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追悼:「"鉄の団結"誇った白龍隊」

多賀谷虎雄(元搭乗員・一飛曹)

 回天特攻隊白龍隊の隊員7名を乗せたまま、第18号輸送艦は沖縄列島付近の作戦海域で、その消息を絶ったと云う。そんな白龍隊の悲壮な最後を聞いたのは、終戦後だいぶたってからのことであった。

 昭和20年6月15日、訓練基地大津島を後にして、陸路目的地に到着したが、そこはまさに本土決戦の最先端であり、戦場であった。さまざまな特攻兵器がそれぞれの使命感に燃えて、闘志を青い火花のように散らし合っていた。当然のことのように、私たちも回天の名を恥かしめてはならじと、大張り切りで待機していたのだった。だがこのころ敵B29による本土爆撃は日ごとに激しさを加え、その通路に当たっている私たちの上空をわがもの顔に、まるで日課のごとく横行していたし、また艦載機による空襲で多くの市民が傷つき、そして死んでいった。

今日のいま、最後まで寝食をともにし、一緒に死ぬことのみに行動した戦友の追憶は尽きない。その数多い想い出のなかにあって、白龍隊員の印象がことさらあざやかに去来するので、与えられたこの機会に拙文を記し、戦友たちの冥福を祈る一助にしたいと思う。

(中略)・・それから間もなく、私たちはその”総本山”ともいうべき大津島に赴任したのであるが、この基地の異常ともいうべき緊張ぶり、訓練に次ぐ訓練には、予科練で相当鍛えられたはずの私たちも、目をむかざるを得なかった。

 ピンと張り詰めた島全体の異様な空気に、正直な話、不安と恐怖の念を抱いたのは、ひとり私だけではなかったであろう。そして、わずかにホッとした三日目のことだったが、ちょっとした気のゆるみから、私たちは一人の士官から気合いをかけられた。それが私と河合中尉との出会いであった。

 私はこの長身の海兵出身の青年将校に、何か魅せられたとでもいうのか、言い知れぬ親しみをおぼえたが、ほどなくその名が『不死男』(死なない男)と聞いて、ことさらに心を惹かれるようになっていった。若年ながら武将の風格十分な河合中尉のもとに、初めて白龍隊が編成された時、まさに勇将のもとに弱卒なしの感がして、私はうらやましくさえ思ったほどだ。それぞれの隊員は個性ゆたかなうちにも、優れたチームワークを誇り、傍から見ても実に力強いものがあった。

 

 これもひとえに、河合中尉の抱擁力ある人柄と、卓抜した指導力があずかって大きかったと思うが、とにかく私は、ともに死を目ざす仲間として、河合中尉をはじめ隊員たちには、実の兄弟以上の親しさを感じて兄事したものである。

 出撃の前夜、中尉に最後の染筆をお願いしたところ、快よく達筆をふるって、次のような辞世の歌を短冊に記され、つぶやくようにそれを読まれたあと、私に渡してくれた――その日のことが、悟りきったように静かな河合中尉の横顔が、つい昨日のことのごとく想い起こされてくるのである。

辞世

春なれば散りし桜もにほふらむ

げにうたかたときへて散るとも

贈 多賀谷兵曹

 

「忘れ難い人たち」 河合不死

小灘 利春

 回天は人間が操縦する「魚雷」であるから、もともと潜水艦に搭載されて、敵の前進基地に近づき、発進して泊地内の敵艦隊を奇襲したが、次の時期は広い洋上で航行中の艦船を求めて攻撃した。戦局の急迫にともない、さらに陸上基地から出てゆく回天隊が次々と編成された。その第一陣として河合不死男中尉(没後大尉)を隊長として第一回天隊、通称白龍隊が光基地から沖縄へ出発した。

 河合中尉は愛知県の出身で、成章中学(現高校)から海軍兵学校に入り、戦艦榛名に乗組んだ後潜水学校に進んだ。故久住宏少佐が昭和20年1月、パラオ諸島コッソル水道を目指して伊号53潜水艦から発進し、直後に気筒爆発の災厄に遭って自沈したが、同少佐とは兵学校で同期かつ同じ分隊であった。潜水学校で再び一緒になり、また揃って回天搭乗員を志願した。

 彼は教育、訓練指導には厳格であった。わずかな操縦ミスで一つしかない生命がたちまち消し飛ぶ、緊張の毎日であるから、当然精神の引き締めが常に必要な部隊なのである。同時に彼は厳しいばかりの人間ではなく、人の命を大切にする気持ちが人一倍強かった。真冬の寒風吹きすさぶ海上で、訓練中の回天が岩礁に正面衝突して動けなくなったとき、彼は直ちに衣服を脱ぎ捨て裸になり、腰にロープを巻いて荒れる海中に飛び込んだ。自分が凍死する危険を冒して遭難回天に泳ぎ着き、ロープを取りつけて曳き出し、搭乗員の無事救出を成し遂げたのである。

 河合中尉は新設の光基地に移動し、ここが第一回天隊の本拠になった。重量8トンの回天を洞窟から曳き出して海に浮かべる、すべて人力で進める発進作業を、大津島の予科練出身の下士官搭乗員たちは熱心に見学し、また自発的に作業に協力していた。

 そのひとりに桜井貞夫兵曹がいた。冷たい冬の海に浸かって回天を海に入れる作業の先頭に立つ彼に、河合中尉が光から出撃する直前、彼に送った手紙は、当時の回天隊員同士の出身や階級を問わぬ温かい心の交流をしのばせる。

 

桜井兵曹宛て書状

 第一回天隊は隊長以下7名の回天搭乗員が基地要員120名とともに、昭和20年3月13日、第18号1等輸送艦に乗り光基地を出撃した。佐世保に寄港し資材を積み込んで沖縄に向かったが、入港直前の3月18日未明、那覇北西の粟国島付近で米国潜水艦スプリンガ―に遭遇。3度にわたって魚雷計8本の攻撃を受け、輸送艦は1時間もの交戦ののち遂に沈んだ。河合隊長以下便乗中の第一回天隊は127名全員が戦死、輸送艦の乗員225名も全員が戦死した。両方とも名簿がないため、隊員・乗員の氏名調査に長い年月がかかったが、輸送艦については乗員全員の氏名住所を明らかにすることができた。しかし、第一回天隊員は僅か14名が判明したにとどまり、今なお我々は手掛かりを求めて調査を続けている。

 

出撃に当たり叔父(陸軍大佐河合慎助)あて遺書

 今回大命ヲ拝シ、部下ヲ率イテ特別任務ヲ以テ出撃スル事ト相成申候。

 皇国興廃ノ大戦局ニ直面シ、皇土頻ニ夷ノ侵入スルトコロトナリ、恐レ多クモ宸襟ヲナヤマシメ給フコト、誠ニ我々軍人トシテ申訳ナキ次第ニ有之、軍人トシテ不忠ナルコト、此レヨリ大ナルハ莫シト存ジ候テ、毎日出撃ヲ願ヒ、今回出撃ヲ許可サレ勇躍出発スルコトト相成候。帝国ヲ護ルモノ、最后ノ兵器ハ此レ以外ニ絶対ニ無キモノト確信致シ候。吾人等軍人トシテ此ノ種特別任務ハ当然過ギルコトニテ、今更ココニ特別任務ト申立ツルモ恥ヅカシキ次第ト存ジ候。

 唯此ノ大命ヲ私ガ如キモノニ下サレタルコト、誠ニカタジケナキ次第ニテ、大命余リニモ重クシテ、無駄ニ部下ヲ殺シ宸襟ヲナヤマシメ給ハザルヤヲ、唯々一途ニ恐ルルモノニ御座候。全力ヲ奮ッテ此ノ任務ヲ全フシ、上天皇陛下ニ応ヘ奉ランノミ。

 而シテ皇国ノ一大国難ヲ切開キテ神州不滅ノ大精紳ニ生キ、皇国ノ弥栄ヲ祈ルノミ。

 叔父様ニハ長イ間御世話ニ相成リ、今過ギシ月日ヲ顧ミテ誠ニ感無量ナルモノ有之候。

 幼ニシテ軍人ヲ志シ、今ココニ帝国海軍軍人トシテ其ノ任務ノタメニ、偉大ナル建設ヘノ礎石トシテ、武人ノ死場所ヲ得候事、皆此レ叔父上様ノ平素ノ御訓育ニ依ルモノト唯々感謝ニ堪ヘズ候。

 今故国ヲ去ラントスルニ当リ、思ヒ起スコトハ数々アレド、思ヒノコスコトハ更ニ無ク、鬼畜米英撃殺ノ若キ血ハ、逆流ヲノミ禁ジ得ザルモノ有之候。多年ノ御慈愛ヲ深ク謝シ、叔父上様ノ武運長久ト皆様ノ御多幸ヲ祈上候。

桜花かくあれかしとさとすらむ

みことかしこみ征く益良夫は

ふじを

註釈:みこと詔(みことのり)。天皇のことば。

辞世の句

散る花の 二度とは咲かじ若桜.

散りてめずらん 九重の庭

註釈:九重(ここのえ) 宮中、皇居

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