ける感じ、スケールの大きな動作、所為、そして、誠実で純粋さの失われていない心の動き、大きな抱容力、しかもそのなかには細かい気配りも感ぜられる人柄で無法松″にそっくりの一面を持っている男であった。

自分自身が訓練に励んでいる時、或いは下級生を鍛えている時の彼の姿は、そのタフで力強い感じがそのまま表に出るといった感じであり、あたかも、ドドーツ、ドーツと押し寄せる波涛(はとう)のような勢いを感じさせた。ゆったりとしておりながら、そのなかに激しさや厳しさをも感じさせる男であった。男の中の男という言葉があるが、全くその通りで、男の目から見ても惚れぼれさせられる一面があった。

彼には、妹さんがおられるわけで妹さんの事についてはあまり話してくれなかった。従って、細かい事は何もわからないのであるが、休暇に帰省する前後の話から推察すると、彼の妹さんに対する兄妹愛は実に細やかで本当に微笑ましいものが感ぜられた。

候補生の第1期は候補生室、第2期以降はガンルームの8人部屋がわれわれの城であった。お互いに罐分隊士、機械分隊士等を歴任したのである。

昭和19年の初春、瀬戸内、柱島泊地における早朝訓練の時には、彼は相撲部員の訓練指導に、私は特艇員の訓練指導に当った。

当時、伊勢はすでに航空戦艦に改造されていたが、その後甲板には筋骨隆々たる相撲部員たちがよく練習にはげんでいた。なかでも、きりっと相撲帯をつけた彼の姿、ひときわ目だって若々しく、力感にあふれるものがあった。海軍に入る前草相撲の横綱や大関を張ったこともある相撲部員の中では、大柄なはずの彼もいささか小さく見えたし、実力では彼以上に強い者も何人かいて、大変だったようであるが、タフで負けず嫌いな彼は、何人もの部員を相手にし、汗を流しながら真剣に取り組んでいた。

これに対して、私の方は朝もやをついてカッターに飛び乗り、特艇員の指導に当たった。私の号令で走り出した艇の上から後甲板の仮設の土俵の方に眼をやると、相撲帯姿の村上がにっこり笑って片手をあげる。こちらも片手を上げて合図する。これが2人のその日の活動開始のあいさつでもあった。伊勢の機関科では毎日のように午前、午後、或いは夜間の訓練の際、戦闘場面の被害を想定して応急処置訓練を実施した。砲・爆弾による船体、機関、武器、乗員等に対する被害を想定し、それに対する処置法として、被害の局限、被害に対応する判断処置法の適否、指揮官の指揮法の適否等々、数多くの事象について如何にあるべきかを求めつつ演練を加えていったのである。勿論機関長や分隊長等の指導は受けるのであるが、この訓練の計画、実施面については、われわれ若年士官がつねに主役の座にあったのである。

毎日毎日、村上と私とは交代で、いくつもの被害想定や指導要領を次々とつくった。二、三カ月もすると、被害想定(案) や訓練実施のための封密書の数は、大きな菓子箱大の容器に3つも4つもたまった。あとは、それを繰返すだけで十分である。訓練後の研究会も十二分にやった。乗月の練度は日増しに上がり、いつ戦闘場面に飛び込んでいっても、十二分に実力を発揮できるものと思われた。恐れを知らないレベルというか、敵を呑んでかかれるレベルというか、そのような練度に到達して行った。

その年の晩春、或いは初夏の候ででもあったろうか、艦隊の戦技に参加し『優秀』の成績を収めたのも当然のことであったろうし、また後日、レイテ湾攻撃の作戦に参加して例の(おとり)部隊となり、相当な被害を受けながらも危機を切り抜け、立派に任務を完遂して帰還して来ているのも、このころに培ったハイ・レベルの乗員の技謗嘯ェ、一つの大きな要因になっているといってよいであろう。

村上は少尉に任官(昭和19年3月)して間もなく、潜水学校第11期普通科学生として転任して行った(機関科同期生15名入校)。それから数カ月を経て私もまた、彼の後を追うように、同校第12期普通科学生として赴任することとなった(機関科同期生10名入校)。

時に戦局は緊迫の一途をたどり、われわれ青年士官をして切歯扼腕(やくわん)させるものがあった。皆な身をもって祖国の危機を救い、祖国の安泰を護ろうとする気概に燃えていたのである。そのころ、彼が『〇六金物』いわゆる人間魚雷『回天』の搭乗員となって訓練に従事しはじめたことを聞いた。彼らしい進路の選び方であった。この時、私の級から『回天』に進んだ者は村上、福田、川崎、豊住、都所の5名であった。このなかでも村上と福田と海機一号生徒時代、第14分隊で起居をともにした間柄であり、とりわけ忘れがたい関係にある。私もまた彼らの後に続こうと思った。実はその前に『回天』創始者である黒木博司少佐(当時大尉)との話し合いもあり、私の心はすでに決まっていた。

村上や福田らは私のそうした決意を、さらに強く固いものにしてくれたのである。

そんな或る日曜日の午後、潜水学校の自習室へひょっこり村上(当時中尉)が訪ねて来た。いつもは同期生ががやがやしている部屋に、その時は不思議にも私ひとりきりだったが、そこへ何の前ぶれもなく彼が訪ねて来たのである。積る話も多く、海機時代のこと、『伊勢』時代のことなどにももちろん触れたが、何となく言葉にならぬ言葉もあった。この日の彼は何時になく沈みがちで、『回天』に関することを聞いても、機密に触れることもあると見えて、明快な答えは返って来なかった。口数が少なく余計なことは何も言わないという感じであったが、急に手近にあったトランプカードをばらばらと切りはじめたが、よほど力が入っていたらしく、後で見ると二つに折れ目が入ってしまっていた。カードの紙質も良くなかったのであろうが、何も二つ折れになる必要はなかった。いつもとはやや違う彼の様子が少し気にもなった。しかし、彼の気持はいやというほど私にはわかっていた。口では表現のできない何ものかがあることも‥。

暫らくたって、彼は携えて来た大きな黒鞄を出して私に渡した。これは俺が親父から貰って愛用してきた鞄である。俺の気持を知り、後を継いでくれるのは貴様だと思う。貴様にこの鞄を受け取ってもらいたい。もし、追って貴様も出撃するような情勢になったなら、われわれの志を理解し後を継いでくれる者に、またこれを渡してほしい」ということであった。彼は私に訣別の言葉を述べに来てくれたのである。

時に戦局は日増しに不利に傾きつつあった。われわれ軍人にとって多少の前後はあっても、散るべき時期がそう遠くないことは明白であった。彼と私との間における相互の信頼感、期待感はやはり絶大なもの″があったのである。この時、2人は固く手を握り合い、じっと眼と眼を見合わせた。そして静寂な一瞬 ― 気がついて見ると、夕陽が淡く室内に入りこんでいた。

話し合った時間が2、3時間であったのか、3、4時間であったのか、その記憶は薄れてしまっているが、その時間は短くもあり、また長くもあった。中身が重く、ずっしりとして、きわめて充実した時間だったのである。なお、しばらく話し合った後、彼は名残惜しげに私の許を辞し「回天」基地へ帰って行った。重い空気のよどんだ部屋に残された私は、思わず「村上!」と心のなかで叫んだ。熱い涙が額をぬらして止めどなく流れた ー これが今生における彼との最後の別れとなったのである。

予期したことではあるが、その後、いくらもたたないうち、伊37潜に搭乗して最初の回天作戦(菊水隊)に参加した彼が、コツソル水道において華々しく玉砕した報に接したのであるが、その概要は次の通りであった。

昭和19118日内地発

『回天』各4基搭載

 

36潜……ウルシー泊地攻撃

戦果=正規空母1

1129日呉に帰投。

 

47潜……ウルシー泊地攻撃

戦果=戦艦3、正規空母1

1130日呉に帰投。

 

37潜……パラオ・コツソル水道に行動し、消息を絶つ。

 

勇躍出撃して行った彼は、パラオ・コツソル水道海域において母艦とともに永遠にその姿を没し去ったのである。彼の戦没は昭和191120日と認められた。弱冠20歳、その純血をたぎらせた村上は、遂に護国の鬼と化し去ったのである。

この報を聞いた時、私は男泣きに泣いた。兄とも弟とも思った彼が、あんなにいい男が、なぜ死んで行かねばならないのか。

国家護持のためとわかってはいても、私的な思いに立ってみれば、ただ涙あるのみである。

しかも、この菊水隊の伊47潜には、既述の海機一号生徒時代に同分隊であった福田斉も回天搭乗員として乗艦出撃し、ウルシー泊地で体当たりを敢行したのである。私の潜水学校時代の後半は、このようなショックを受けて、しばし茫然とする思いであった。軍人としてみれば戦死は当然のことであるが、いざ親しい戦友が身命を捨てるとなると、やはり生身の人間、万感こもごも到って涙なきを得なかったのである。

校内のベッドでは涙など見せはしなかったが、上陸の際呉の水交社の宿舎では、何回となく目覚め「村上′村上!」と呼びながら、流れる涙を抑えることができなかった。彼が私に譲ってくれた呉の下宿、登町の明法寺の宿舎に行っても、やはり彼への思いから脱することができなかった。

潜水学校における学業も終りに近づいたころ、戦局はますます緊迫の度を加えて行った。第12期普通科学生(機関科)からは、数名の者が回天搭乗員の志望を申し出たが、戦局の情勢にかんがみ、この期からは回天搭乗員は1名も採用されないこととなった。潜水艦それ自体の機関長付、或いは機関長要具が払底して、これらの配置を充足することもまた喫緊の急務とされたからである。 昭和20年の1月、私は伊47潜の機関長付として赴任した。そして同年3月から5月中旬にかけて、回天特別攻撃隊多々良隊及び天武隊の1艦として沖縄方面の作戦に再度にわたり出撃した。幾多の先輩や村上、福田らへの思いを胸に秘めながら、まっしぐらに敵艦に向かって突き進んで行ったのである。

この大戦では、私自身はついに死所を得ることができず、死に損ないの悲哀をかこつこととなってしまったのである。彼の叱責の声が聞えてくるような感じがしてならない。生き残った者としてできること、或いはなすべきことと言えば「村上をはじめ、この大戦で散華された数多くの英霊のことを思い、その心を心とし、神州日本の隆々たる発展に寄与すべきことのみ」と思うのである。

しかしながら、戦前の日本人と戦後の日本人とはあまりにも変わり過ぎてしまった。この国を護るべく身命をなげうって散って行った人々の心が、果たしてどこまで正しく理解されているのであろうか。その心にどこまで沿っていると言えるのであろうか。寒心に堪えない思いがするのである。

順序は前後するが、村上が潜水学校へ私を訪ねて来た日から数旬を経て、私は思いがけなく、彼からの封書を受け取ったのである。その中には『笑草』と題したおそらく彼の辞世の歌ともいうべき4首が記されていたのである。私あてにはなっているが、彼の心情を思えば、クラス全員にあてたものと察してもよいのではなかろうか。

 

会ふ毎に 御酒干す毎に 師の教へ

   耳慣れもせず 国家の思はる

 

起き出でて 沖の白波 見渡せば

    君乗る艦は 撃ち出でしてふ

 

幾度も 敵反撃の 記事読めり

  わがつわものの 幸祈りつつ

 

八重の波 人目もあらじ 海の底

   我が往く道は 神のみぞ知れ

 

その後、彼の戦死の報を聞き、悲しみながら私の詠んだ歌「村上思う」から2首

()にし日に 語りし姿 消えやらで

            かへらぬ君と 呼ぶぞ悲しき

還らざる 君が心の 国家(くに)思う

     思ひは募りぬ 涙し偲ぼる

 

村上を偲んで田村大尉からおくられた歌2首。

 

 征き征きて かづくみふねの 益良雄は

      わたのそこひゆ (また)とかへらず

 

うつそみの生命捧ぐと きはひ立ち

     征きし益良雄 又とかへらず

 

田村大尉は、戦塵伊勢当時の電機分隊長、海機第49期生の田村賢雄氏のことである。

村上から渡された例の黒鞄は、大切に保管した。また時には大切に持ち歩いた。しかし、戦局は急ピッチに進展し、それから1年もたたぬうちに終戦を迎えてしまったのである。後継者に手渡す機会もないまま、私の手元にあった。戦後のどさくさのなかにも、これだけは大切にして手放さなかった。彼とともにいるという思いもすれば、彼から叱咤されているという思いもしたのである。

昭和43年に至って、山口県徳山市大津島に 『回天記念館』建設の運びとなり、回天烈士の遺品・遺墨等が求められた際、村上に関するものがほとんどないと聞いて、私はこの黒鞄を寄贈することにした。本来ならば彼の妹さんである松尾英子様に、いったんお返ししてから……と思っていたが、記念館建設賛助会の作業の都合もあったので、英子様のご了解を得た上で記念館の方に直送することとした。このとき、あたかも彼と別れるかのような思いであったが、私一個人の傍に置くよりは、立派な記念館で永遠に管理保有されることの方が遥かに有意義であるし、彼のためにも喜ばしいと思ったからである。彼の黒鞄は、今後の若い人たちに、その他多くの日本人に、無言の言葉を投げかけていくことであろう。

(機関記念誌55頁)

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