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平成22年4月26日 校正すみ

野分の最後と小林の戦死

都竹 卓郎

小林 正一 駆逐艦 野分

 11号および12号への飯田の寄稿にあった野分乗組のクラスは、掘のいうとおり小林正一君にほぼ間違いないが、その小林当人の戦死状況(比島海戦)については、慰霊祭で配布された戦時記録にも全く記述がなく、また39年発行の名簿に「西村艦隊の一艦として突入戦死」とあるのは全然誤りと思われるのでここに一筆する。

 8号の大岡の手記を読んでもらうとわかるが、西村部隊(1YB)の直衛駆逐艦は4駆の満潮、山雲、27駆の時雨、10駆の朝雲の四隻で、時雨以外は全滅。一方野分はやはり4躯に属してはいたが、軍隊区分によって栗田部隊(1YB)に同行、レイテ湾口の決戦で損傷した鳥海の援護におもむき、敵の重囲に陥って共倒れの悲運に際会したのである。

同じ戦闘で7戦隊の筑摩も損傷し、12駆から藤波が支援に向ったが、これもついに帰って来なかった。藤波の航海長は実吉安志で、小林とは四号時代30分隊で起居をともにした仲であったが、同じ日の同じ戦闘で、同じような状況の下で相前後して倒れたのである。

 小生は当時旗艦通信士で部内の大方の電報には目を通していたから、クラスの動きは割によくわかっていたし、右の記憶にはかなり自信がある。軍隊区分が右のように不規則になってしまったのは、駆逐艦の損失が相次ぎ、司令部も直衛駆逐艦のやりくりに四苦八苦していたことから起こったもの。

(時雨は僚艦の白露と五月雨を、また朝雲は同じく風雲を、ともにあ号作戦で失い、単艦となっていた。)

 期友諸兄の戦記いずれもなつかしく読ませていただいているが、何分二十年以上も昔のことで、多少の勘ちがいや記憶の誤りもまぬがれ得ないようだ。かくいう小生の手記(9号所載)でも、たとえばリンガ出撃時の先頭は十戦隊とばかり思っていたが、池田の話からするとどうも二水戦であったらしい。旗艦の艦型が同じ(能代と矢矧)でであった為、勘ちがいして(夜間のことでもあり)永年そう思いこんでいたという次第。記録の内容が互いにくいちがっているケースも間々あるようだし、正確な資料として残すつもりなら、いずれしかるべき機会に編集部で整理をつけるのも一方法ではないかという気もする。

(註)躯…躯逐隊(通常駆逐艦4隻を以って編成する)               YB…遊撃部隊 S…戦隊

(なにわ会ニュース13号8頁 昭和43年2月掲載)

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