TOPへ     戦没目次

平成22年4月29日 校正すみ

松山行輝生徒及びクラーク

三澤  禎

 

50年前、信州の田舎から出てきて海軍の門をくぐり、何も分らずただ追い廻わされていた頃、温習室の椅子に寛ぐ僅かの暇があった。机を並べて隣に坐っていたのが、松山生徒であった様に思う。当時、専ら聞えてきたのは九州弁、広島弁、関西弁等で耳馴れず、心細い思いがした。

鹿見島弁は殆ど異邦人の言葉で全く意味がとれなかったが、関西以西の言葉でよく聞き間違えて、訝しく思った言葉に 「借って来た」 と云う言葉がある。

どうしても「買って来た」 としか聞きとれず、とんちんかんな質問の末、漸く理解できた。松山生徒から、買うは「こうてきた」、借りるは「かってきた」と云うんだと聞かされた。その時の、彼の薄笑いの顔が今でも眼に浮かぶ。

彼が戦死したのは比島クラーク地区、昭和20年4月24日とある。小生も捷一号作戦で、クラーク中飛行場に1912月5日頃から2425日頃迄いて連日グラマンに叩かれ乍ら銀河部隊の特攻機隊を整備していた。

その後命令によってマニラを経て20年1月1日にミンダナオ島デゴスに移動、飛行機の消滅と共に陸戦隊となり陸上戦に備えていたが、銀河部隊再編のため唯1機いた一式陸攻に便乗、九死に一生を得た。同じ頃同じ整備学生仲間であった増井、松山、青木、関谷、成瀬がルソン島で戦死しており、正に紙一重の差で生死を分けた。

ある時、クラークフィールドの旧米軍兵舎の中の風呂の湯舟の中で、背中にぶつかった者を暗い中で確かめたら金枝健三であった。彼は、その頃移動して来た夜戦部隊の整備員として来ていた。彼はこの時の記憶が無いと云う。夜戦部隊のお蔭でB-24の夜間空襲がとだえ、安眠出来る様になった。金枝も無事脱出、生存している。

谷田哲郎?にも、クラークフィールドで行き会って、声を掛け合ったことがあったように思う。丁度空襲の無い時で、小生がパッカードやクライスラーを勝手に乗り廻している時だった。

(機関記念誌114頁)

TOPへ     戦没目次