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平成22年4月29日 校正すみ

昭和42年2月寄稿

松本昌三君の戦死

佐野 曙少佐(元偵察第十二飛行隊長)

(一周忌にご遺族へ出した書簡の抜粋)

松本 昌三

 昌三君は新進気鋭、青年士官たる溌溂さを以て不肖小生の下に飛行隊士として勤務せられ侯。

 昭和二十年一月木更津基地より偵察機彩雲にて台南基地に進出、爾後、比島方面偵察、台湾東方海上機動部隊索敵と沖縄偵察に警戒厳重なる虎穴に単機突入し、常にみごとなる成果を挙げられ、その功績は枚挙にいとまなきように候。

 特に沖縄偵察において断雲の為、高々度よりの偵察不可能と知るや敢然雲の切れ間より、戦闘機哨戒中なる低空に下り、敵艦船群の直上を翔破、的確なる視認に努めたる勇猛なる行動の如き、叉は、沖縄南方海面機動部隊索敵を命ぜられるや、機上より電報にて状況に関する充分なる報告を終わるや、大胆にも空母五、戦艦其の他の輪型陣の機動部隊の直上を数回航過し、精巧なる写真撮影をなし、攻撃の成果、艦型名、作戦判断の重要なる資料を提供する等、類をみざる大胆なる行動により其の成果と相まって、我偵察隊の中堅として与望を一身におっている感が致し居り侯。

 五月五日石垣島東南方海上の機動部隊に対し攻撃決行と相成り、前日来の偵察に続き、昌三君は早朝の偵察を命ぜられ侯、五日東方の山嶽漸く紫と変り、上空の星影漸く薄れる頃、東方目指して偵察機一機発進せり。想えば所要の命を受け、小生必要な指示を与え、特に当日偵察は精密を必要とせざる為、今までの如き大胆を避け、慎重を期せんことを達し、同君は自信満々、落ち着いた態度にて、操縦員島田中尉(予備学生富山市出身)及び電信員佐伯上飛曹(富山県出身)と相携え、機上の人となりたる姿、之、小生の見たる御令息の最後の姿となりしなり。

 新竹飛行場出発後、漸くにして三五〇浬を突破し、予想海上に之字運動中の機動部隊の航跡を発見せり、機上より「空母を含む敵部隊見ゆ」の電あり、次に「敵の兵力は空母四其の他・・・」と敵の兵力を打電し来り後、偵察を終り、暫く機上より打電なく、三十分後に詳細なる敵状に関して報告あり、当日同機に与えたる命令通り最早、帰投中と安心し居りたるに、以後全く無線連絡絶え、地上よりの呼び出しに対し何等応答なく、飛行場に夕闇垂れ込め、戦友一同大空に機影と爆音をと目をこらし、耳をそばだてるも空し、早や飛行燃料尽き、遂に未帰還と判断せらるるに至るなり。(中略)

 昌三君は五月五日戦死に至るまで、温和、真面目、熱烈なる責任感を以て飛行隊士として、飛行隊の繁雑なる事務を処理する外、部下の指導、上下の連絡に当り、夜は遅くまで飛行場に頑張り、疲れ果てて宿舎に帰り夕食をとり、翌日は更に黎明索敵等、心身の労苦誠に大なるものありたるに拘らず、重要なる職責を適切に遂行し、偵察隊の活動を支障なからしめ、且、偵察に当たっては果敢なる行動に依り優秀なる成績を収め、人物技量相まって上下の信頼敬愛を一身に集め居り侯。言語に絶する労苦に対して、深く感謝致しおる次第に御座候。

 国破れてかかる現状と相成りし今日、前途洋々たる有為、最愛の御令息を失いなされた御父上の肉親の心情に対し、深く御推察御同情申し上げ侯。

 昌三君の一周忌に際し、我々英霊に対して汗顔、誠に応うべき辞を知らざるも、一意新日本再建を祈る次第に御座候。(後略)

(昭和42年2月 10号から転記)

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