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626日 北植、石井、佐伯3君の最期について

 北植武男(兵)君の最期について、齊田元春(機)君の記事(海軍機関学校53期入校50周年記念誌 海ゆかば)があったので抜粋する。
 北植君は九〇式機上練習機の墜落事故で殉職された。その時の状況は次のとおりである。
 『偵察学生訓練が開始されてから、丁度40日目、忘れもせぬ昭和181218日午後、飛行作業として変針航法訓練を行なうために、九〇式機上練習機1機、その後席作業室に候補生2名(北植武男(兵)齊田元春(機))偵察教官を乗せて離陸した。
 当日の訓練は、学生にとっては、初めての変針航法作業であり、訓練主務者として私の順番となって、飛行高度500米、鉾田―玉造―小川町の変針コースで飛行する予定であった。練習機は所定高度を取り、鉾田を出た。
 玉造上空で、変針を下命した後、次の作業準備に入った直後、機体が急激な右旋回急降下に入った模様、途端に偵察教官が私に落下傘の「フック」を装着、「飛び降りろ」と命じた。瞬間的に「教官、何を慌てているんだ」と思った程、私も状況を呑み込んでいなかった。同時に、高度計を見た。指度は落ちるばかり、180米、「教官、高度ありません」と言ったまで記憶、瞬間的に私を見上げた北植武男候補生のけげんな顔、教官の横顔、広い湖面がはげしく揺れながら迫って来る感じ、高度計80米位であとの意識が消えている。ふと気が付くと、「誰か偉い人(原中将)が私の顔を見下して、何かを話しているようだった」といった断片的な記憶があった。
 「偵察教官即死、北植候補生頭部打傷重傷・2時間後死亡、斉田候補生全身打撲・意識不明、操縦員頭部打傷・重傷」 の状態であって、私は完全に3日間人事不省であり、しかも腰骨まわりの痛みを訴えていたということであった。原因は、人的ミスによる操縦系統の故障のため、高度500米から略々3旋回で湖面に激突したとのことであった。エンジン脱落、右翼折損、車輪後方に離散の上、機体は霞ケ浦湖に水没の状態のところ、運よく付近操業中の漁師によって水中から救助されたとのことであった。
 私は、右旋回降下中、作業室右前方にある作業台右隅に位置し、航空図板を腹部にあてた形で、机と直角に庄着した姿勢で湖面に激突した為、最初の衝撃は緩衝され、反動による打撲は腰部で受けとめたので、幸に命を取り止めた模様であった。
 かくして、昭和19年の新年は百里原航空隊の病室で一人迎えることとなったが、多くの同僚の見舞いや励ましに支えられ、同年2月の中旬頃から再び飛行作業に入ることが出来た。この時の打撲による腰部の鈍痛やしびれ感は、容易にとれないので、長い間、相当に悩まされたが、命と引き換えであったと考えれば、贅沢な事は言えない。

齊田元春君は平成8年病死されている。
 石井勝信(機)君は昭和19年1月11日、第53期生の最初の戦死者として、ペナン沖において球磨で散華した。齊田元春君は、第53期生として出した最初の戦死者であっただけに、強烈な印象が今なお私の胸裏に残っていると書いている。
 佐伯伝蔵(主)君は昭和19217軽巡洋艦 那珂 がトラック島北(西方という説もある)で航空母艦「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-17)および「カウペンス」(USS Cowpens, CV-25)艦載機部隊による攻撃を受けて沈没した際、同艦と運命を共にした海軍経理学校33期戦死第1号である。