平成22年4月29日 校正すみ
亡き兄 溝上正人を偲んで
溝上 了(弟)
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略 歴 大正12年7月10日生 鹿児島県立出水中学校卒業 昭和18年9月15日 海軍兵学校卒業 海軍少尉候補生 軍艦八雲・山城勤務 昭和19年3月15日 海軍少尉 大鳳勤務 同 年4月15日 潜水学校11期学生 同 年8月15日 伊368潜水艦勤務 同 年9月15日 海軍中尉 昭和20年3月14日 硫黄島付近にて戦死 海軍大尉 |
序に代えて
早いもので正人兄が戦場から還らないまま半世紀が過ぎてしまった。
この度、亡き父の秘蔵品を整理中図らずも兄上の書簡が多数発見された。思えば家族全員が一堂に会して追悼の機会を持つこともなく打ち過ぎ、かねてから胸を痛めていたところであったが、これを機に残された書簡集を整理し、その生涯を後世までにも語り伝えたいと、意図するところとなった。
1 旧制、中学時代
父の赴任先の長島から時に帰郷する久美姉と私の前に、昼間から閉め切ったままの部屋で机に向っている兄の姿を見るのが常であった。
当時の実家は祖父母と、兄と下男下女だけのように記憶しており、孤独な生活でなかったかと思うが、荒崎の上村貢(叔父)や近所の中学生の後輩の姿が見られ、かえって充実した生活であったかも知れない。
何一つ自らを誇示することのない兄だったが、学校の成績は勿論、受験雑誌の模擬試験においてもその成績は常にトップクラスで、賞のメダルが数10個もあったのを覚えている。私が同一の中学に進学した時、教師や上級生が、兄を賞賛し、出来の悪い自分を恥かしく思ったことだった。
2 兵学校時代
兵学校の入試は難関中の難関であったが、短剣を帯びた制服姿も全中学生や女学生の憧れの的であった。
しかし兄の言によれば、その生活は厳しく、学科や訓練は猛烈であったという。兵学校は理科系の学校であるが、軍事学は勿論、棒倒しや、カッター訓練の烈しさとともに語学も重視され、更に一般教養として西洋料理のフルコースのマナーの習得の機会などあり、休暇による帰省時の話は土産の虎屋の羊かんとともに心躍るものがあった。ある年の帰省時に出水の航空隊を訪れた兄が、赤とんぼに同乗し、我が家の上空を数回旋回したことも、忘れがたい思い出となっている。
3 出陣
大戦の展開にともない兵学校の卒業は早くなり、昭和18年から出陣することとなった。兄は、戦艦「山城」などの勤務の候補生時代を終り、少尉になって、短期間の航空母艦大鳳の勤務のあと、潜水学校学生を経て潜水艦勤務に配置された。
後年出版された戦記文学や同期生の方の話などによると兄は、伊号368潜水艦の砲術長の役職であったという。同艦は大型潜水艦であり特別攻撃隊としての「回天」を搭載して出撃し、硫黄島付近の戦闘で散華したという。
戦後兵学校を訪ねた時、参考館の1階で、また、2階の歴代戦死者の石碑の中に兄の名前を見出し、思わず合掌したが、同時に館外に展示してあった「回天」を見て、感慨無量なるものがあった。
4 戦後
思えば昭和19年秋、全く予期せぬ兄の帰省があった。長剣を帯し、純白の軍装に身を固めた兄は、たまたま開催中の江内小学校の運動会に出席し、村民や児童に対し壇上から演説したことが記憶に生々しい。
今にして思えば、それが出陣の最後の挨拶となったのである。短時日の帰省であったとはいえ、父は出水実業の軍事訓練に出席し、弟妹は幼く壮行の宴を催すこともなかったが、小学校への往復の途次、新村の大祖父母の温容に触れ、故郷のインパクトを確かなものとして実感し、心暖まる一時を過したのである。
戦場への出発の朝、家族は職場や学校へ向かったので、見送りは母と祖父母だけであったろうと思われて悔まれてならない。
兵学校同期生の結束は他に類をみないほど固く、戦後しばしば國神社において慰霊祭をかねた同期生会を開催していただき、遺族招待は常であったが、社会の重鎮として活躍されている姿を見るにつけ、現存しない兄を想い、ただ冥福を祈るのみである。
(編集部注)
溝上正人君は20、2、20、回天特別攻撃隊千早隊の1艦として硫黄島方面の敵部隊攻撃に向かった潜水艦伊368に勤務していたが、入港予定日になっても消息なく、3月12日戦死と認定された。
なお、米軍資料によれば、米護衛空母アンチオの艦上機の爆撃により20、2、27沈没したとされている。