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平成22年4月26日 校正すみ

久住 宏君のこと


伊津野省三(7T期)

久住 宏 回  天

初めて久住と知り合ったのは、昭和1811月頃だと思う。72期が第1期の候補生教育を終えて各艦に配乗され、横須賀に入港していた多摩にも、兵科5名が着任して来た。その中の一人が久住だったが、候補生一人一人の当時の印象は殆んどない。私は甲板士官をやっていたので、その日内火艇を指揮して、候補生の荷物を取りに行ったことだけは覚えている。確か軍需部だったと思うが、あの狭い堀割を通って行ったと思う。

横須賀在泊の一日、候補生を連れて東京見物に行った。何を見たかはっきりしないが、先輩気取りで銀座あたりをぶらつき、さて昼食をと店を探したが、仲々適当な所が見つからない。その中に、ちょっと綺麗なレストランがあって、お客も入っている様なので、入口まで行くと、和装のお姉さんが出て来て、「海軍さん、もう少ししてからお出で」という。この頃は食糧事情も逼迫して、予約制で外食券も必要だったのだろう。メニュー等もなく、出されたものを食べた様な気がするが、私は先任ではあるし、ここは一番、気前の良い所を見せようと、「俺がおごるよ」とか何とか言ったと思う。でも結果はみんなの割勘説に押されて仕舞ったが、あとで財布の中を見て割勘で良かったな!と冷汗の出た思いがある。このレストランは、後で考えて見ると、並木通りの三笠会館だったようで、今でも潜水艦関係者の「いろは会」の会場として、懐しい思いのする所である。

 その後、多摩は大湊に向けて出港し、陸奥海湾で訓練していたが、私は1925日付で呂63潜に転勤となり退艦した。

 もう多摩の候補生達にも会うことはあるまいと思っていたが、5月に潜水学校11期普通科学生を命ぜられ時、同じ学生に多摩の候補生二人がやって来た。久住と青木である。多摩以来三ケ月であったが、お互いの無事を祝し、再会を喜びあった。

潜校学生は5月から8月までの約三ケ月であったが、土日曜には呉行きの定期便があったので、大抵これを利用した。呉での終着駅は川名家であった。ご主人は兵学校34期の先輩で、175月に戦死され、奥様と女学生だつた二人の娘さんがいた。配給のビール等があると持込んで、第2種軍歌等で気勢をあげて騒いだりした。或日、珍らしく久住が酔ぱらって、廊下の突当りのトイレのガラスを割って仕舞った。数條のヒビが入っていたが、早速、彼の器用な腕で艦の切絵を作り応急修理した。彼が201月に戦死した後も、傾いた艦の切絵が当時を偲ぶように残されていた。

 久住は寡黙の人で、自分の気持をさらけ出すことがないので、取付き難い感があった。

彼の性格は突入前に残した遺書によく現れている。潜水学校卒業時に彼は回天(当時はEといった)を希望として出した。これはもう死以外の何物でもないことだったので、私は本気で希望するのかと聞いたことがある。答は一つ、彼の決心は硬かった。

 20112日朝、私は伊159潜のベッドで突然胸を絞めつけられ息が出来なくなった。手足を動かして、私を絞めつけているものを払い除けようとしたが、どうにもならない。やつとのことでアーとかウーとか叫んで自由になったが、あんなことは生れて初めてのことであった。久住が正にその日、バラオのコッソル水道に突入したことを知ったのは、数日後のことであった。

編注 久住の件 山田穣が書いたニュース101頁参照、伊津野さんは私(加藤)の4号時代、同分隊だった方である。第一回慰霊祭の日の日記に伊津野氏に靖国神社で会ったと記されていた。先日何故あの日に靖国神社に居られたかを伺った処、久住と同じく多摩と潜校で一緒だった関係で、戦後学生時代に青木の家にお世話になって居て、その日青木家の方と九段迄お伴したとの事、投稿をお願いした次第である。潜校で同室だった増田佐輔、藤範等も伊津野氏に引率されて川名宅へ伺ったとの事。戦死後、久住の父君は川名家を訪ねられたとのこと、便所の久住の切絵を多分御覧になられた事であろう。

 尚、これから先も物故者と縁のある方々(クラス以外の方々)の投稿をいただきたいと思っている。

(なにわ会ニュース55号14頁 昭和61年9月掲載)

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