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平成22年4月27日 校正すみ

兄近藤 寿男のこと

近藤 国雄

 

何年も前から、兄近藤寿男のことで色々とお世話になり、その返事もろくにせず大変申しわけありません。

 同期生の方々に御心配をかけておりましたこと、本日加藤種男様にお会いして、お話しをしてよくその気持がわかり感謝しております。

そこでまず私の家族のこと、その生活してきたことを、経験してきたことをもお話しして、私の心を理解して頂きたいと思い、ここに筆をとりました。

私は父 近藤金五郎―岐阜県出身

母 近藤 志うー岐阜県出身

の6男として出生しました。

私の家族は父母2人と6男1女の家族でした。

本 籍 (略)

住 所 右記に同じ

右住所において出生し、もの心がついた時には上長者町の炭屋の息子でした。

私は6男1女の末子として育ち、その生活は楽ではありませんでした。

父は炭屋を営業し、母はそのたらない分をおぎなって、生活をしておりました。

私が小学校に行くころには、上の兄たちはそれぞれ成人して行きました。

私は内職にいそがしい母にはかまってもらえず、小学校に行っても昼の弁当もなし、家に帰りみそ汁のぶっかけか、大豆の炊いたおかずを食べ、いそいで学校に戻り、少しでも友達と楽しい時間を持って遊びたい気持でした。

しかし・あの昭和の12年〜14年頃でも炭屋の息子、肌着のよごれた子供は、あまり友達の家には入れてもらえず、一人で遊びました。

そして夜、ふと目を覚すと隣の家の2階を借りて、壁をぶち抜き、部屋を勉強部屋にして居た寿男兄が、夜中に本を読んで居るのをよく見たことを覚えて居ます。

よく勉強する人だなあと、私は8才も上の兄をあまり年が離れすぎて兄弟のような気がせず、どこかのおっさんのようでした。

それでも私は穴のあいた運動靴をはき、肌着の汚れたものがあたりまえ、遠足に行く時には、自分でアルミの弁当箱に御飯を入れ、梅干かみそにカツオ節をまぜて、持って行くのがあたりまえ、と思って毎日を送っておりました。

そして寿男兄が京都府立三中夜間中学に行っており、その次の垂明兄も同じ三中夜間に行き、私も当然三中夜間に行くものだと思っておりました。

私が小学校の3年(昭和15年)の時に、寿男兄は三中夜間中学から初めて海軍機関学校に入校しました。

父母は喜んでおりました。貧乏人の炭屋の息子が、海軍の軍人さんの学校に入れてもらえたと。

父母は舞鶴の機関学校の入校式に行き、立派な寿男兄の姿を見て喜んで帰ってきました。

それまでは順調だった炭屋の家にも、かなしい事がおこって来ました。

そこで、私の家族が順に仏になって行く年代を、そして私一人になったことを次のことがらで知って下さい。

父 近藤金五郎  35・3・7病死

母 近藤志う   51・1・18病死

長男 近藤正吉  29・4・14病死

次男 近藤金弥  11・6・1病死

三男 近藤庄三  191219戦死

四男 近藤寿男  191027戦死

長女 近藤喜美子 16・6・18病死

五男 近藤垂明  20・9・6病死

と・父母2人、兄弟7人のうち6人までが戦争中、戦後に仏になりました。

兄弟6人が仏になった時には、父母はまだ健在でした。父母は、戦争を嫌いました。

自分よりも先に仏になった6人の子供のことで、一時は放心状態になり、子供のことは「何も言うな、昔は昔、今は今」と、仏にすがりました。

一心に本願寺の仏様を信じ、他力本願のなむあみだぶつをとなえれば、みな、仏にしてやるぞよ。

これを信じていました。終戦後は勲章について来た一時金もふいになり、一文無しになりましたが。順次、遺族年金をもらえるようになり、病死した長兄 近藤正吉の家で(桂上豆田町)で父母・義姉と子供3人、そして私が結婚(昭和29年)、子供が1人の9人で京都市西京区桂上豆田町47の3を本籍地として約10年間暮らしました。

その間に義姉の子供3人は成長し、私の長男も出生して、狭い2階屋に9人が生活を楽しみ、喜んでおりました。

しかし、年のよる波にはかてず、父が昭和35年に、母が昭和51年に仏になりました。

そのような時に、海軍機関学校の同期生の方々がされるいろいろな催し、行事のおさそいをうけても、私は何の反応もありませんでした。父より後に残った母もそうでした。それは今日、加藤様にもお話しをしましたが、私の父母、兄弟6人は、それぞれ戦争のために戦って、くたびれて食べる物もなく、薬もなく、仏になりました。

私の3才上の重明兄は、三中夜間中学を卒業して、現在の近畿大学の夜間に通い、戦争中なので昼間の勤めは無事でも、夜、学校に行って、帰る夜に米軍の空爆で、大阪から京都に帰る阪急電車が止まり、大阪の高槻から20km〜30kmの距離を歩いて帰えったり、大阪に食べる物もないのにそこらで泊ったりして、でも一生懸命勉強しようとして、最後は結核となり、私のもっとも信頼して居た重明兄も仏になりました。

それで私は、海軍機関学校の同期生の皆さまが、先に申しました色々な催し、行事のおさそいを受けても特攻隊で戦死した寿男兄だけが男でない。寿男兄の1歳上の庄三兄は寿男兄の勉強するのを見て、ノートを買い、少し書いては止めをくりかえしてでも、弟の寿男兄の姿になろうと、努力して工員をして居るのを私は見てきました。

寒い冬の夕方、母が庄三兄の勤める京都の四条大宮にある中村鉄工所へ夜勤の弁当を「持って行ってやれと」自転車に乗り、ふるえながら持って行くと、「おい、国、手がつめたいやろ」と、軍手を小さい手にはめてくれた庄三兄。

陸軍に召集され、滋賀県八日市航空隊に入隊し、その後、満州へニューギニア島ウエワクにて戦死と終戦後帰って来た仏は、紙切1枚でした。

それでも、私の兄です。軍隊は私の勤める警察と一緒で、階級で礼遇されます。

寿男兄が仏となり、舞鶴の港に帰って来た時には戦争中であり、父母は佐官の待遇を受け帰って来ました。京都の住家では、京都府の知事まで上長者町の小さい炭屋の家に、お参りに来てくださり、父母は1ケ月間、軍神の家、特攻隊の家と礼遇されました。

でも私は、納得出来ませんでした。あの戦争で私の父母、私の兄弟がくたくたになって仏になった、仏になれば皆同じ、これは今も私の信念として父母、兄弟の苦労を見てきて変りません。

私の父母兄弟は、現在私が、母が望んでもとめた

京都市東山区浄軍塚東山浄園2階―D―く―5に

父母兄弟6人を祭り、京都市西京区桂久万町(山城国、洛西桂、安楽寺)にて父母、兄弟6人をとむらい毎月の月まいりをお願いして供養しております。

でも上田様、私も昭和20年1月6日に京都府警察本部 警察書記生として兄の寿男、重明兄の学んだ三中夜間中学に行きながら16才で採用され、それ以来40年間警察の仕事にたずさわり、その間色々な事件、事故に対処してきました。

そして現在の自動車警ら隊に配属され昭和33年に転勤になり、昔のジープ、シボレーの改造車、トヨタの観音開きのセダン型、と色々なパトカーに乗り、国賓の警護、天皇、皇后陛下の京都行幸啓には、陛下の前を先導する前駆車の運転を何回もさせてもらい、私は運転をする警察の仕事として最高の任務を無事に遂行したと、自分なりに思っております。でも私の仕事では何もなく終ればあたりまえ、それでもいいのです。

でも、おかしなもので、色々な仕事をやり、無理難題をこなしていくうちに、ついていけない上司と一緒になり、私が負けました。昭和58年4月には病欠となり、昭和59年4月まで私は死にました。

妻にも長男にも心配をかけ、何もする気になれず、1年間、何もせず家で寝ておりました。妻はもうだめだと息子に連絡して、最悪のことを考え、もうこの人は死ぬ、と色々と準備をしたそうです。

でも、私は昭和59年4月からはそろそろと出勤して、昭和59年9月頃には、やっと自分なりに「お前は何をして居るのだ、息子も会社員として広島でがんばって居る。お前は自動車警ら隊の先任として退職するにしても、まだ後輩に自分の経験したこと、又やってきたことや、自分の仕事を充分に引継したのか」といろいろ考えて、いやまだ充分にできていない、まだ1、2年はがんばらなければ自分の経験したこと、やってきたことを、全部若い人にさらけだし、伝えて、自分が空になって、初めて今の自動車響ら隊をおさらばできるのだと思うようになりました。

本日加藤種男様と、寿男兄の三中同級生、土井礼二様との仕事上の交際で、戦争の話したら私の寿男兄の話がでて、土井礼二様が私の家にデンワをしてくださり、それがきっかけで加藤種男様にもお会いできました。これも何かの因縁だと思います。

色々と自分なりの考え、家のことを言いましたが、これからはそれなりに生活の安定した現在、この秋には長男も結婚しますので心を広くもち、色々お世話してくださった海機第53期幹事のお方にお礼と感謝の気持で一杯であることをお伝えください。

今日は加藤様、土井様とお会いして心が少々異状です。下手な字を書きお許し下さい。(60・2・22

 

近藤 寿男

大正1012月5日生

学  歴

昭和11年4月入校  京都府立三中夜間中学 3回生

昭和1512月1日入校  海軍機関学校 第53期生

戦  歴

昭和191027

フィリピンレイテ湾にて攻5飛神風第2攻撃隊隊長、義烈隊として戦死、2階級特進、海軍少佐

釈  名     浄空院釈宝寿  行年24

(なにわ会ニュース53号10頁 昭和60年9月掲載)


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