平成22年4月29日 校正すみ
森 中尉
金枝 健三
森多久二は私の義兄である。と云う事は私の家内が彼の妹だから。そもそも、森との出会いは、四号、三号時代には全くなく、二号になって、第二生徒館、十六分隊で初めて一緒になった時である。それまで、学年単位での諸行事、部単位での講義等いくらでも出会いの機会はあった筈だが、何故か全く接触した記憶がない。それが二号になって、歌の文句ではないが、「なぜか気が合って云々」の友となったのである。そして二号の夏休暇、一宮市の彼の自宅で一泊の歓待を受け、翌日は犬山の「ライン」下りを楽しませて貰い、その足で今度は東京の我が家へ来て貰った。東京では兄が色々と気を配ってくれ、最も印象に残るのは、海軍士官たる者は日本の古典演劇歌舞伎を観賞しておかねばとの事で、歌舞伎座へ連れて行って貰ったのはよいが、退屈感と幕間の豪華な食事の満腹感で専ら居眠りをしていた事が、後々まで何かにつけて語り草になって仕舞った事である。
森は本当に優しかった。剣道も三段、水泳も赤線三本(四本?)と云う優秀な技倆を持ち乍ら、下級生には優しかった。反対に私四号時代、一号生徒による厳しい鉄拳制裁を受け、その反動で(?)で一号になってからは、鉄拳によって三号をして優秀なる海軍生徒たるべしの方針を貫いたのである。そんなわけで彼は事あるごとに鉄拳は止めろと云い、私はそれに何度反論した事か。
終戦後彼の父から最後の詳細を知りたいと云われ、私も当時なりに努力してみたが、満足して戴ける様な答はとうとう出せなかった。それが今から十年前、偶々級友の福島から座光寺教官(四十七期)が台湾の東港の指揮所で、九七大艇で索敵行に出た森を見送ったとの話を聞き、既に森の父は他界していたが、教官のその折の話を直接聞く機会を早急に作らねばと思い立ち、福島の尽力のお蔭でそれが実現出来た。座光寺教官の御好意と福島には感謝の言葉もない。有難うございました。そして昭和五十五年十一月二十三日(勤労感謝の日)、教官に森の家にお越し戴いた。参集せる者、森の母、姉三人、妹二人そして小田正三と福島と小生夫婦。母上始め全員教官の話に涙した。特に母上の目頭を手拭でおさえ下を向いたままの姿は今でも忘れる事が出来ない。これでこの席に父上が居てくれたならばどんなに……との想いはいつまでも残る。話のあと教官は「森中尉」という自作の詩を歌ってくれた。
戦後知った事であるが、森は自分が戦死した時は、金枝を自分と思ってくれと彼の父に云ったそうである。それが私と彼の妹との結婚につながり、私共夫婦は三人の子供にも恵まれ、孫も四人、まあまあの現在を迎えられるのも、彼、森のお蔭と感謝の気持で一杯である。私があの世に行ったら真先に、昭和十九年十月二十四日(森の命日)以降の諸々を報告せねばと思っている。
彼の家は既に母上も居らず、戦後一人残った兄上も亡くなり、現在は未妹に婿殿を迎え、優秀な男子二人 (共に社会人そして共に結婚) に恵まれ、森家は安泰である。どうか、森多久二の霊よ。安らかに眠って下さい。
(機関記念誌158頁)
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