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平成22年4月26日 校正すみ

【突然の悲劇】殉職ショック乗り越え奮起

産経新聞朝刊大阪版07610日付社会面掲載

黒木 博司

誰がために散る もう一つの「特攻」(6)

 悲劇は突然だった。

 回天搭乗訓練2日目の昭和1996日、大津島地方は午後から急に風が強くなり、海面は大きくうねり出した。午後の訓練に臨む予定だったのは海軍大尉の樋口博司=当時(22)=と樋口 孝(同)。天候不良を理由に訓練中止の声も出たが、黒木は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」と譲らない。樋口も「やらせてください」と続いた。

 午後540分、樋口が操縦する回天は黒木を乗せて発進した。訓練は、大津島から5000メートル離れた浮標までの往復。浮標を回ったところまでは順調だったが、その直後に姿が消えた。

 翌7日午前9時、大津島から約4000メートル離れた水深15メートルの海底に泥をかぶり突き刺さっている艇が発見された。死亡推定時間は、事故発生から約12時間後の7日午前6時過ぎだった。

 艇内には事故直後からの応急処置、事後の経過など、黒木が息を引き取るまでの状況を記した、2000字にも及ぶ『19-9-6 回天第1号海底突入事故報告』が残されていた。そこには、<国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつつ死してゆくらん>と辞世の歌もつづられていた。

 樋口の手帳にも「犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ」と遺文があった。

 2人の遺筆は、若い回天搭乗員に大きな影響を与えた。事故から2週間後に赴任した甲飛13期の竹林=旧姓・高橋=博(82)は「黒木少佐の殉職はショックだったが、それ以上に後に続くんだと奮起した」と話す。

 黒木の葬儀は、終戦から1年以上が過ぎた21117日、郷里で行われた。簡略化され読経もなかった。「下呂楠公祭」事務局長で、大垣市立東中学校長の橋本秀雄(59)が言う。

 「ご両親は世間をはばかれ、すぐには葬儀をあげられなかったのです。その後も非難ばかりで、肩身の狭い思いをしていたようです」

 母親のわきは戦後、沈黙を保ち続けた。しかし一度だけ、思いを吐露したことがある。戦後25年ほどたったころだ。神経痛で病んでいたわきは、見舞客に次のように話している。

 「私は博司のことは何とも思っとりゃしません。ただ、いつも心に思うことは、回天に搭乗し、博司の後に続いていった131人の英霊のこと。そのご遺族が、博司のことを恨んどりゃせんかということが一番気にかかり、夜も眠れないことが幾日とございました」

 「大津島で回天の慰霊祭が行われ、徳山湾へ艦で行きました。博司はもちろん、博司とともにされた人たちのご冥福を祈ろうと手に持てるだけの花を持って行ったんでございます。その花を海へ投げようとしましたところ、近くにいましたご遺族の方々が『私にも花を分けてください』といわれ、そしてどの方も皆『息子よ!よくぞお国のために』と言って花束を投げられたのを聞きまして本当にうれしくて、後で一人泣きしたんでございます。ご遺族の人たちは博司を恨んどりゃせん。きっと回天に乗っていった人も博司の心をよく受け継いでいてくれたと思います」

 わきは47120日、息子のもとへと旅立った。79歳だった。

 

【写真】徳山湾を望む回天碑はいまも黒木らの思いを伝える=山口県・大津島

 黒木の生きざまからは、護国精神だけでなく家族への思いも伝わってくる。海軍機関学校時代、腸閉塞(へいそく)で倒れた母親のわきを見舞った黒木は歌を詠み、そっと布団の下に忍ばせていった。

 「大いなる悲願に立てる国の子の 母をばいかで神うばふべき」

 「君がため母おきさりて行く我は 尊く悦しくかなしかりけり」

 「荒波の世に生く子らの楽しみは 両親ありて嬉び見るとき」

 わきが回復すると、「きっと治ると信じていたものの何だか夢のように嬉しい。お母さんの字、一字々々が又楽し、私の心を生々と明るく励まして呉れます」と喜びを伝えている。

 橋本は「家族を愛し、国を愛して戦った。そういう人に対する感謝の心を失っていることが今の日本をおかしくしている」と話す。妹の教子もこう嘆いた。

 「親兄弟や友達を簡単に殺したり、どこかおかしい。日本人の本当の精神を忘れてしまっているようです。兄たち英霊が期待したのは今のような日本ではないはずです」 (宮本雅史)

産経新聞朝刊大阪版07612日付社会面掲載

誰がために散る もう一つの「特攻」

【回天の母】心に立てた「墓標」100余…

 回天基地のあった大津島の丘の中腹には、回天碑と並んで搭乗員の名前を刻んだ石碑がある。戦後、この石碑を慈しむように指でなぞる女性がいた。通称・おしげさん。
「回天の母」と呼ばれた。

 本名は倉重アサコ。大正15年、19歳で徳山駅近くの高級料亭「松政」に女中奉公に出て、以来45年間、松政で働き続けた。当時、徳山には海軍燃料廠があり、松政は高級士官の定宿としてにぎわっていた。奉公に出て2年目、海軍主計兵曹と結ばれた。しかし8年後、夫は病気で急逝、独身を通した。

 男のようにさっぱりとした性格は高級士官にも好かれ、犬養毅首相や南雲忠一海軍大将、山本五十六海軍元帥ら重鎮の接待を担当したという。

【写真】「回天の母」とよばれた、おしげさんこと倉重アサコさん

 昭和19117日。おしげさんはこの日を生涯忘れなかった。

 大津島から突然、板倉光馬少佐が訪ねてきて「今夜60人のすき焼き会を催したいから用意を頼む。物資は全部部隊から持参する」。七輪を近所から借り、テーブルの代わりに雨戸を並べた。

 宴会は午後6時から始まり、夜が更けると、大広間に「同期の桜」の大合唱が響いた。壮行会だった。若者たちが翌日に出撃した「回天特別攻撃隊菊水隊」の搭乗員だと知ったのは、翌203月末のことだった。彼女はそのときの思いを手記の中で語っている。

 <私は隊員さんたちが特攻隊であること、大津島がその基地であることは知っていましたが、それがどういうことをするためであったかは、新聞で初めて知ったようなわけです。新聞には隊員28人の写真も掲載されていました。私は新聞の写真の上に、ボロボロと涙をこぼしました。菊水隊は3カ月前に、金剛隊は2カ月前に「お母ちゃん、行ってきます」。そういって二度とは帰らぬ日ととも見えぬ元気さで、松政の玄関を出ていったのです」

 松政では出撃の2日前に壮行会が行われるのが恒例だった。おしげさんは手記で、隊員の誰の目も澄み切り、死にに行くことなどみじんも感じさせぬ立派な態度だが、その胸の内には語れぬものを抱えていたのだろう、と回顧している。

 20714日に出撃した竹林(旧姓・高橋)博(82)も2日前の12日夜、壮行会に参加し、初めておしげさんに会った。「おふくろのような感じで、自分の母親の顔と重なった」という。

 いつしか、おしげさんと回天搭乗員は、単なる仲居と客の関係ではなくなっていた。おしげさんは回顧録などで搭乗員との思い出を語っている。

 <なかには私の肩にすがり、膝(ひざ)にもたれて甘える方もあって、その幼な幼なした童顔に、はっと胸をつかれることもありました。まだ178から19歳ぐらいの若い人ばかりで、厳しい訓練の明け暮れのうち、束の間の思いは、やはり国許のお母さんだったのでしょう。「お母さんのような気がする」などと行って、私にもたれかかって来られた、あのあどけなさを思い出しますと、今でも目頭が熱くなるのでございます」

 おしげさんにとって忘れられないの搭乗員の1人が芝崎昭一だ。北海道の農家出身で18歳の少年だった。

 出撃前、「松政」に来た芝崎は「母ちゃん、詩吟を聞いてよ。国を出るとき、母ちゃんにも聞かせたから…」。顔を真っ赤にしながら朗々と吟じる芝崎の顔を見ながら、「芝崎さんは今、母親の前にいるのだ」と目を潤ませたという。

 金剛隊の都所静世は<おふくろさんは死んでいないが、最後はお母さんと叫んで死にたいと>と言い残して出撃。轟隊の小林富三雄は<慈悲も及ばぬ御世話心より感謝致しています>と遺書を残した。

 おしげさんと回天搭乗員の付き合いは1年に満たない。

 「私の生涯の全部を賭けたほどの意味があったように思います。自分の子供を持たない私が、100人に余る若い人たちに「お母ちゃん」と呼ばれてあまえられたことのしあわせ…けれどもその人たちの墓標を、心にいっぱいたてていることを思えば、私は幸福者なのでしょうか。それとも最も不幸な女なのでしょうか」(宮本雅史)

産経新聞朝刊大阪版07613日付社会面掲載

誰がために散る もう一つの「特攻」(8) 

【残されし者】生と死の重さを語り継ぐ

 「回天の母」と呼ばれた、おしげさんこと倉重アサコさんは大津島・回天基地の部隊解散の日、生き残った搭乗員と初めて島に渡り、ある約束をした。

 「10年後、最初の出撃記念日の118日にみんなで松政で会いましょう。それまで私がこの大津島をお守りします」

 そして、約束の昭和30118日。早くも午前6時に訪ねてきた男性は玄関に入るなり、「お母ちゃん」と抱きついてきた。連れていた5歳ぐらいの子供が物珍しそうに父親を見つめる。うれし涙が止めどなく流れるうちに、その数は十数人になった。

 午前10時、全員で大津島に渡った。その後、毎年118日には大津島で慰霊祭が行われるようになった。おしげさんは毎年参列し、息子たちの出撃前の様子を遺族に伝えてきた。

 おしげさんは18歳の2人の少年が出撃するのを見て、「どの人も死なせたくはないけど、まだ幼顔の残るこの2人は、ことさら私の胸をえぐるのでした。『これが戦争というものなのだ』。そう自分にいいきかせて、じっと耐えるしかありませんでした」と語っている。

 そんな思いを少しでも和らげようとしたのだろうか。松政の2階にある小さな自分の部屋に、夫の位牌(いはい)と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』の戒名を施した白木の位牌を置き、朝夕、お経をあげていたという。

 回天特攻作戦では、回天の故障などで帰還した搭乗員も多い。甲飛13期出身の吉留文夫(80)は2055日、「振武隊」として出撃。同月27日未明に敵船団と遭遇したが、電動操舵(そうだ)機が故障し発進できなかった。「自分が発進できなかったことに対する自責の念が強くて、頭の中は真っ白だった」

 2回目は719日。「多聞隊」として出撃し、太平洋で敵艦隊を求めたが、89日に急遽(きゅうきょ)、帰投命令が出た。そして15日、洋上で玉音放送を聞いた。
 「帰ってきたのは自分の責任で、戦友に合わす顔がないというのが正直な気持ちだった。映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。戦後、大暴れして特攻崩れといわれたが、それはある種、死に場所を探していたんだ。戦友に申し訳ないと」

 吉留は戦後、肺がんを患い、医師から余命1年と宣告されたことがある。そのとき、考えたのは親のことでも子供のことでもなかった。亡き戦友に会ったとき、何を話すかだった。

 「出撃するときは、お互い『先に逝ったら、靖国神社でおれの席を取っておけよ』が合言葉になっていた。本当におれの席があるのかどうか。いずれ、みんなの待つ靖国神社にいくという気持ちが残っているんですね」

 吉留が続ける。

 「2回も生きて帰ってきたのが自責の念として強く残っていて、回天のことはあまり話したくなかった。でも、いまの日本人を見ていると、戦友が何のために死んでいったのかを子供や孫に伝えないといけないと思うようになった。海に手をつけると、戦友が水の中から『おい』って声をかけているような気になる」

 おしげさんも、こう言い残している。

 「戦争の悲しみは、もう再び繰り返してはなりませんし、神風や回天のような、絶対に死ぬとわかった兵器による特攻は、絶対に避けねばなりません。けれどもお国のため、みんなのために死んでいった若い人たちの心は、いまの若い人たちにも伝えておかねばならないと思います」

 「徳山湾の海を見ていると、一人ひとりの顔が思いだされてきます。命あるかぎり、忘れることのできないあの顔、この顔…。けれどもそれは、もう二度と『お母ちゃん』とは呼んでくれない顔なのです」

 昭和467月、松政が閉鎖されるに伴い、おしげさんは引退。60222日、ある遺言を残し、この世を去った。78歳だった。

 「ええか。私の骨は海にまいて。子供たちが海の中で待っているから。絶対、海に入れてよ。子供たちとお酒を飲むから」

 おしげさんの遺骨は、回天を考案した黒木博司が訓練中に殉職した海域にまかれた。(宮本雅史)

《天の運行を変える意》どうしようもないほど衰えた(国の)勢いを、もう一度元に戻すこと。

=三省堂・新明解国語辞典より

 「回天」と命名したのが誰なのか私は知らないんですが(*1)、その言葉の意味を初めて知った時、命名者の「回天」にかけた想いがストレートに伝わってきて、胸が痛くなりました。

(*1) ネットで調べたところ、命名者は黒木少佐だとする資料もあれば、「回天」発案者の一人である仁科関夫中尉だとする資料もありました。さらには海軍水雷学校長の大森仙太郎少将だとする資料も。

 ちなみに仁科中尉は昭和191120日に出撃、米油漕艦「ミシシネワ」を撃沈、戦没しました。享年21才。仁科中尉のご遺族は黒木少佐のご遺族同様、戦後つらい思いで過ごされたそうです。

 【誰がために散る もう一つの「特攻」】の全記事から心に残った声をピックアップしてみました。

●周南市回天記念館の安達辰幸(74)=当時小学5年生<現代の感覚でかわいそうという人がいるが、隊員の気持ちを理解するには、当時の時代背景や価値観、当時の目線で見ないと分からないと思う。18歳や19歳の人でも、わずかな犠牲で多くの日本人を救うんだという自負があった。

●竹林(旧姓・高橋)博(82)=回天搭乗員

 命令されたからといって死ねるものではない。国や家族を守ろうという気持ちがあるからこそできるのだ

まな板のコイどころではなかった。早く出撃させてくれ。毎日がそんな気持ちだった。

●吉留文夫(80)=回天搭乗員

 本土が戦場になれば大量殺戮、国土崩壊は目に見えている。戦争がいいとか悪いとかではなく、何とか敵の侵攻を食い止められないか。みんながそう考えた。平和を守るということは死ぬ覚悟がなければできない。

 映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。戦後、大暴れして特攻崩れといわれたが、それはある種、死に場所を探していたんだ。戦友に申し訳ないと。

●黒木博司=回天考案者。当時20歳。大東亜戦争勃発直後に両親に出した手紙

 皇国の興廃此の一戦に有之、事容易ならず、神武肇国以来の最大国難にして、長期の困苦に堪ふる忍堪の力こそ最後の決と存じ候。此の長期の忍苦は、一に国民の団結、国民精神の振作一致に他ならず候。

●都所静世=回天搭乗員。享年21歳。出撃前に義姉に残した遺書

 それにつけても、いたいけな子供達を護らねばなりません。自分は国のためというより、むしろこの可憐な子供たちのために死のう。

●森 稔=回天搭乗員。当時19歳。出撃前に残した遺書

 まだ吾が国体の尊厳なるを自覚致し候はず、徒に戦局の勝敗に拘泥致し、利欲に走り候輩多数居り候と聞き及び候は残念の極に御座候。一日も早く国の内外を問わず完全一体となり、勝利に只管突進致され候如く、皇国の空より常に御祈り致し居り候。

 私は“特攻”について、親や教師からは、「上に命令されて嫌々死んでいった」「犬死にだった」というふうにしか教わりませんでした。 なぜ彼らが「志願」したのか、どのような訓練をしていたのか、何を言い残して出撃していったのかなど、ディテールを聞かされたことは一度もありません。

 今、子供たちが、家庭や学校で“特攻”について教わることはあるのでしょうか。

 もしあったとしても、私がされたような教え方では、当時の価値観について知ることはもちろん、当時の目線で戦争を考えてみるなどということは、とうてい不可能でしょう。

 私は大人になってから、自分で本を読んだりして、当時の国際情勢や日本が置かれていた立場、当時の人々の価値観がどのようなものであったかなどを、少しずつ知るようになりました。

 ご遺族の方々、また“特攻”を果たせなかった竹林さんや吉留さんのような方々が、英霊の思い(ある種の重荷)を背負いつつ戦後日本の復興に尽くされたことは、今なら十分理解できます。

 また、私は以前は「当時の若者は全体主義の波にのまれていたから、自分の頭で考えて動くということはほとんどなかったんだろうな」というふうに考えていたんですが、これも間違いだとわかりました。

 彼らは当時、国内外の状況を冷静に見据えながら(入ってくる情報はそう多くはなかったでしょうが)、ちゃんと自分の頭で考え、決断をし、行動していた。

 これから日本はどうなっていくのか、自分たちは国や家族の将来のため何を為すべきなのかを真剣に考え、誇りを持って行動していた。

 そのことに気づかされるようになりました。

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