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忘れ難い人たち 川久保輝夫

小灘利春
平成12年 4月

  鹿児島県 兵72期 金剛隊伊47潜
  昭和20年5月12日 ニューギニア北岸ホーーサンディア
  に進出・突入 

川久保輝夫

昭和19年8月、海軍潜水学校普通科学生の発令を受け、続いて第一特別基地隊の大津島基地に私どもと一緒に転属となり、回天の搭乗員になった。回天作戦の第二陣金剛隊の伊号第47潜水艦で昭和19年12月25日彼は大津島を出撃、遠くニューギニア北岸のホーランディアに集結する散艦船の攻撃に向かった。伊47潜の艦長は前回の菊水隊で、西カロリン諸島のウルシー泊地へ向け回天の全基発進に成功した折田善次少佐であった。少佐は同じ鹿児島市内の出身で、しかも彼の兄と兵学校の同期生であったから、在学中は休噸の折り訪問したが、その頃輝夫はエプロンを掛けたヨチヨチ歩きの幼児であった。それが海軍中尉になって、偶然にも折田少佐の艦に、回天特攻の先任搭乗員として乗り込んできたのである。

 18日間の進出航海中、潜水艦は洋上を漂流する筏に行き遭った。グアム島守備隊の海軍軍人8名が、米軍に島を占領された後海上を迂回して米軍上陸地点を攻撃しようとして手製の筏で乗り出したが、海流に押し流されて32日ものあいだ筏に乗ったまま漂流を続けていたのである。

「オジさん、頼むからあの8人を助けてやってくれ。我々4四人は後十幾日で確実に死ぬんだ。4人の代わりに8人が代って生還するのはめでたい。着る物は我々のものをやってください」

 無事に帰れる保証はない、長途の決死作戦の途中であったが、それで艦長は決断し、8人の漂流者を収容した。

 1月12日の黎明、港の北四海里半の地点から4艇が発進した。直ちに浮上し全速退避に移った潜水艦は約一時間後、大きな赤橙色の閃光を視認した。ホーランデイァ基地指揮官は全艦船あて潜水艦警報を連送し始めた。戦後判明したところでは、輸送船「ボンタス・ロス」号に回天が命中、しかし頭部の一・五五dの火薬はその瞬間には爆発せず、少し離れて大爆発を起こした。船体に斜めに命中した為かと思われる。輸送船の横腹には回天の頭部が激突した凹損が残っていた。他の各艇もそれぞれ付近で爆発したという。

 

 彼は小柄であるが肝は太く、冷静な意見を堂々と述べた。大津島基地が開隊した当時34名いた士官搭乗員の中では背は最も低いのに、いつも人の輪の真ん中にいた。貫禄は一番であった。

 昭和20年の元旦を熱帯の海中で迎えた伊47潜は、乗員の文芸作品を募集した。審査の結果、川久保中尉が作詞した

「沖の島過ぎ 祖国を離れ、敵を求めて波万里……」に始まる「回天金剛隊の歌」の歌が一等に人選し、艦長賞のビールを獲得した。この歌は戦時歌謡「流抄の護り」の曲にて乗員の愛唱歌となった。

 目標地点に到着し、搭乗員がいよいよ回天に乗艇する前、潜水艦乗員は全員でこの歌を合唱して壮途を送った。

 川久保中尉の家庭は鹿児島の典型的な軍人一家であった。父上は旅順攻略戦で負傷した陸軍大佐。子息六人の内、若くして病没した長男と幼少の六男以外の四人がすべて海軍兵学校に進んで戦死、少佐に進級した。家族に軍人を多く出した所謂「軍国一家」は数多いが、「兄弟四人が戦死して、揃って海軍少佐」というのは稀ではあるまいか。五男である彼、故川久保輝夫少佐の名は鹿児島市内の草牟田墓地の中の「川久保家之墓」に、兄弟と並んで末尾に刻まれている。

金剛隊の歌    海軍中尉 川久保輝夫

1 沖の島過ぎ祖国を離れ 敵を求めて浪万里 空母戦艦唯一撃と 今ぞ征で発つ金剛隊

2 流れも滑き湊川の 棟の光を今承けて 先に征きたる菊水隊の 挙げし戦果に続かばや

3 聖戦も四年の春を 南の海に迎えつつ 必勝のとき今来れりと 先ず魁けん金剛隊

4 若き血は湧き内踊るかな 挺身必殺醜敵を 砕き沈めて千代八千代にも すめらみくにを 護りなん

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