平成22年4月27日 校正すみ
平成18年9月寄稿
おじさんのぼうし
四年 清水 徹
おじさんのぼうしは こん色で ひさしがピカピカに光り
大きな桜とイカリのき章がついている
昭和十九年 特攻隊になって フィリッピンへ出発前に 送ってきたそうだ
去年 物置でみつけたお父さんがくれた ぼくは それをだいじにしまい
ときどき かぶってみる
おじさんの話をするのは お父さんだけになった
おじさんは 海軍少佐 清水武 おはかは 山口にある
無名之碑(清水 武)
清水 昭
この「無名之碑」は昭和四十九年 故清水武君の弟昭君の書かれたもので、前編集長押本直正君の所に五部送付され、その一部が故藤田 昇君に送られ、それが千葉県居住の級友に回覧された後、泉 五郎君が保管していたものである。今回泉君からニュースに掲載したらどうかと送付され、一読したところ、感銘受けるところが多く、また、初めて知る事もあり、掲載することにした。
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ただ、何分長文であり、過去に押本編集長がその要約をニュース三一号八頁に掲載され
ているので、重複する処は割愛した。なお、関連記事としてニュース三一号のほか、三
六号一九頁に『無名の碑』補遺として清水昭氏が寄稿している。 また、この筆者清水
昭君も昭和五十九年五月二十日逝去されている。 (編集部)
海軍中尉清水武。海軍兵学校第七十二期。大正十三年(一九二四年)八月十四日、山口県山口市.(当時山口町)に生まれ、昭和二十年四月一日朝、神風特別攻撃隊第一大義隊を指揮・沖縄県宮古島南方海上のイギリス艦隊(空母四、戦艦二基幹、H・B・ローリング中将指揮、第五十七機動部隊)に突入、戦死した。行年二十二歳。正確には二十年七カ月と十四日の短い生涯であった。
戦死の公報は、日本の降伏によって戦争が終った三ケ月後、十一月の末に、何も知らぬまま彼を待ち続ける両親の許に届いた。
戦死の日から半年以上も遅れているが、それは彼の所属が台湾の第一航空艦隊であった為だろう。ともあれ彼の家族達は希望を打砕かれると共に、彼が特攻隊員として(家族に対してそれと想像させるような片言も残さず)逝ったことに、少なからぬ衝撃を受けた。同時に又、その事が家族全員にささやかながら抜き難い誇りの感情を抱かせたことも確かだ。
彼の母は座敷の床の間に小さな壇を設け、そこに息子の遺影を飾った。二年前にもう一人の息子の遺骨と写真を飾った同じ壇である。粗末な額の中はカビネ版の素人写真で、彼が茨城県神ノ池の教育航空隊に在った頃の撮影だろう。零戦の機首を背景に、飛行服姿の若者が陽やけした童顔をやや斜に見せて立っている・・・・・・。
間もなく海軍省から、二階級特進して海軍少佐に任ずるという辞令や、天皇陛下からの祭祀(し)料等が届いた。
戦死の状況についての詳しい通知などはなかったが、両親にとってはそれでもいくらか慰めとなったかも知れぬ。同時に、今更何をそらぞらしい・・・という痛憤の思いもあったに相違ない。だが、このおかげで、後に遺族扶助料が支給されるようになった時、彼の両親は些か余分の恩恵にあずかることが出来た。最後の階級によって金額が定められたからだ。
いうなれば、いのちを的にひたすら努め進んだ息子の誠心(それを疑うことは出来まい)は、当の息子自身には思量の他だったに違いないが、長きにわたって両親の老後を支える柱となり、そのことで、古来の重要な徳目の一つである「孝」の道を全うすることにもなった訳だ。以て瞑すべしと云えよう。
彼の葬儀は盛大だった。それは彼の死から丁度一年後の昭和二十一年四月一日、山口市内の龍福寺という古い寺で、一周忌の法要と共に行われた。
深刻な窮乏と混乱の時期だったにもかかわらず、寺の広い本堂が一杯になるほど多数の会葬者があった。戒名は「尚武院貫忠義烈居士」。龍福寺方丈川瀬哲三師の撰名(せんめい)である。
葬儀の間、導師によって誦(しょう)された句、ーー偈(げ)というかそれとも頌(じゅ)文(もん)とでもいうのか、その結びの部分を、彼の弟は二十年以上後になってもなぜか妙にはっきりと憶えていた。それはーー落花心アリテ流水ニ従ヒ、流水心ナクシテ落花ヲ送ルーーと云う対句だった。
葬儀から二十年程も過ぎた春、時の内閣総理大臣佐藤栄作氏の名で叙位叙勲の沙汰があった。従七位に叙し動六等旭日章を贈るというのである。
(注) 少佐に昇進しているので、従七位はおかしい。少なくとも従六位か正六位でないかと思われるが、筆者本人も故人となっており、確かめられないので原文のままにした。
遺族のうち、父はその数年前に没し、残るのは母と弟、その妻子、それに既に他家に嫁いでいる妹だけとなっていた。感動も喜びもない、空疎な贈り物ではあった。それでも彼の母はこの勲章を、大きな紙に印刷された勲記や位記共々大事にしまいこみ、時々とり出しては独り黙然と眺めていた。
特別攻撃隊員(特に海軍関係の人達)の遺書・遺言書の類が多く集められ、幾つか出版されて書店の棚に並び、又レコードにも吹き込まれなどしてそれぞれ結構な売れ行きを見せているが、彼はそのようなものも何一つ残して行かなかった。生前の彼を識る者には容易に納得の行くことだろうが、恐らくは彼も「武士(もののふ)は言(こと)挙げせず」と云うようなことを素直に信じ、それにいく分かは生来の筆不精や文歳の不足も手伝って、それを単純に実行したに過ぎまい。
更に、これも至極当然のことだが、遺骨や遺髪の類も還らなかった。つまりは、ただ命のままに飛び立ち、戦い、そして結局は、文字通りの「水漬く屍」となって遠く南溟(めい)に没し去ったわけだ。
二十五年の法事も終って更に二年ばかり過ぎた或る夜、東京世田谷の家で独酌を楽しんでいる彼の弟の側に、小学校二年生になる次男が正座して問いかけた。
「お父さん、清水武さんのお墓ってどこにあるのかな」
「それを聞いてどうするんじゃ」
「こんどおまいりに行こうと思って」
少し酔いの回って来ていた弟は
「海軍野郎に、― 兵隊にお墓なんかあるか」
と、思わず怒鳴るような大声を出した。
「海行かば水漬く屍(かばね) ― という歌を知っちょるか」
「知っている」
「その歌の通りじゃ。つまり海がお墓なんじゃ。どこでも海を見た時に、あいつの事を思い出してやりさえすりやそれでいいんじゃ」
「フーン」
と云っただけで、この息子は何とも不思議そうな顔をした。
毎年六月の第一日曜日、海軍兵学校七十二期、機関学校五十三期、経理学校三十三期合同のクラス会が、生存者と遺族多数を集めて國神社で行われている。北海道から鹿児島まで全国各地から出て来る遺族も多く、昇殿参拝の後で懇親会を開くが、年々盛況を呈し、遺族の中にはこの催しを年一度の楽しみに待ち焦がれている人も少なくない。
だが、集い来る生存者同士の間に交される会話は、日々の仕事やゴルフ、家庭内の問題等が主な話題になりがちのように見える。そこにうかがえるのは、今や太平の日々に落着ききった五十年輩の平凡な市民の姿だけである。楽しげに談笑し、遺族達の世話をするこの人達の過去に、凄惨苛烈な戦いの日々があったと想像するのが、寧ろ不自然にさえ思える。
しかし、死んだものは、今も猶戦火の中に在る。死者の特権で、いつまでも若さを失うことなく生前の姿をそのままに、もはや終ることのない「永遠の生」を生きつつあるのだと考えることも出来よう。
些か感傷的に過ぎる言い方になるが、彼 ―ー清水武も、次第に数を減じて行く肉親・知友、又幸運にもあの戦争を生きのびた同期生――、そうした人達の、この世にある限りは、その胸裡に在りし日の姿を留め、共に生き続けていると云える・・・・・・。いつも活動的で骨惜しみせず、みずみしい好奇心を絶やすことなく、素朴な大笑いを好んだ楽天家―、
要するにごくありふれた田舎出の標準的青年として、同時に又、眉目秀麗(びもくしゅうれい)の海軍士官、颯爽(さっそう)たる零戦のパイロットとして・・・・・・。
蓋し、これこそ人間至高の幸せと云うべきではなかろうか。
(一) 昭和十五年(一九四〇年)十一月のある朝、山口中学校四年生、十六歳の清水武は、山口駅から父親と共に広島県江田島に向って出発した。小学校、中学校を通じて一年先輩であり、一緒に入校される中西達二氏(昭和二十年四月十二日、神風特攻常盤忠華隊員として沖縄に突入・戦死)父子と同行である。家族の全員と、特に親しかった中学校の級友二人(安倍晋太郎、桜井彰の両氏)が狭い駅のホームまで見送った。
入校式は数日後、十二月一日に行われた。この日から、彼は帝国海軍軍人として、自分では猶知るべくもないが、四年余り後の死に向って、短い人生の最後の日々を歩み始める。
この年、既に日本はドイツ・イタリーと三国同盟を結び、対米英戦争への傾斜を強めつつあった。山本五十六大将が連合艦隊司令長官に親補され、旗艦長門に在って対米戦の回避を願いながらも、開戦を余儀なくされた場合にとるべき作戦の構想を練っていた頃でもあろう。
また、後に彼の乗機となる零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)が正式採用されたのもこの年であり、更に戦艦大和・武蔵、空母瑞鶴・翔鶴等の建造も各地の工廠・造船所において極秘裡(り)に突貫工事で進められていた。
中国全土に拡大した支那事変は既に三年を越して猶収拾の見込はつかず、国内では食糧・衣料の配給制がとられる等物資の不足欠乏は日常生活にも現われていたが、国民一般の気分はまだ平静であり、危機感はなかった。
海軍兵学校の生活は、戦前から戦後の今日まで、数多く紹介されて一般にもかなり知られているが、恵まれた環境・施設と、当時にあっては最高度と思える程の完璧な配慮と管理の下に厳しい教育を行うので、苦楽共に一般社会の常識を超えるものであったに違いない。
もともと日本海軍はイギリス海軍に範をとって建設されたから、明治二十一年に東京築地から移して建てられた江田島海軍兵学校も、当然ダートマス海軍兵学校に倣って造られたものであろう。現に、有名な生徒館の赤煉瓦もすべて英国から一個ずつ包装して輸入されたという程だからその余は推して知るべきだろう。構内施設の配置や構造、各種教育の方針・内容から日常生活のスケジュールや細かい習慣・動作等に至るまで、影響は少なからぬものがあったことと思われる。
四季を問わず、早朝の起床(総員起し)から夜の消燈まで、時間は細分されて数々の作業に埋められており、それをすべて遅滞なく消化して行くには、かなり機敏な頭脳と体力、それに適宜然るべき息抜きを可能とするだけの要領の良さを必要とする。その点、彼は元来が陽性のスポーツマンであり、こまめで楽天的な性格だったから、逸早く要領をのみ込んで新しい生活に適応するのも比較的早かったろうと思われる。無論、一般社会(これを軍では「地方」、俗に「娑婆(しゃば)」という)の常識や通念が丸々通用する世界ではないから、納得の行く理由もなしに怒鳴られたり、殴られたりすることもしばしばあったに違いないが、郷里の両親に送った彼の手紙の調子は生来の性格そのままに明るく楽しげである。察するところ、田舎出の青年らしく新鮮な好奇心を大いに働かせて、疑いを差し挟むことなく、数々の新しい体験を重ねて行くことに素朴な驚きと満足を味わっていたものらしい。
軍の学校では学科における抜群の秀歳よりもスポーツ・武道の練達者の方が、実際上の評価は別としてとにかく人目を惹(ひ)くものだが、彼はこの点でもいくらか余分な満足を得ることが出来たはずだ。最も得意としたのは体操だが、これはロサンゼルス・ベルリン両オリンピックの日本代表選手で、引退後山口中学の体操教師として半ば自適の日を送って居られた武田義隆氏の直接指導だから謂わば本物である。日本体操界の水準が低かった当時としては、先ず上の部の腕はあったと見て良い。七十二期六百余名の中でも競争相手は多くなかったはずだ。
夏になると当然水泳訓練が日課にくり入れられるが、これも彼は器用にこなして競泳・跳込・遠泳と大いに愉(たの)しんでいたということを同期の人の話に聞いたことがある。臨時の教官として指導に来校されたベルリン大会の優勝者遊佐正憲氏と並んで模範遊泳を行い頗る面目を施したという話もあった。
その他巡航・幕営、岩国海軍航空隊での航空実習、原村の陸軍演習場で行われる陸戦演習等万事に苦労よりは楽しみの方がはるかに大きかったらしい。また、見学か何かに広島市に行った際、自由行動の時間を利して、当時同市内牛田町に住んでいた父方の叔母の家を数名の仲間と訪問し、僅かな時間に超人的な食欲を発揮して、世話好きで善良なこの叔母君を驚倒させたこともあった。
これらのことからも、彼は江田島のー―海軍生徒の生活に真摯(し)に没頭して毫(ごう)末の疑いもなく、ひたすらに励み自ら鍛えると共に、いわゆる青春の日々を最高度に楽しむことが出来た―-、あの時代の青年として最も幸せな一人だったと云って良かろう。
彼は決して抜群の秀才ではなかった。中学でも、どう頑張ってみても二百人中の精々二番以上に上らず、生涯を通じてトップの成績を収めたことは一度もない。ただ、幾度もくり返すように、その性は単純率直であり、陽気な大笑いを愛し、論議よりも行動を好んだ。長州人は行動の前に必ず論を立てるという意味のことを司馬遼太郎氏がよく書いておられるが、――またたしかにその通りではあろうが、彼にはそうした癖もなかった。文歳・詩歳には大して恵まれず、また、江田島では呉鎮守府から軍楽隊が来て軍歌の指導をするんだと大威張りで吹聴していたにも関らず、彼が休暇で帰省した折に歌って聞かせる軍歌はその都度、家族の一人一人を少なからず辟易させた。
疑いもなく、彼は幸せだった。幼時から只一途に望んで進んだ道であり、従って疑念も迷いもなく、それは入校の丁度一年後に太平洋戦争が起り、やがて戦局が次第に不利に展開して来るようになっても変ることはなかったであろう。
二十年の彼の生涯は、今から考えてみても只々平坦であり、且つ明るく清澄である。暗い翳(かげ)の部分がまるでないように見える。当節流行の挫折などという言葉は、体験上は無論のことだが、単なる抽象的な概念としても、彼には恐らく無縁だったに違いない。突き当るべき壁は彼の生涯には遂に無かった。最後にただ一つ、装甲板を敷いた英空母の飛行甲板を除いて・・・・・・。
些かの誇張も加えずに、羨望の念を吐露し度いと思う所以だ。
彼が入校して丁度一年後に大東亜戦争が起った。緒戦の圧倒的な勝利に国内は異様な興奮に湧(わ)き返ったが、兵学校の内では格別の変化も無かったらしい。
ただ、この年末から年始にかけての冬の休暇が取り止めになって、日を数えつつ帰省を待ち受けていた家族を落胆させた。
(二) 昭和十八年(一九四三年)九月、清水武は海軍兵学校を卒業、そのまま飛行学生として茨城県土浦市の霞ケ浦海軍航空隊に入った。
卒業の前月――即ち昭和十八年八月、彼は江田島生活最後の休暇で山口に帰省した。由来、軍関係学校の休暇は極めて短く、夏冬共せいぜい一週間を限度とする。このわずかな日々を彼は思いのままに遊び暮らしたらしい。日数が少ないために、それだけ一日一日の充実感は高いものとなる道理だ。口には出さなくとも、これが最後の帰省だとする考えは当然あったと思われるが、休暇中の彼はとにかく明るく、限られた時間を心から楽しんでいるように見えた。
この休暇の終る二日程前、この年の四月に広島陸軍幼年学校に入校した五歳年下の弟が、こちらは最初の休暇で帰って来た。
早朝五時過ぎ、山口駅に着いたこの弟は、まだ人気のない改札口に、真黒に陽焼けした兄が小学校五年生の妹と二人で待受けているのを見た。
軍服姿の息子二人を迎えて両親は大満足だったはずだ。努めて平静を装ってはいても、内心の得意はおおい様がなかった。わずかに、前年山口高商在学のまま山口連隊に入った長男が、この春甲種幹部候補生試験に合格の直後に病を発して入院中なのが家族全員にとって唯一の気がかりではあったが、一家―― 就中この時既に六十歳に近かった父親としては、息子二人が揃ったこの夏の三日間が得意の絶頂の時、短いながらも生涯一度の黄金期だったと思われる。戦局不利とはいうものの戦線はまだはるかに遠く、しかもその実情は一般国民に知らされていなかったから、父親の喜びは何の陰翳(いんえい)も伴わぬ素朴なー―それだけに強烈なものであり得たはずだ。
この休暇中、彼は母親に自分が飛行機に乗る事を話し、――多分余計な取越し苦労を封ずる積りだろう、あらゆる乗物の中で最も安全なものは飛行機である事をくどいまでに説明して聞かせたらしい。しかし、今更親が反対してみたところでどうなるものでもなかったし、第一両親共に反対する気持など初めから無かった。
また、自分は長生きしようとは思わぬから、もし早く死んでも嘆かないでくれとしきりに念を押した。親の悲嘆だけが気がかりだったと見える。
休暇が終り、彼は再び江田島に戻った。家族全員が例の如く駅まで見送ったが、弟にとってはこの時が兄を見る最後になった。この弟には、もう一人の兄――入院中の長兄ともこの休暇中に会ったのが永訣(けつ)となる。病勢がそのまま進み、この年の十二月、これも満二十歳の若さで死んでしまったからだ。
人には会える時に会って置け、別れる時はいつもこれが最後と思え、というのが、男兄弟三人の中で自分一人だけ残った弟の、三十年後も変らぬ口癖となっている。
当時、戦局は明らかに敗勢を見せ始めて居り、前年八月のガダルカナル島上陸に始まる米軍の反攻は時と共に熾烈(しれつ)となり、開戦当初の日本軍の優位を覆して南太平洋海域の制空権も既に米軍の手に移り、日本軍は補給輸送にもこと欠く現状となっていた。
この年二月、日本軍は半歳にわたり苦闘を続けたガダルカナル島から撤退、時を同じくして欧洲ではスターリングラードのドイツ第六軍が司令官.パウルス元帥以下全軍ソビエト軍に降伏し、これを転機としてドイツの勝利の希望も失われることになる。四月十八日、連合艦隊司令長官山本五十六大将がブーゲンビル島上空で米軍のPー38戦闘機一隊の待伏せに遭って戦死、全国民に深刻な衝撃を与えた。五月にはアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸、山崎保代大佐以下二千余名の守備隊は激戦の末、全員戦死した。「玉砕」という言葉が、先のガダルカナル島撤退の発表に使われた「転進」と共に、これ以後しばしば使用されるようになった。七月末、イタリーでは長く独裁者の地位を占め続けて来たムッソリーニが失脚、バドリオ元帥を首班とする政府が発足したが、誰の目にもこれはあきらかな終戦内閣であり、イタリーの脱落はもはや時間の問題と見られた。結局イタリーは九月に入って連合国に降服する。
このような時期に、小さな別世界ともいうべき江田島の生活を離れ、苛烈(かれつ)な第一線に出て行くにあたっては、独り彼のみならず六百余の同期生すべてにそれぞれ独得の感慨があったであろう。
(一部略)
新候補生としての霞ケ浦における生活がどのようなものであったか、具体的なことは彼の家族にも判っていない。ただ、それが江田島生活とは違った意味で、より峻烈(しゅんれつ)なものであったろうことは、ここでは実戦技術の修得が目的であり、しかも一々の訓練がすべて直接に死につながるものであることを考えてみるだけでも容易に想像出来る。
しかし、清水候補生にとっては初めて海軍兵学校に入った時と同様万事が楽しみな日々ではなかったか。広島の弟にあてた短い便りに練習機上から見える富士山の美しさを述べた、この男には珍しくロマンティクな描写が入っていたことがある。
江田島では無論、酒も煙草も禁止されていたが、卒業して候補生となると当然この禁は解ける。むしろ、士官としての交際その他の必要から結果的には大いに奨励されることになる。かねてから彼は「煙草を喫(す)おうとは思わんが酒は飲む」と明言していたから、優秀な遺伝体質と、鍛え上げた絶倫の体力をもって、この方面でもかなりの成績をあげたことは疑いない。
新候補生は総員皇居に参内して天皇に拝謁するという慣例があった。
七十二期候補生の拝謁の前夜、彼は土浦から酒一升を提げて上野駅に着き、当時千駄木町辺に住んでいた従姉の家に向ったが既にひどく酩酊していた為に、どうにか辿りついた時は泥まみれの姿だったという。汚れた服から手袋まで、全部を洗濯した上アイロンかけまでして翌日の拝謁に間に合わせるのに、従姉と伯母の二人で夜中大童の作業を余儀なくされたが、それ程酔っていても、一升瓶だけは余程大事に抱えこんでいたものと見えて無事だったと、従姉は後々まで笑い話にした。
確かな話ではないが、世間では物資の欠乏がひどく、酒などは最高の貴重品とされていたこの当時、霞ケ浦の士官室では毎週一人一升の配給があったそうだ。事実としても彼にとっては格別消化に苦労するほどの量ではない・・・・・・。
(一部 略)
彼が霞ケ浦航空隊にいた期間はどのくらいだったか。多分基礎訓練だけ、それも戦局や燃料事情等の理由から最低限度にまで短縮されていたに違いないから、期間は極めて短くせいぜい数ヶ月に過ぎなかったであろう。
この間、彼の母が、前記の中西達二氏の御両親と共に霞ケ浦まで面会に行ったことがある。ひどく乗物に弱く、一度夫婦揃って江田島に行ったことがある他には旅らしい旅の経験をもたぬ母としては、たとえ頼るべき同伴者があったにしても、一世一代の大決心を要する壮挙だったに相違ない。当時の乗物事情を考え合わせると、よくも無事に帰って来たものだという気がする。
霞ケ浦に於ける基礎訓練を終えて、彼は神ノ池航空隊に移る。恐らくこの時だったであろう。思いがけぬ短い休暇を利用して彼は最後の帰省をした。夜行列車に乗り続けて故郷の家に着くと、一泊しただけで翌日は再び引返すという慌しさだったが、両親は無論のこと、世話になった近隣の人達にも別れの挨拶を済ませ、盛大な見送りを受けて出発した。
その夜、広島陸軍幼年学校の生徒舎では消燈後の暗い寝台に横になったまま、母から事前の便りで兄の帰省を知らされていた彼の弟は、今頃が此の地を通過して行くのだと考えていた。幼年学校のあった基町の一角から山陽線の線路は近い。微かに聞える汽笛の音を耳にしながら、この時十四歳の弟は生れてはじめて、人の世のふたたび会うことのない「別れ」というものを考え、何か重く胸をしめつけられる様な感を味わった。
彼が家を出る時、母親は予め庭から折り取って来て置いた八ッ手の葉で、誰にも気付かれぬように息子の背後からそっと招く真似をした。こうすれば生きて無事に還って来るという、誰かから教えられた迷信だった。いかにも愚かで且つ憐れではあるが、互いに永別を心に決した戦時における親子の情としてみれば、そこに一種の異様な美しさが感じとれぬでもない。
(三) 茨城県神ノ池―――
鹿島神宮から利根川口の波崎に通ずる道路を南に下ると利根川に行き当るが、そのわずか手前左手に、高い葦(よし)の葉末を越してかなり大きい池が見える。地図によるとこれが神ノ池だ。少し行くと神栖という小さな部落があるが、他には人家もまばらで、道を歩いても人に出会うことさえ稀である。
神ノ池海軍航空隊は、この池から鹿島寄りの一面荒涼たる砂地の上に設営されていた。
見渡す限り起伏の少ない砂地に、丈の低い雑草と発育不全のねじ曲った松が枝を低く這わせているだけの土地では耕作もしょうがなく、従って人家の影さえ見えないのも不思議ではない。
もっとも、これは戦後十五年を過ぎた昭和三十五年頃の情景である。飛行場の跡には砂が遮るものもなく照りつける陽光に白々と輝き、はるか鹿島洋から吹きつける風にペンペン草がなびいているばかりだった。一望、人車の影もなく、耳に入るのは飄々(ひょうひょう)たる風の音のみで、処々に残るコンクリート造りの掩(えん)体壕(ごう)や対空砲座の残骸(がい)が荒廃の感を一段と深くしながらも、辛うじてかつてここに海軍航空隊の爆音が轟きわたっていたことを偲ばせるのみである。正しく「つわものどもが夢のあと」というにふさわしい粛々(しゅくしゅく)たる風景であった。
ここ、神ノ池海軍航空隊で、彼は初めて零戦(正式名称は零(れい)式艦上戦闘機)を操縦することになった。
この時期の写真が彼のアルバムにかなり多く残っている。察するところ、若い士官連中の間に写真趣味が流行して居り、彼も早速にその仲間入りをしたのだろう。
(中略)
士官になって彼、清水少尉にも従兵がついた。馴れるまではかなり妙な気持ちを味わったことが容易に想像できる。
この場合、士官も従兵も、双方共に選択の自由はないから両者の関係がうまく行くかどうか、つまり当り外れは専ら「運」という他はない。
彼の従兵となったのがどういう人だったか、これまた知るすべはない。ただ、英文の原書を読んでいるのに彼が驚いて出身を訊(き)いたら早稲田を出たとの返事だったという話を聞いたことがある。若し今も存命なら、その経歴からしても社会の一線に活躍して居られるはずだ。
似た様な例は陸海軍を問わず、至るところに見られた事で何ら驚くに足らぬが、彼にしてみれば多分に戸惑い、且つ恐縮する気持があったことだろう。
戦闘機の操縦は、彼の性格に最適だったように思える。それは、例えば体操競技で一定のリズムとスピードを保ちながら幾つかの演技を連続消化して行く爽快さを連想させるものがある。少なくとも彼自身が、これこそ俺の道―――と考え、かなりの自負・自信を以て訓練に取組んだことは確かだ。
海兵七十二期から戦闘機乗りとなったものが約百五十名、その中生存者は三十名に過ぎないという。八十パーセントの消耗である。
それが、敗戦の日まで数えても僅(きん)々十ケ月以内の損失であることを考えると、若いパイロット達を待ち受けていた運命の悲痛さは特に心にしみるものがある。
(中略)
特攻は当初フィリピンに在る航空部隊だけに限られていた。航空兵力の殆ど比較を絶した劣勢から、止むなく採用された戦法だったが、一度開始されるとそれはもはや止まることなく急速にエスカレートして「全軍特攻」が呼号されるまでになった。その熱気は他の戦線にも及び、遂には大本営をもまき込むことになる。
十一月、大西中将は幕僚と共に東京に飛んで、フィリピン方面の戦況を大本営及び連合艦隊司令長官(当時豊田副武大将)に説明し、特別攻撃隊に充当する航空機三百機と飛行時間二百〜三百時間のパイロットの補充を申請した。
大本営はこれを了承したが、苦心の末に集められたのは要請の半分、百五十機だけだった。パイロット不足はそこまで深刻になっていた。集められたパイロットは大村、元山、筑波、神ノ池の各教育航空隊で漸く実用機教程を終ろうとしている飛行時間百時間程度の予備少尉が主体で、これに若干の練習生と、志願して来た教官数名が加わっていた。この「教官数名」の中に中尉清水武が名を連ねていたことになる。
ここに初めて第一線に登場する機会に恵まれたわけだ。出発に先立って、彼は一切の私物を郷里の家に送った。各種軍装はじめ被服類全部。海兵以来のアルバム、カメラ、ネガフィルムから「極秘」扱いのノート類まで、あらゆるものが大きな行李に詰めて両親の許に配達された。
中に、海兵卒業に当って下級生(多分七十三期)の人達から送別の辞を寄せ書きして貰った小冊があり、その末尾に僅かに彼自身の筆跡が見られた。唯一の遺書というべきか。
我今波荒キ太平洋ノ空ヲ行カントス
死生唯命ナリ 死シテ君親ニ背カズ
護国ノ鬼トナラン
海軍中尉 清水武
紋切り型の―――当時としては極めてありふれた文句だ。中の一句は吉田松陰先生の辞世の詩から失礼にも丸々借用している。だが、この凡凡たる数行の中に、二十歳になったばかりの彼の赤裸な声を聞くように思うのは僻(へき)見か。
「俺はもう生きては還(かえ)らん。死んでもどうか悲しまないでくれ」と……。
出発の情景を、同僚の立川鶴雄中尉が山口の彼の両親に報知された。
謹啓
初冬の候 御一同様には益々御壮健の段奉賀候。
扨、今回清水中尉は愈日米の大決戦場たる南溟の空に皇国の隆替を一身に担い、若き空中指揮官として去る日雄々しくも出陣致され候
愈出撃の当日には飛行場に司令官、司令臨場、壮途を祝して乾盃、萬歳を三唱し司令の 『皇国の安危は実に繋(かか)りて諸子の双肩に在り諸子克く任務を遂行し以て聖慮を安んじ奉るべし』との訓示あり、続いて「発進」の命に依り隊員の見送る中を一機又一機と轟々たる爆音を残して離陸、やがて編隊を組むや大きく基地上空を旋回すること二回、大編隊は堂堂と発進致し候。
小生 清水君とは兵学校以来霞ケ浦、神ノ池の飛行学生時代は勿論、学生教程卒業後は更に又教官として共に技を磨き共に飲み、出撃の日の来たらざるや久しきを慨嘆致し居り候ひしが、今茲(ここ)に清水君の出撃を見送り、羨(せん)望に堪へず、小生のみ取残されたる感じにて髀(ひ)肉(にく)の嘆なきを得ざる次第に御座候。
内地の教育部隊に残されしは甚だ心外には存じ候へども幸い帝都に来襲する敵大型機あり、遊撃せんものと最近は張切り居り候。
同封せし振替は、出撃直前清水君より託されしものにて候 爆音を後に堂々基地を進発せし清水君の英姿未だ眼前にあり、吾(ご)人は必ずや清水君が大東亜戦史の一頁を飾るべき大戦果を挙げんことを確信致し居り候。
最後に清水君の武運と奮闘を祈り擱(かく)筆する次第にて候。
敬 具
十二月八日
この手紙で両親は初めて、息子がどこか遠くの戦線に飛びたって行ったことを知ったが、まさか特攻隊員として出て行ったとは想像もしなかったろう。肉親の情でみれば、余りにも無造作に過ぎる出立だった。
この立川鶴雄中尉(徳島県麻植中学出身)も、後に本土防空戦で戦死されたという。
新編成の特別攻撃隊は一航艦(第一航空艦隊)に編入され、台湾で約十日間の特別攻撃訓練を行った後フィリピンへ飛ぶことになった。先に大西長官と共に東京に出張した一航艦参謀 猪口力平大佐が、比島への帰途、台湾に留まって、相次いで集結して来る隊員の訓練に当った。
「台湾における特別攻撃の教育日程は、だいたいつぎのようなものであった。
第一、第二日 発進訓練(発動、離陸、集合)
第三、第四日 編隊訓練(出発時は発進訓練を併用)
第五、第六、第七日 接敵突撃訓練(発進訓練、編隊訓練併用)
その後余裕があれば、これを適宜反復することにした」
(猪口力平・中島 正「神風特別攻撃隊」)
新編成の特別攻撃隊は各基地から大村― 鹿屋―小禄(沖縄)と飛び石を伝うようにして台湾に向ったが、発令後七日目には早くもその第一陣が台南に到着した。出発準備等の所要時間を計算に入れてみると極めて敏速な移動と云える。しかもその到達率が、当時としては驚異的と云ってよかった。内地から比島方面への空輸部隊の到達率七割とされていたこの時期に、前記の百五十機中、次々と飛来して台南基地に集合したのは結局航空機百四十機、塔乗員百四十八名に達した。この中八名は乗機が破損したが予備機が間に合わぬ為、他の飛行機に便乗してかけつけたもので、途中病気で落伍した二名が欠けただけである。以て彼らの士気の高さを知ることが出来る。
大至急の即成訓練を終えた特攻隊は、逐次フィリピンへ進出して行った。猪口大佐が元山空の金谷真一大尉が率いる最後の十三機と共にマニラ北方のクラークフィールドに着陸したのは、昭和十九年(一九四四年)十二月二十三日の夕刻であった。
既にレイテ戦の大勢は決し、敵のルソン島来攻も間近とみられる頃である。
(五)中西達二中尉(前出)の出撃前、郷里の御両親に宛て書かれた遺書に、家の廃絶も止むなし――という意味の一行がある。
(真継不二夫編「神風特別攻撃隊員の遺書」)
同じような考えは特攻隊を志願するに当って、当然彼の心中にもあったはずだ。彼を含めた三人兄弟の中で兄は前年既に没し、弟もまた自ら望んで軍の学校に在る。
戦争がこのまま続けば、やがて山口の家には六十に近い父と母の他、まだ小学生の妹以外に残るものの無くなるのは自明の理だ。その事実に心を痛める優しさと、更にそれをあえて切り捨てる強さとを、二つながら彼はもっていたと思う。
――清水の家では息子を皆兵隊にして、あとは一体どうする積りじゃろう―― と首をひねる人もあったというが無理からぬ話ではある。恐らくは彼の父も、息子と相似た決心を固めていたことだろう。ただ、余計な言葉を口にすることを好まぬ父は、自分独りの胸中に一切をしまい、妻にさえも洩(も)らすことはなかったのではないか。
大義親ヲ滅ス、と云うが、息子の方にとっては正にこの言葉そのままの苦渋を如何ともすることが出来なかったであろう。この、思索癖の乏しかった男の短い生涯では、珍しくも、深い思いに沈む日夜があったとしても不思議ではない。
彼と同じ海兵七十二期の、厚木航空隊生き残りという人に聞いたところでは、特別攻撃隊で死んだのはいずれも教育航空隊で教官をしていた連中だったということだ。しばしば挙げる中西中尉もそうなら、彼―――清水中尉も同様だった。フィリピンにおける最初の第一神風特別攻撃隊指揮官に選ばれた関行雄大尉(海兵七〇期)の遺書にも
「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」
とある、己の教えた学生に対する責任感や、連帯感の他に―――、軍人の思考形態としては些か異例に属するかとも思えるが、―――人に死を命ずるからには、先ず身を以て範を示さねばならんという、多分に若い気負いをもった自己犠牲の念も無かったとは言えまい。
ともあれ苦悩の時間があったにしても、そこから自分なりの決断を導き下すのに、さしたる時間は必要としなかったはずだ。そして、一度決心した後は、もはや思い惑うことも無かったに違いない。第一それ程の猶予が許される状況ではなかった。
彼の出発は、先に挙げた立川中尉の手紙の日付から、大体昭和十九年十二月初旬という事が判るものの、台南あるいはマバラカットに到着した日付については確認のしょうがない。
とにかく、十二月初旬のある日、清水中尉が列機と共に荒涼たる神ノ池の滑走路を飛び立ったという一事が判れば良い。司令官、司令以下の盛大な歓送を受けたというから、多分それが神ノ池航空隊最初の特攻隊だったのだろう。
零戦の操縦席は狭い。国産乗用車の運転席を左右一メートル程に狭くした程度と思えば良かろうか。その閉された風防内の僅かな空間に身を置いてプロペラの轟音のさなか、二十歳の青年の胸中を去来する様々な感懐があったに違いないと思われるが、果してそれは何であったか。霞ケ浦の湖面も、東京の街並も、富士の嶺(みね)も、もはや二度と見ることがないと思えば、切ない感傷の湧(わ)き上るのを抑えることは難しかったであろう。
彼の余命はあと四ヵ月足らずに過ぎぬ。だがそれさえ、この時の彼の考えからすれば長過ぎた筈だ。
ともあれ、彼はルソン島に到着した。概算して、十二月の中旬、多分二十日前であろう。
特攻隊員としていつとも知れぬ出撃の機を待つものの心情を想像することは、今の私どもの能くし得る処ではなかろう。敵発見の報の入った時が即ち死出の旅立ちの時であり、こればかりは予測がつかない。索敵能力の著しく低下していたこの時期の比島戦線にあって、待機中の隊員達はいわば毎日毎時死と向い合った生活を余儀なくされることになった。
この点で、九州から島伝いに南下すれば敵は間違いなく待ち構えていた沖縄戦の場合と些か状況を異にしていたと云える。
多くの人の記録があるが、ここでは、あえて、フランス人ジャーナリストの文章を借りることにする。一九二九年(昭和四年)パリ生れの紳士の筆に成る「神風」の一節である。
「きわめて印象的なものに、神風。パイロットの行動がある。多数が特攻隊入りを許可されたために、彼らは飛行隊にあふれていたが、すでに隊員となった者は次には毎日のように上司に対して、先頭を切って出撃させてもらうことを主張したり、ねばり強く交渉したりしていたのである。この態度を我々は決して誤解してはならない。
これはなにも命を縮めたがっている人間の、過剰な神経の緊張の結果としての行動ではなかった。彼らは自分たちが実際行動に移り得ないままに戦闘が終ってしまうことを恐れていたのである。とにかく彼らの行動には我々西欧人はただ驚かされるばかりである。
(中略)
レイテの戦闘が最終段階にあった十二月二十五日、米軍はレイテ島とルソン島の中間に位置するミンドロ島南部サンホセに上陸を開始した。ルソン島攻略の為に是非とも占拠して置かねばならぬ要地である。
特攻隊はこの間も休みなく攻撃を続行したが、十二月十八日予想外の大事件が発生した。ほんものの神風(台風)がフィリピン東方海面にあったアメリカ艦隊を直撃したのである。艦隊は大型台風の猛威に為すところなく、もてあそばれ痛めつけられた。
駆逐艦三隻(モナハン、ハル、スペンス)が沈没。空母五隻(モンテレー、サン・ハーシント、カウペンズ、キャボット、オルタマハ)、護衛空母三隻(ネレンタ・ベイ、ケープ・エスペランス、クェゼリン)、軽巡マイアミが大損傷を蒙(こうむ)った。負傷者と行方不明者七九〇名、飛行機喪失一四六機にのぼり、この艦隊は予定の作戦を中止して修理の為ウルシーに回航しなければならぬことになった。
昭和二十年(一九四五年)、最後の正月を彼はルソン島で迎えた。その頃は芋がゆで食糧の食いのばしをはかっていたが、元旦だけは小さな餅入りの雑煮が出されたという。噛(か)みしめて味わう気持ちには複雑なものがあったであろうと思われる。
一月五日、米軍はリンガエン湾上陸作戦を開始した。この日、偵察機から二〇一空司令部に入った報告は
「ミンドロ島西方敵部隊三〇〇隻見ゆ、針路北、速力一四ノット」
続いて
「その後方には七〇〇隻見ゆ、針路北、速力一二ノット」
というものである。実はその後方に更に三、四百隻の後続部隊があって、先頭からレイテ湾に至る海上は船で埋まった感さえあった。
報告を受けた司令部では、一同が驚くよりも呆(あき)れてしまった。そのような大群を、―――たとえ特攻攻撃に対応する為に小型船舶が多かったにしても―――これまでに誰も見たことがなかったからだ。しかもこの時、二〇一空の可動機は四〇機に過ぎなかった。
既に司令部から、五日までに可動全機出撃、他の故障機は焼却し、六日以後は全員陸戦隊となって基地西方の山岳地帯に拠るよう下命されている。命令に従って最後の四十機は続々と発進、海をおおう敵に突撃して行った。
後では、各人が不要物を焼きすて陸戦用の靴も配られた。
翌六日朝、副長玉井中佐の許に、飛行可能の零戦五機が出来上ったという思いもかけぬ報告があった。整備兵達が徹夜の作業でスクラップ同然の故障機を再生したものである。
飛行長中島少佐は特別攻撃隊パイロットに整列を命じた。三十名余の隊員が防空濠の前に三列横隊に並ぶと中島少佐は事情を説明し、改めて志願者を募った。即座に全員が手を挙げた。結局指名する他はなくなり、玉井司令と相談の上、中野勇三中尉以下五名が選ばれた。
五機は、この六日午後四時四十五分、マバラカットの爆撃と銃撃で蜂の巣のようになった滑走路から、リンガエン湾の敵艦隊に向って飛び立って行った。
これが第一航空艦隊の最後の攻撃であった。
清水中尉はこの最後の五機にも選に洩れた。不本意であったに違いないが命令は如何ともし難い。心中はともかく、黙って陸戦の準備にとりかかったものであろう。
当然のことだが航空隊に陸戦用の兵器はない。僅かに衛兵用の小銃若干がある他は偵察機用の旋回機銃と、戦闘機から取りはずした七・七ミリ機銃及びその弾薬だけである。二十ミリ機銃もあるが大きく重いので多くは持って行くことが出来ぬ。山に籠(こも)っても果してどれ程の戦力となり得るか、心細いことではあった。
これより先の一月四日、大西長官は一航艦の猪口力平参謀と二航艦の菊地朝三参謀長を招いて一つの決断を伝えている。
使用すべき航空機がなくなったので一航艦は比島の山中に残って陸戦隊となり、福留中将の二航艦には台湾へ引揚げて貰うというのである。菊地参謀長は反対したが、大西長官は強引にそれを押え「俺から福留長官に話す」ということで話を打ち切った。
一月六日夜おそく、台湾から飛来した二機の一式陸攻に分乗して、福留 繁中将以下の二航艦の将兵はフィリピンを去った。出発に先立って日本酒とスルメだけの短い送別の宴が張られた。送る一航艦、送られる二航艦、双方のパイロット達の胸中には言葉に出せぬ錯綜(さくそう)した感慨がうず巻いていたことだろう。
月のない暗い夜で、歌うものも、酔うものさえなかったという。
その夜、二〇一空副長玉井中佐と飛行長中島少佐が、二航艦の出発を見送って帰ろうとしたところへ伝令が来て、大西長官の私室に呼ばれた。
「大西は私室で待っていた。玉井と中島が『二航艦は発ちました』と告げると『うむ』と頷(うなず)いただけで、すぐに口をひらいた。『一航艦はこれから山籠(ごも)りするわけやがねえ。ただ、誰か一人は後に残って、神風特別攻撃隊の心は伝えなければならんよ。それには、君達がいちばん適当だと思うが、玉井君は二〇一空の全員が山籠りする以上、司令の立場からいって都合が悪かろう。そこでやねえ、中島君に比島から出てもらうのがいいと思うんやが、どうかね』
中島は、とっさに言葉が出なかった。やはり二〇一空の飛行長として特攻隊を編成し、訓練し、見送り。起居を共にして来た。その自分が部下をおいて、ひとり島を出るにしのびない――― 中島が声をのんでいると、大西がその先をいった。
『中島君の辛い気持もわかるがね。しかし、いまは私情をはさむ時ではない。特別攻撃隊のことは、内地のものにはどういうものか実際には体験がないのだ。このことは、だれかがその真実を伝えねばならんのだよ。君がいやだというなら、命令を出す。』
中島少佐は、ここで泣き出した。命令を出されては恥である。ひとり島を出るのは遺憾のきわみだ。しかし、涙をおとしながら『おいいつけにしたがいます』といわざるを得ない。大西は中島の言葉をきくと、椅子から立ち上ってきて、彼の手を両手ではさんだ。
『ああ、これでよかった。よろしく頼みますよ』」 草柳大蔵「特攻の思想」)
次は、その中島少佐ご自身の記述である。
「私は比島におけるいままでの神風特別攻撃隊員の戦闘経過やその編成を、細大もらさず書類にするのにまる一昼夜をついやした。そして、同じ書類を二通作り、一つは私が、他のひとつは残った特別攻撃隊員の中から選んだ清水武中尉に持たせ、それぞれ彗(すい)星偵察機の旋回銃をはずしたところに乗り込んで、八日未明、うしろ髪を引かれる思いで、マパラカットの飛行場を飛びたったのであった。
離陸後、飛行機は低空をはって、東よりに北上した。リンガエンの敵戦闘機を避けるためである。ところが私の乗っている彗(すい)星の脚がおさまらない。脚が出ていては速力が出ない。二番機はただちに先行した。もちろんはじめからどちらか一方がくわれても、他方が助かるよう別行動をとることにきめてあったのだが………。運命というものは不思議なものである。この脚が収まらないことが、私の飛行機を助けたのであった。その朝、台湾は霧であったが、私が遅れて到着した時にはすでに晴れかかっていた。やっとのことで台南の飛行場に着陸したが、先行した飛行機は、この濃霧のなかに突っ込み、ついに高雄の山に衝突して操縦員は戦死し、清水中尉もまた大けがをして、高雄海軍病院に収容されたのであった」
(猪口力平・中島正「神風特別攻撃隊」)
ここに出る戦死された操縦員の氏名も不明である。記録は当然残っているはずだが、確かめる手段がない。与えられた任務の重さから察するに、かなりの経験を積んだベテランだったろうと思われるが、そのようなべテランパイロットでも悪い気象条件に遭ってはどうすることも出来なかった訳だ。これは個人の技術よりも飛行機の装備に因を求めるべきだろう。
特にレーダー装備の有無は決定的なハンディキャップとなった。レーダーのない日本航空部隊は、先ず索敵哨戒能力で著しく劣ることになり、更に夜間は無論のこと、雲やスコールに遮られても敵を発見攻撃するこが出来ぬという実情だった。現に、最初に編成された特別攻撃隊―――関行男大尉を指揮官とする敷島隊以下の各隊も、敵発見の報を受けては幾度か出撃しながら空しく帰投するということをくり返し、初めて攻撃に成功したのは編成後五日目にあたる十月二十五日、レイテ沖から大和、長門以下の艦隊が反転退避した後である。あえて、酷な言い方をすれば、戦略的には既に機を失した突入であったということになるが、この遅れをもたらした理由も畢竟(ひっきょう)レーダー装備がないという一事につきる。
昼夜を問わず、天候の良否にも左右されることなく、不断に攻撃して来る敵に対して、右のようなハンディキャップを負って戦わねばならぬ日本側の劣勢は、単なる数の差を幾倍にも増幅したほどのものだったと云えよう。
高雄の海軍病院に収容された清水中尉は、全身縫帯でぐるぐる巻きの姿でベッドに寝かされていたという。恐らく、裂傷・打撲傷・火傷等あらゆる種類の傷を全身に負い、紅顔はもはや二目と見られぬほどに変貌(ぼう)していたことだろう。以後の彼の写真が残されていないのは、彼の家族にとって幸いだと云わねばならぬ。
ともあれ、彼はここで一度死んだのである。自ら志願して赴いた比島で遂に死所を得ることが出来なかった彼にとって、この台湾への飛行は本意に添うものでなかったにせよ、与えられた使命は崇高なものだった。
不測の事故に遭って重任を果し得なかったことに自責の念を覚えると同時に、とにかく一つやるだけの事はやったという、幾らかは自ら慰める気持もあり得たのではないか。
どうにか再び操縦が出来るまでに回復したのは、奇蹟(せき)的と形容しても大して誇張にはなるまい。勿論、当人の若い体力・気力と共に、病院の医師や看護婦その他多数の人々の献身的な努力、更には上司・先輩・同僚等の人々の激励に負うところ多大なものがあったろう。文字通り満身創痍、容貌もすっかり変り、挙措動作にも完全な自由はとり戻していなかったものと思われるが、とにかく彼は回復して特攻隊に復帰し、今度こそ間違いなく死ぬ為に、再び同じ零戦の操縦桿(かん)を握ることになる。
フィリピンに於ける航空作戦は終った。その最後の幕の一端を、図らずも若干二十歳、初陣の一中尉清水武が引いたわけだ。
(六)ルソン島に残った第一航空艦隊では、大西長官の決定通り大急ぎで陸戦の準備に入り、山岳地帯への移動が開始されていた。携行出来る限りの武器弾薬・食糧・野営用具等をもっての強行軍である。夙(つと)にリンガエン湾に進入した米軍は、入念な砲爆撃の後、一月九日には上陸を開始している。移動の慌しさは想像以上のものがあったであろう。
陸戦の経験をもたぬ海軍の、それも特に航空隊員のことだ。せいぜい兵学校時代に年に一度、日数にして一週間程度の陸戦演習を経験した少数の士官がいる位で、要するに素人の集団であり、それだけ混乱も大きかったろうと想像される。
パギオに移っていた南西方面艦隊司令部経由で、一通の連合艦隊命令が舞い込んだのはそのような時であった。
一航艦は台湾に移り、先に比島から引揚げた二航艦と合して新たに一航艦を編成せよというものである。そして「搭乗員及び優秀なる電信員」を台湾に転進させる(つまりその他の要員は切り捨てる)ことを命じ、最後に 「実施期日を一月八日とす」とある。
命令を受けた一航艦司令部の中には、今になって何を云うか………と云った憤懣(ふんまん)を覚える者もあったのではないか。
既に山中へ移動中の塔乗員等を、再び一人一人呼び返して集合させるだけでも大変な作業であり、士気の混乱低下を招来することも多分に考えられる。連合艦隊司令部や大本営の前線の実情に対する認識・把握が如何に杜撰(ずさん)であったかをここにも見ることが出来る。
ともかくもこの命令に従って一月十日、まず大西長官以下の首脳部が台湾に飛び、直ちに一航艦の再建整備にとりかかった。
残った幕僚と搭乗員達は、引続き敵の攻撃の間隙を縫って救出・移送されることになった。使用可能の輸送機が少なくその空輸能力に限りがある上、危険も大きいので、塔乗員と幕僚の半数はルソン島北部のツゲガラオ又はアパリまで陸行転進した。途中ゲリラの襲撃等もあってこの移動は困難を極めた。
こうして救出された塔乗員は、主に台南及び台中基地に集結して整備訓練に従事したが、一方、取り残された地上員は二六航戦(第二十六航空戦隊)に編入されてその地上部隊となり、その後の悲惨な山地の戦闘に突入することとなる。
二月五日、新たに一三二、一三三、二〇五、七六五の各航空隊が編成され、比島から転進した搭乗員達は各隊に配属された。当時台湾に在った航空兵力は練習航空隊の練習機と練習生が主であり、これに比島へ補充途中の少数機及び比島から転進して来たもの若干を加え得たに過ぎない。ルソン島北部のツゲガラオ、アパリに在る旧一航艦の塔乗員を何とか救出して充当しなければ再建の目途も立たないというのが実情であった。
しかも内地からの補給は、敵機動部隊の南西諸島への攻撃に阻まれた上、大本営及び連合艦隊が敵の沖縄来攻を予想して主航空兵力を九州方面に配備した為、辛うじて百機に達し得た程度に過ぎない。三月上旬に於ける海軍航空隊の兵力は五航艦六〇〇(本土西部)、三航艦八〇〇(本土東半部)、一〇航艦四〇〇(本土各部に展開、但し大半は練成途上にあり作戦参加はほとんど不可能)、そして台湾に展開した一航艦三〇〇である。総兵力二一〇〇機と数だけは相当なものだが、各隊共編成後、日が浅く練度は低い。目前に迫る次期作戦においても、従来の航空作戦の方式をとる限りわが方に成算はなかった。この為、大本営は五航艦と一〇航艦に対し、もはや特攻以外に効果的な戦法はないと考える旨を内示した。
比島戦線に始まった特別攻撃が、今や日本本土の戦場でも取られようとしていた。
その間、二月十九日、米軍は硫黄島に上陸、死闘を続ける一方、整備の成ったマリアナ基地からはB29戦略爆撃隊による日本本土空襲が、次第に規模と目標を拡大しながら反復して続けられた。三月十七日、硫黄島守備隊は兵団長栗林忠道中将以下最後の突撃を敢行して玉砕した。翌十八日、米機動部隊の艦載機は大挙して中国、九州の各地に来襲した。
明らかに沖縄攻撃の前哨戦である。
三月二十五日、米軍は遂に沖縄本島西方の慶良間列島に上陸を開始した。大本営は直ちに「天一号」作戦を発動、「史上最大の海空戦」(ハンソン・ボールドウイン)の火ぶたを切った。
いつ退院して一航艦に復帰したものか明らかでないが、この時清水中尉は新編二〇五空の一隊と共に台湾北部太平洋岸の宜蘭から石垣島に前進していたものと思われる。
一月八日に負った傷は二ケ月余の間に全治するようなものではなかったはずだから、到底完全治癒退院という訳ではなかったであろう。
それでもとにかく彼は戦列に戻った。状況やむを得ず下された命令に従ってか、あるいは彼自身の意志のみに基づいてか………。 いずれにせよ、彼が一航艦特別攻撃隊の先陣の栄を担うことになった。
以下はすべて想像―――。凡俗な人間の従って当然凡俗な想像である。とんでもない見当違いや卑俗な邪推(じゃすい)の類で、故人を汚すことになるかも知れぬが、敢えてそれを述べてみたい。
この時期の彼―――清水中尉は、もはや死ぬことのみを求めていたに違いないという気がする。高雄海軍病院以来、軍人として、又戦闘機乗りとして、それにふさわしい死処を得ることだけを目標に数十日間を生きて来たのではなかったか。
無論、軍人にとって死は常にその職務と不可分である。それ故、軍人たるものは仮にも死を怖れるようなことがあってはならぬ。少なくともその恐怖を自ら努めて克服しなければならぬ。だが、死を怖れぬことと自らそれを望むのとは明らかに違う。
当時、(昭和二十年三月)戦局は如何に楽観的に見ても採るべき策がない程に絶望的だった。日本海軍は艦隊の大部を失って戦力的には既に存在せぬも同然であり、残るのは航空兵力のみだが、それも数は乏しく補給も足らず、パイロットの技術未熟はいうまでもない。加えて燃料の不足は深刻で、所定の飛行訓練さえ実施に困難を来す状況である。勝利に望みのないことは第一線の誰もが痛感していた筈だ。経験したことのない敗戦という汚辱を嘗める前に、自ら死処を得たいと願う気持は多くの将士が等しく抱いたところであろう。
三ヵ月前、神ノ池空を共に飛び立った部下達の何人が、この時まで生き残っていただろうか。爆装して出撃する部下を誘導・掩護(えんご)し、戦果を見届けるという、いわゆる「直掩(えん)」の役を彼が務めたことはなかったか。若しあったとすれば、起居を共にしつつ自ら教えた部下達の後を追って、俺も死なねばならぬと彼が考えたとしても不思議はない。
大西長官の命で、中島飛行長と共にルソン島を脱出したことも、その任務の性格や軽重とは関りない、拭(ぬぐ)い難い呵責(かしゃく)を彼の若い心に残した筈だ。最後に見捨てられ、ルソンの山中に置き去りにされた人々に対する負い目は、無論忘れようとして忘れられるものではなかった。苛(か)烈な戦場の強要する非人間的行動の数々が、若い純な心に、軍人精神では割り切れぬ暗い翳(かげ)を落したことは容易に想像できよう。
高雄の山に激突して負った傷を考慮に入れぬ訳には行かぬ。彼は誰の目にもスマートな好男子、美男子だった。世が世なら一般の淑女が憧(あこが)れの対象とするに足りた―――と云って良い。アルバムに残る神ノ池の可憐な乙女の照影が、種々の想像をかき立てる所以である。自らも、窈?(ようちょう)たる淑女を獲て落着いた新世帯を営むと云った望みを抱くことが無かったとは言えまい。不測の事故による負傷はそう云う彼を手荒く痛めつけ、恐らくは見るも厭わしいような―――極端な想像をすれば化物のような容相に変えたことだろう。
詰るところ、軍人としても、或は単に一個の男性としても、彼にはもはや生に執着すべき理由は何一つとして無くなっていたのではなかったか。とっくに家を捨て肉親との絆を断った若者にとって、生が今や不断の呵責(かしゃく)となり、しかも行きつくところ未聞の汚辱以外にないとなれば、採るべき途は死以外に有り得ないのが道理ではないか。それ以上の冷徹な思慮判断を、軍人教育しか受けたことのない二十歳の青年に求めるのは酷に過ぎるというものだろう。
斯くて、彼は傷痍の身を駆って最後の飛行に出発する。
(七) 昭和二十年(一九四五年)四月一日の朝―――記録によれば六時四十五分、沖縄県石垣島の小さな飛行場から二十機の零戦が発進した。台湾から進出して来て待機していた一航艦の神風特別攻撃隊第一大義隊の出撃である。
整備員その他の地上員、それに多分、早起きの島の住民達が送別の手を振る裡(うち)に、清水武中尉の指揮する直掩(えん)隊十四機が砂塵(じん)を捲(ま)いて発進、続いて酒井正俊少尉以下の戦爆六機が次々と離陸、直ちに編隊を組んだ。二十機の零戦は基地上空を旋回し、翼を振って別離の挨拶を送ると、東方の夜明けの空に消えて行った。
この日、米軍は艦船一四五七隻、上陸兵力十八万三千を以て沖縄本島中央部、嘉手納海岸に上陸を開始した。これを支援する目的でこの朝、宮古島南方海上にいた英国艦隊が目指す目標であった。
「これは一般には耳新しいことと思うのであるが、沖縄においてはアメリカ海軍のみならず、イギリス海軍の有力な航空部隊が参加していたのである。
この艦隊は航空母艦四隻 (インドミタブル、フォーミタブル、インディフアティカブル、ビクトリアス、搭載機総数二五〇機)、戦艦二隻(キング・ジョージ五世、ホース)、巡洋艦五隻、駆逐艦十一隻をもって編成され、指揮官は海軍中将H・B・ローリングであった。
イギリス艦隊は第五十七機動部隊と呼称され、沖縄の南方海面に行動して先島列島及び台湾を制圧する任務を受持った。艦隊は三月十六日ウルシーに入港して在泊艦のアメリカ水兵達を喜ばせ、三月二十六日の日の出前に作戦場に到着した。三月中はわが空中攻撃に見舞われなかったが、四月一日の早朝、石垣島基地から発進した第一大義隊(指揮官少尉酒井正俊、直掩(えん)隊指揮官中尉清水武)によって神風特攻攻撃の洗礼を受けた。
空母ビクトリアスから飛び出したコルセア戦闘機に阻止されたけれども、わが直掩戦闘機一機はインドミタブルの飛行甲板を銃撃して下士官一名を殺し、士官二名、下士官四名を傷つけた。この戦闘機は続いて戦艦キング・ジョージ五世をも銃撃したがこれは効果がなかった。銃撃後、特攻機は空母インディファティカブルの艦橋の基部に体当りし、十四名を倒し十六名を傷つけ、飛行甲板の使用を封殺した。しかしイギリス航空母艦の飛行甲板の鋼板は厚いので、体当りでは破壊することが困難であって、英軍は数時間後には損害を復旧して飛行作業を復興した。数分後に駆逐艦ウルスターは至近に特攻機が突入したため、甚大な損害を受けて戦闘行動を続けることが出来なくなり、巡洋艦カムビヤに曳航されてレイテに引きさがった。」
(安延多計夫「南溟の果てに」)
敵側発表によるこの日のイギリス艦隊の損害は左の通りである。
空 母 インディファティカブル 一機命中(被害大)
空 母 インドミタブル 銃撃(被害微少)
駆逐艦 ウルスター 至近弾(大破)。
また、この日、直掩隊の未帰還は清水機のみという。
H・B・ローリング司令長官よりスブルーアソス大将宛報告(一九四五・六・一六)。
「第五十七機動部隊は六十二日間作戦海域に在り、先島列島及び台湾の敵基地に反復攻撃を実施した。その間アメリカ海軍機動部隊が不在の際は適時その任務を代行した。作戦期間中の飛行回数は延四八五二回、投下せる爆弾及びロケット弾八七五トン。日本機一七〇機を撃墜破、他に敵艦船及び無電施設等をも攻撃した。わが損害、戦闘により三三機、事故その他により九二機」
戦いは猶続く。北から西から、陸海両軍の特攻機は連日沖縄周辺の敵に向って相次いで突撃して行った。零戦によって始められた特攻攻撃だが、ここに来ては、今やあらゆる機種が動員され、通称赤トンボ―――布張りの練習機までが爆弾を抱えて出撃した。航空部隊のみならず、世界最大の戦艦大和さえ片道分の燃料で沖縄に向い、四月七日司令長官伊藤整一中将、艦長有賀幸作大佐以下三千の将士と共に九州南方五〇浬の海中に没し、帝国海軍の海上勢力は文字通り潰(かい)滅した。
しかし、彼はもはやそのような事を見たり聞いたりすることもなかった。清水武にとっては、戦争は既に四月一日の晴れた朝、終ったのである。
終戦の後になったが、彼の父親あてに届いた報知は次のようなものであった。
謹啓
海軍中尉清水武殿 昭和二十年四月一日宮古島南方ノ戦闘ニ於テ御奮戦中名誉ノ戦死ヲ遂ゲラレタル旨今般所属部隊ヨリ報告有之候條取り敢へズ茲ニ御通知中上グルト共ニ謹ミテ深甚ノ弔意ヲ表シ申候
敬 具
昭和二十年十一月二十一日
海軍省人事局長 大野竹二
清水 知一 殿
拝 啓
海軍中尉清水武殿戦死ニ関シテハ先般取リ敢エズ御通知申上置候処同官ハ昭和二十年四月一日神風特別攻撃隊第一大義隊トシテ宮古島南方方面ノ空中戦闘ニ於テ御奮戦中壮烈ナル戦死ヲ遂ゲラレタル次第ニ有之誠ニ痛惜ニ堪へズ茲ニ謹ミテ深甚ノ弔意ヲ表シ申候
右ノ趣 上聞ニ達スルヤ畏クモ生前ノ殊勲ヲ嘉セラレ特ニ二階級被進海軍少佐ニ被任ノ御沙汰ヲ拝シ候ニ付御通知申上候
敬 具
昭和二十一年三月五日
第二復員省人事局長 川井 巌
清水 知一 殿
他に誰方から寄せられたのか不明だが、小さな色紙に達筆で認められた短歌と七言絶句がある。いずれも花押があるが判読は難しい。これを「詠み人知らず」 の挽歌(ばんか)として左に掲げる。
沖津波よせ来る中に華と散りしやみやこの島の 益良夫をおもふ
清水少佐を弔ひて詠める 花 押
志士挺身貫至真 忠魂不滅永化神 殊勲赫々照天地 烈々神風義勇臣
弔清水少佐 花 押
清水武は死んだ。最初に記した通り、二十年七ケ月余の短い生涯である。無論、長く後世に伝えるに足る事蹟(せき)を残す暇はなかった。名もない一軍人として職務に殉じたのであり、時と共に朽ち果てるわずかな記憶を、身近な人々の裡(うち)に宿して逝ったに過ぎぬ。
敗戦後、息子達の帰還を待つ山口の両親の家に最初に辿り着いたのは、満洲国新京に生れ育ち、この春兵学校に入校していた彼の従弟だった。互に初めて顔を合せる肉親である。己が身内に、このような後輩のあることも、彼のもはや知るところではなかった。
続いて広島幼年学校から三番目の息子が帰って来た。帰り付いたその夜から、この弟は高熱を発し、数日間は意識のない状態が続いた。その看護をしながらも母親は、これであと武さえ帰って来ればとくり返していた。心中には期待と危惧(ぐ)が同居して、なかなかに安眠も出来ぬ日々だったであろう。だが、事実は先に述べた通りだった。
簡単な戦死公報が家族一同に与えたショックは小さなものではなかった。だが、誰もその死について語り合うということはなかった。悲嘆の色も、少なくとも外から見る限りでは大して無い様子だった。死んでも泣かないでくれと最後の帰省の時母親に言い残して行ったが、家族全員がその言葉に大人しく従っていた様にさえ見える。
話を聞いて弔問に訪れる人が、暫くは毎日の様にあった。ある日、彼の小学校時代の恩師――― 入学以来五年余の間を通して担任された綿津四郎先生が不意に来訪された。殆ど十年ぶりにお会いする先生と数々の想い出話を交しながら、流石に母は涙を押えきれずにいた。
戦後二年目の頃だったか、一人の不思議な人物の来訪があった。近江一郎と名乗る中年の紳士で、特別攻撃隊戦死者の慰霊の為、全国の遺族を訪ね焼香して周っているという自己紹介である。おだやかな面差しの小柄な人で元一航艦司令長官寺岡謹平中将の謹写された般若心経と共に、せめて形見の代りと思って欲しいと云って飛行服を仏前に供えられた。
どう云う人だろうと家族同士あとで噂(うわさ)し合った。特攻隊の隊長か何かだった人が、世を憚(はばか)る仮の名でああして巡歴して居られるのではないか、と云うのが凡その結論になったが、確信は誰にもなかった。
十年以上も過ぎた後のことになろうか、文芸春秋誌上に、この近江一郎氏に関する一文が現われた。それによると、この人は軍人ではない、純然たる民間篤志の士であって、夙(つと)に特攻隊員の慰霊を発意され、単身全国各地に散在する遺族を歴訪して居られたという。その篤(とく)志に感動された寺岡氏が自ら心を籠(こ)めて謹写されたのがかの般若心経であった。
近江氏は、飽くまで全戦死者の慰霊を完行すべく、懸命に調査・巡歴を続けて居られたが、惜しくも志半ばにして逝去された。
ここにも「戦争」の時代を生きた日本人の一個の典型を見ることが出来よう。
(八) 彼の墓は郷里山口市古熊の小高い山の中腹にある。そこからは、すぐ間近く彼の生れ育った家が見おろせ、更に山口の全市街を一望に収めることが出来る。
葬儀の後、ここに海軍少佐清水武之墓と記した高さ一メートル程の白木の墓標が建てられたが、昭和二十八年の暮、一家を挙げて東京に移住する際、彼の父親は大枚を奮発してみかげ石の累代墓を建て、一族の骨をこれに収めた。
三十五年三月に父が死去。四十八年十月、母も亦死んだ。昭和十五年以来丁度三十三年目にして再び親子が一諸になれたことになる。空しい言葉のあやに過ぎぬが、それでもこう考えるといささかの感慨は湧く。 (後 略)