平成22年4月26日 校正すみ
今思う防人の心
小島喜久江(丈夫の妹)
小島 丈夫 | 巡洋艦 羽黒 |
戦死した長兄丈夫は、私より6歳年上で、兄が海兵に入校した昭和十五年、私は小学校六年生でした。級の中でもチビの私から見ると兄は立派な大人で、一目も二目もおいていたものです。年に二度の帰省の他は顔を合わせる機会もなく、互いをよく知らないままに、兄は国が遭遇した未曽有の大事の中を突っ走っていったわけです。私自身も、祝祭日には学校で御真影を奉拝して育った世代で、女学校の半分は工場への動員で過しました。
兄が戦死したのは、私が女学校を卒業した年です。終戦間近の五月に重巡羽黒と運命を共にしました。戦争の時代に、自ら軍人の道を選んだのだから、死もやむを得ない、と割切った私は、母の悲しみ、寂しさを積極的に分かち合おうという優しさはあまりありませんでした。なぜあの頃、母に加勢して、兄の最後の状況を詳しく知ろうとしなかったのだろう、と悔やんだのは後のことです。
私がなにわ会に出席しだしたのは、母の没後、昭和四十五年以降で、母の思いを継ぐという気持が先立ちました。驚いたことが二つありました。一つは、案外生存者が多いということ(のちに羽黒会に出席した時にも同じ驚きを覚えました)。戦後、復興の基を築いたのが他ならぬその方々であった、ということの二点です。
私の職業は出版社の文芸雑誌編集者で、≪文≫の社会に属しています。生活関連の実業に比べたら、虚業の世界かもしれません。私の周囲の人々は、≪武≫とは全く無縁か、縁が多少はあったとしても、≪武≫とは異なる志によって戦争の無惨を訴えよう、という立場を固守しています。
≪武≫の意味を改めて考えさせられたのは、皮肉にも、戦後文壇のスター的存在であった三島由起夫によってでした。市ヶ谷での自決は、三島由起夫がしばしば作品の中に表現した≪武≫や、≪国防≫、ひいては≪日本本来の精神≫に関する考えが、単に小説家として選んだ題材というには止まらない衷心よりの訴えであった、と思い知らされました。理知、感性ともに鋭く、心情細やかで、稀有の才能に恵まれた三島由起夫は、時代の動きもよく認識し、それだけに昭和の世が学んだ矛盾をつぶさに感じ取って、ついには作品として語るのみでは足りず、自分自身に体現してしまう悲劇的演者でありました。
強大なソ連の共産主義体制が、僅か70年しか保たなかったのを、ついこの間さまざまと見ましたが、どこの地域でも体制、制度は不滅ではなく、人が百年の齢を得れば、異なる制度の中をくぐり抜けて生きることになるのを、歴史は語っています。明治維新以来、日本を興隆させる基盤であった<天皇聖視>に基づく国家観も、八十年を保たずにくつがえったのを、実地に味わいました。人間は環境に順応し得る動物であるとは言うものの、異なる体制の中に、全員直ちに即応出来るものでもない。そこにこそ、人々の心に触れる文学の働く場があると思いますが、それはさておき生きている人間は次第に慣らされ、適応する道を探っていくにしても、ある体制の中で、信ずる一事のために命を賭けた者の魂はどうなるのか。死を賭けるほどのものとは何だったのか。
三島由紀夫の「憂国」、「英霊の声」はこの問題に迫った作品です。
日本の歴史上、何度も繰返された兵乱の中で、たとえ天皇家が全く無力であった時でも、時の権力者の意識の底にあったのが天皇であったのは間違いありません。明治以降、ことさらに<天皇神聖>の体制となったのが、為政者の手段であったにしろ、当時の大多数の日本人の心の深奥には、天皇尊崇の念が育っていました。敗戦時、マッカーサーとその側近は天晴れにも日本人のこの心情をよく理解していました。
世界の風雲急であった昭和十年代、自ら軍人を志した若者の目に何が見えていたか。現在のように情報過密の世ではなかったから、ファシズムのフィルターを通してしか世の中は見えていなかったでしょう。一部の、知識人と言われる年長の人たちは、日本の進路が間違ったものであると気付いていました。検挙、発禁という目に合った人々以外でも、たとえば作家、野上弥生子の日記がそれを語っています。また哲学者田中美知太郎が、宣戦布告の当日、「日本は敗ける」と語ったというのを、戦後知りました。もっとも、海軍上層部も、短期決戦で決着がつかない場合の確たる勝算はもっていなかった、ということも戦後知りました。明治の将軍たちが「やるからには、戦争は勝たねばならぬ」と陸海軍共に、深い決意をもって臨んだのとは、ニュアンスがちょっと違っていたようです。
どんな知者、賢者がいたところで、少しずつ坂道をころがり出した時代の動きは止められるものでなく、滅びるものは滅びる。「千万人といえども我ゆかむ」と眦(まなじり)を決して前線に向かった日本の武人とは、<身を鴻毛の軽きにおく>人でした。具体的には、天皇の為に死す、ということでしょう。「軍人勅諭」を通してそれを骨の髄から叩きこまれた人々。それがなくて、どうして<大和魂>などということが言えるでしょう。
母はあるとき、なにわ会で兄の最後の様子を聞いたと話してくれました。乗艦羽黒が砲撃を受けて沈没寸前という時、「御真影を捧持に行く」といって降りて行ったのが最後だったというのです。私は心中おだやかならず腹を立てました。艦が沈んでしまえば御真影どころではないではないか、そのひまに命の助かる方法も考えるべきだった。御真影を取りに行かなければ、ひょっとして生存者の中に入ったのではないか、という怒りでした。
母の没後、羽黒に当時乗艦されていた65期の元良 勇様にお目にかかり、その模様を改めて聞くことができました。下に降りて行ったままではなく、一旦降りたものの間もなく、「もう行ける状態ではない」と上がって来たそうです。私の怒りは消えましたが、それにしても、最後の土壇場でも御真影を守ることが義務づけられているかどうか、艦によって方針が違うのか、以前艦長だった方に尋ねたこともありますが、はっきりしたことは分りませんでした。はっきりしているのは、兄にとっては何よりも天皇が大事であったということです。軍人教育を受けた者は、皆そうであったのでしょう。そして、戦死者に対し、天皇御自ら靖国神社に御親拝下さる慣行が、どれほど死地に赴く若者の心のより処となっていたことでしょう。「靖國で会う」と心中言い交わした若人の魂は、やはり靖國神社に還っているというのが、初めて昇殿参拝をした時の私の感慨でした。もっともこれは、私の家が、父の代から初めて東京市中住まいとなって、家も転々と移り、菩提寺も墓地も持たずにいたせいかもしれません。
先祖代々の墓地があったり、地方の古くからのしきたりの濃厚な中で暮す人々には、別の考えもありましょう。
少なくとも兄は、靖國神社に参拝したことはあっても、寺詣り、墓参、法事には無縁で済んだ人でした。自分の戦死を想定した場合、家族が訪れてくる場として、靖國の大鳥居しか想い浮かばなかったろうと察するのです。
靖國神社が、妙な矛盾に満ちていることは、白根行男様に教えられた「靖國神社」(大江志乃夫著)一巻を読んだだけで分りました。大臣の公式参拝、市庁の玉串料等がその都度問題になるのも無理ではなく、また、いつの間にか、国民全般も、靖國神社に対して不明朗な気分を抱いています。というより、全く無関心といった方がいいでしょう。
けれど、私くらいまでの世代の者は、戦没者も含めて、靖国神社の内実を詳しく諒解していたわけではありません。単に、国家の為に一命を捧げた人々が祀られるところとして、出陣する者は「靖國で会う」を心中の合言葉として、私たちは感謝と慰霊の心で参拝していたのです。私の友人の一人は、身内に戦死者がいないにも拘らず、今の風潮を嘆き、初詣で明治神宮にばかり行かないで靖國神社に行くべきだ、と憤慨しています。
法と制度に外れたことはまかり通さぬ今の世は、一面、心不在の時代と言われる様相を呈しています。高額でもない玉串料にいちいち訴訟を起すなども情なく思えます。三島由紀夫が健在だったら、第二の「憂国」、「英霊の声」を書かずにいられないでしょう。
ともあれ、私には兄の慰霊のために、靖國神社参拝は欠かせなく、なにわ会の生存者の皆様のお骨折に常に感謝申あげております。
先の天皇崩御は、ひとしお感無量のものがありました。天界に入られた天皇の御霊を、兄たち戦没者の霊が安んじて迎えて上げて欲しいと祈りました。魂は五十年たつと四天に還るとか、まだその前でしたから、こぞって恭しくお迎え申し上げたことでしょう。
昭和天皇の、靖國神社への公式参拝は、終戦直後の一度だけであったかもしれませんが、天皇は、「朕が為」に死んだものを決してお忘れではありませんでした。昭和27,29、32、34、40、44年の各春秋の例大祭、及び50年秋に皇后陛下とお揃いでの御親拝がありました。皇后陛下の御健康が勝れなくなってからは、皇太子殿下並びに同妃殿下や他の宮様に代りましたが、天皇が常に靖國神社を心におかけになっておられたことが偲ばれる御製が靖國神社に寄せられています。
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昭和61年の終戦記念日の御製です。千鳥が渕で戦没者慰霊祭がとり行われながら、天皇の御心は靖國神社の上に在ったのです。天皇もいかにお悩み深かったことかと改めて思い、亡兄たちにはこの御心は通じていることと、私もいくらか心安まる思いです。英邁な昭和天皇は、かって日本を引っ張っていった軍人指導層の精神主義偏重を指摘され、広い言葉の裏付けが必要であること、そのためには深い教養と信仰心が肝要と言われています。
(昭和天皇独白録」)。
過去は後代に生きる者の鑑である言いますが、靖國に由縁ある者もやがて絶えてしまうのを思うとき、国家存亡の危機に自ら防人たらんと志した兄たち若人の、戦没の様相を明らかにしておきたいものとかねがね思っておりました。「なにわ会ニュース」64号の杉田繁春様のご提案は、我が意を得た思いで大変嬉しく、有難く思いました。文学的諸作品によって、回天、震洋などの特攻隊は、予備学生や学徒兵ばかりが配置されたような錯覚さえ生じています。海兵出が真先に出陣し、一番多く死んでいることを、私もなにわ会名簿によって改めて認識しました。いにしえの防人の、妻や子との別れを悲しむ歌が万葉集に載っていますが、兄たちには結婚する間もありませんでした。今のうちに、少しでも具体的な事実を明らかにするのが、追悼、慰霊となり、後代への貴重な資料となりましよう。
予備学生や学徒兵との心の交流などは生じなかったのでしようか。
どんなに荒廃した時代からも、美しいもののみが残っていくと、川端康成は言いました。具体的な事実にその美しさがこもっていることを私は信じます。
(なにわ会ニュース67号41頁 平成4年9月掲載)