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平成22年4月24日 校正すみ

粕谷仁司兄の墓参

山田  穣

昭利15年の暮、当時、江田島の数あるクラブの中での1等クラブ、それは、もちろん一号専用のクラブであったが、その名は「橋本クラブ」、校門の近所で、1等地であった。

その橋本クラブに、全国から集った約20人の俊英は、1部1班に編制された。1分隊の1部、13分隊全員、25分隊の一部であった。その中に、粕谷仁司がいた。彼は 25分隊の所属であり、兵庫県加古川中学出身の英才であった。

粕谷 仁司

白哲の美青年というべきか。また、寡黙端正外柔内剛の士であった。四号、三号時代は、同じ1部1班に所属してはいたが、お互いに、余り語り合うこともなく、1年は過ぎた。

一号になり、新しい分隊替えで、私は、第27分隊になった。二号時代の第42分隊から、村田善則、岡本俊章、山田 穣の3名が27分隊に移ったことになり、珍しい例であろう。 その折の伍長補が粕谷であった。

一号時代の粕谷も、四号時代の印象そのままであり、寡黙の士で、74期の三号に対しても率先垂範であり、非常に口数の少ない一号生徒であったといえよう。しかし、伍長の村田善則を補佐して、伍長補としての立場を立派にこなし、一号時代の64ケ分隊の中でも模範的な第27分隊を構築したと考えているのは私1人だけではないであろう。
  
さて、数ある海軍時代の会合の中で、分隊会というのがある。分隊会は、われわれが一号時代の三号が主催して、随時開催されているが、72期が四号の時の分隊会は、当然72期が幹事役になるのであるが、私も一度、昭和16年度第13分隊会を幹事役で開催したことがあるが、わがクラスが四号の時の分隊会は、どちらかというと珍しい例になるであろう。がしかし、74期以降になると、それぞれのクラスが幹事となって、分隊会が開かれている。決して、珍しいことではない。その違いは、どこからくるのであろう。

われわれが.一号の時、第27分隊の三号に立川孝幸という男がいた。私の対番生徒であったから、決して、成績優秀な男ではない。しかし、74期の中では右翼に属する世話好きなハートナイスであり、海キチでもある。彼がいるから27分隊会が開催される。

本年の分隊会は大阪で行なわれた。これを機会に、粕谷の墓参をしよう、という動議が提案された。捉案者は、もちろん立川孝幸とクラスの田中、岡本である。私如きは、ただ、ついて行つたに過ぎないが、非常に有意義な行事であったと思うし、お膳立ては出来なかった罪滅ぼしに、「粕谷亡司墓参記」を認めることにより、いくらかでも約に立ちたいということである。

平成5年9月18日土曜日、加古川駅に参集したには、一号、岡本俊章・田中春雄、守家友義に山田 模、二号、西村承久、三号、立川孝幸の6名。粕谷の令弟粕谷 衛氏と長男に出迎えて頂き、初秋の昼さがり直ちに、粕谷家墳墓の地へ向った。自動車でも約20分程度はかかるが、昔、粕谷は、加古川中学に通うのに、自転車で50分かかっていたという。

 

粕谷が、毎日通った水田の中の道を通って50年前の若き純真な時代を想起しつつ、両側にゆれる稲穂の波に感動を覚えながら、墓地に直行した。「故海軍少佐粕谷仁司墓」は、尊父が建立されたものであるか、父上としては、位階勲等が発令されるまで待っておられたそうであるが、従6位勲5等攻3級の勲位がなかなか届かず、待ちくたびれて、この墓碑を建立されたそうで、そんな弟さんのお話の中にも、親心が伺われる。

この墓碑は、この墓地においても一番けたはずれに大きく立派な碑である。参拝者一同墓前に額ずくのが遅かったのを謝しつつ、何か、心のどこかに残っていた義務感をやっと果したというのか実感であった。

墓参の帰路は、時間も余り無かったが、粕谷邸を訪問、仏壇に額ずき合掌した。実は、ここまで来れば、加古川中学出身の坂田明治の家にも立ち寄るのが当然ではあったが、時間の郡台上果せなかった。

想い起すと、靖国神社参拝の慰霊祭の初めの頃、いつの時であったか忘れたが、70期の恩賜卒業である三浦節氏から拙宅に電話があったことがある。私が未だ、西荻窪に住んでいた頃であるから昭和32年以前のことである。

4分隊の伍長としての三浦 節氏は知ってはいたが、それは遠くから見てのことで、もちろん、生徒時代に話したこともない。三浦さんから突然の竃話は、72期の参拝クラス会に粕谷の遺族として父君と令弟が上京されるので、そのケアーをしろ、というもので、その時、始めて、三浦さんも加古川中学の出身であることが判った。

父上は、生前、よく参拝クラス会に出席されたので、今は亡きご尊父、ご母堂に対しても、ご仏前に対して、ご遺族訪問が遅かったのをお詫び申し上げた次第である。

最後に、海軍少佐粕谷仁司の最後の模様を紹介して擱筆する。

昭和20年4月14日、神風特攻第十大義隊爆戦(爆装戦闘機)6機の指揮官として、石垣島を0600出撃、沖縄の米艦艇に対し特攻出撃して戦死。2階級特進により海軍少佐となる、というのが、彼、粕谷の最後であるが、特攻出撃のため、戦果詳細は判らない。

このとき、沖縄の攻防は、ピークに達し、桜花の出撃も同日である。上飛曹真柄嘉一の指揮する第四神風特攻桜花隊桜花7基は、鹿屋を1130に出撃した。それを運ぶのは、海軍大尉沢柳彦士の指揮する一式陸攻7機の攻撃隊である。

さらに、同時刻、海軍中尉中根久喜の指揮する神風特攻第六建武隊、海軍中尉鈴木典信の指揮する神風特攻第一昭和隊、海軍中尉熊倉高教の指揮する神風特攻第二筑波隊の合計爆戦21機が鹿屋を出撃。

同じ日、1430、鹿屋から、海軍中尉合原 直(72期)が、神風特攻第二神剣隊として爆戦9機を率いて出撃。さらに、同日、1810、陸軍伍長及川喜一郎が、喜界島を陸軍特攻第二十九振武隊として一式戦2機を率いて出撃している。

以上45機の特攻に上る戦果は、米国側の発表として、米国戦艦ニューヨーク、駆逐艦シグズビー、ダシール、ハントの4艦が損傷を受けた。とくにシグズビーは、沈没であった。これらの戦果は、日本側の発表ではない米国自身の発表であり、当日の45機の特攻のうち、どの機の戦果であるかは判らないが、将に、45機の共同の戦果として認識する必要があろう。

等しく古希を迎えたわれ等72期の生存者の中に、粕谷仁司の顔を見ることが出来ないのは残念だが、そのご冥福を祈るとともに粕谷家のご遺族の上に、一層の幸を賜わる可く、天上より格段のご加護を賜わらんことを祈るものである。

(なにわ会ニュース70号13頁 平成6年3月掲載)

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