平成22年4月26日 校正すみ
桂さんが亡兄の墓参り
木村 靖
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木村 湜 | 桂 理平 |
私にとって昨年最大の出来事は桂さんが亡兄の墓にお参りしてくれたことです。桂さんと小生の亡兄は二号時代同じ四分隊のルームメイトでした。
桂さんはつねづね私と顔を合わせる度に、亡兄の墓参のことを気にされていました。勿論、弟としてクラスの方に親しく線香をあげて頂けるのはまことに有り難く亡兄に何よりの供養と思っていましたが、何分、墓は静岡県の富士市、・・・・と言っても新幹線の「新富士」の駅から車で三〇分はかかってしまう場所です。
この寺は親父の実家の菩提寺ということから、敷地だけは昔から確保していましたが、墓石の方は戦後しばらく経ってから、親父が退職金で立てました。
今はその墓に親父、そしてお袋と亡兄が三人、水入らず納まっています。
勿論、兄については、遺骨はありません。代わりに飛行学生の時、残していった僅かばかりの遺髪と爪を埋葬してあります。
そして秋に入り、桂さんから連絡が入りました。
「今度、一号時代の分隊会が横須賀で開催されます。ついては、これを機会に上京し、合わせて昔からの宿題だったお兄さんのお墓に伺いたい」とのお話です。
そこで早速、来宅をお願いし、続いて静岡富士市の墓にご案内した次第です。昨年十月二十三日のことです。
私が桂さんに始めてお目にかかったのは、昭和五十二年十一月十九日のことです。場所は京都の名利南禅寺です。この日、兵学校昭和十六年四分隊の戦死者の慰霊祭が開かれたのです。
主催は七十一期の二階堂伍長(当時)以下七十二期、七十三期の四分隊の生存者の方々です。私たち遺族もご案内を受け出席しました。 そして私たちとの懇親会を開いて故人を偲んでくださったのです。その席上には伊吹さん、それに残念ながら亡くなられた鈴木哲郎さんもご一緒でした。
(この会合のことについては、ちょっとハッキリ覚えていませんが鈴木哲郎さんが当時の「なにわ会ニュース」にお書きになった記憶がありますが・・・・)
以来、桂さんとは上京の折などお会いしていました。
墓前に立った桂さんは「やっときたゾ」といいました。そして亡兄の墓誌の文面をじっと長いこと見つめていました。
この墓誌は亡兄在校中校長をされた草鹿任一中将に戦後、親父がお願いして書いて頂いたものです。
「二十二歳戦死・・・・ほんとうに若かった・・・・お互い若かった・・・・若かったんだ」
私にはこれが溜め息のように聞こえました。
それ以外無言のまま・・・・沈黙でした。
私自身はかって耳にした『死者老いず、生者老いゆく恨みかな』の句が淡い飛行機雲のように頭を横切りました。
・・・・が、しかし空母「瑞鳳」乗組みだった桂さんはもしかするとご自身が参加した十九年六月のマリアナ沖の青黒い波頭か、或いは捷号作戦十月二十五日エンガノ岬沖で「瑞鳳」 に突進してくるF6Fの機銃掃射の閃光か、それとも狂ったように耳をつんざく見方の対空砲火の発射音か・・・・
(桂さんの力作 わが海戦記」の対空戦の描写が飛び込んできました)。或いは、また生徒館で共に過ごした今は亡き戦死者たちの元気な顔がクローズアップし脳裏をかすめたのか?
しかし、これはわたしの勝手な推察にすぎません。
桂さんは小声で墓に向かって「遅くなりました。今日は皆の代表です。」と線香と花束を静かに供えてくださいました。
敗戦から五十二年、墓に入っている両親も同期の方のご焼香を待っていたかも知れず、そうであれば、この日はきっと大感激だったと思います。
晴天でありさえすれば、何時もこの墓地から望める富士山はこの日はかすんで茫漠としていました。
(なにわ会ニュース76号31頁 平成9年9月掲載)