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平成22年4月29日 校正すみ

森山修一郎君に捧げる

白根 行男

 

只今、今は亡き村島保二君の君の御父君に呈した昭和21年4月21日付の手紙を読ませて貫いました。

50万余の戦死者を出したフィリピンの戦場、今では想像するだに難しい阿修羅の大戦争でしたが、その中で幾多の期友を失っています。第2期兵器学生戦死者9名の中、6名は比島関係であり、うち5名は陸戦においてでした。その最期の雄叫びを想像する時、君の御母堂の発せられた断腸の声を今もありありと想い出します。或海軍の高官に対しての言葉でしたが、「19年の秋にどうして終戦に持ち込めなかったのか」……柳か場違いの繰り言かも知れませんが、人の子の母の一面の真実の声として、戦争体験を思い起す時、忘れられない言葉です。

「赤松海軍予備学生の手記」なるものが先年出版されました。君の所属した二〇一空基地部隊の言語を絶する凄惨な最期が書かれています。中にM中尉が出てきます。或は森山のことかなと思い乍ら読み進み、余程著者に問い合わせようかと思いましたが、納棺される最後の顔は成る可く見ない主義を通してきた私はつきとめることを止めにしました。残されたお姉様方にとっても、私にとっても今更益なきことのように思えたからです。草むす屍、水漬く屍・・・軍人であった当時の我々は聊かも覗かも疑念なく戦場に赴いたのですから。

さもあらはあれ、第2期航空兵器学生を恩賜の成績で卒えた君が、昭和191025日、第1次神風特攻の爆装を任とした時以後、陸続として同期生を含む特別攻撃隊を見送った挙句、正しく決死の覚悟で陸戦に臨んだに違いありません。生き残った我々は、幾多の英霊をかりたてた神風意識の底に潜む一部の誤りに今眼覚めているとはいえ、君の如き壮烈な犠牲的、英雄的行為の貴さまで否定することは到底出来ません。

明眸皓歯(こうし)、正しく字義通りのナイスボーイで頭もよく、角力の強かった君の姿は、我々72期の此の世にある限り、往時のままに生き続け、そのセンスによって纏められた72期のアルバムと共に語り継がれることでしょう。

第2次大戦、太平洋戦争、否、我々における大東亜戦争の語り部の1人吉田満氏は、次のように書き残しています。

「戦争に生き残った者が、今のこの安気な時代に飽食し、盛りの花を愛で、短い法要をすませた安堵感に身を任せて、死者への挽歌をうたうべきではない」と。・・・生き残った我々の後ろめたさと裏腹に、我々の担うべき役割は鉛のように重く且つ涯しない気がしています。「スマートで眼先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」と訓えられた海軍初級士官心得を地で行った在天の君、どうか天降って我々を導いて下さい。

昭和56年4月12

第2期兵器学生 白根 行男

(なにわ会ニュース45号13頁 昭和56年4月掲載)

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