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平成22年4月26日 校正すみ

忘れ難い人たち 川崎順二

 小灘利春

 川崎順二少佐(死後二階級特進)は海軍潜水学校機関科学生を卒業後、志願して昭和十九年九月一日に開隊した回天部隊に着任し最初の時期の搭乗員となった。

「大津島の基地で兵学校出の士官がよく殴った」と言い立てる向きがあるが、無責任な誇張である。気迫に満ちた部隊であるから、鉄拳制裁が時にはあったが、行うのは大部分が機関学校出身者であり、またその殆どは「川崎順二」とされている。

 海軍機関学校は元来気性の激しいところであるが、その歴史上最も殴ったクラスは彼の53期と言われ、その中でも川崎が随一との定評がある。それにもかかわらず、殴られた下級生の間に彼を怨む声がないのである。激しく叱咤し殴っても、良くしようとの誠意からの制裁であって一切の私心がなく、それが下の者によくわかるからだと言う。個人的な感情がないから、カラッとして後に残らない。彼は一面、良く気がつき、人に親切で面倒見がよかった。古くからいた予備士官たちも「川崎中尉はむしろ気安い仲間の感じで、猛烈人間といった印象ではなかった」と語る。ともかく、回天の訓練基地、大津島の中では最も勇ましい存在であったことはたしかであり、特に同じ隊で出撃する学徒出身の、海上経験が少ない少尉たちは、いつも身近にいるだけに大変であったと推察される。

 昭和20年、米軍の大機動部隊が硫黄島に、攻略部隊を満載した船団を伴って来攻、迎え撃つ日本海軍の戦力は神風特攻機と潜水艦だけであった。米軍は2月19日上陸を開始、急遽潜水艦伊368、伊370、伊44の三隻をもって回天特別攻撃隊千早隊が編成され、川崎中尉は回天五基を搭載する伊号第368潜水艦の先任搭乗員として2月20日、大津島基地を出撃し戦場に急行、そのまま消息を絶った。

 公報では2月26日戦死とされ二階級特進しているが、戦後調査した米軍の記録では2月27日未明、同潜水艦は護衛空母アンジオの搭載機に捕捉され潜航したが、執拗な追跡、攻撃が続き、遂に硫黄島西方24浬の地点で沈んだ。

 この交戦の際、甲板上に回天の姿はなかったと聞く。即ち、既に回天が発進した後であった可能性があり、硫黄島守備隊からも洋上に火柱多数を見たとの報告が来ていた。

 交戦機の詳しい報告や周囲艦船の記録の入手に努めているが、熱血の人川崎順二を偲ぶとき、残されたものとして隊員たちの戦いぶりを明らかにせずにはおれない思いである。

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