柿崎少佐のことども
斎藤 寛
前略
突然御手紙を差し上げ誠に失礼とは存じますが止むに止まれぬ気持にて一筆認めます。
(編注 本稿山根真樹生宛)
戦時中イ56号潜水艦の軍医を致して居り、現在新日鉄の子会社・日鉄商事の嘱託医を致して居ります慶大出身の医師で御座います。
先年旧刊“鉄の棺”を潜水艦関係者より再版せよとの声が多く、国会図書館からのコピーの回し読みでは時間が掛り、致し方が無いとの理由でしたので再版致しました。
日鉄商事社内にも偶然二、三の海軍関係縁故の方が居られお手紙等を頂戴致して居ります。其の際山根様が柿崎実氏と御同期と聞き及び、誠になつかしく存じて居りました。
過ぎ去った古い話で御座いますが、“鉄の棺”に書けなかった柿崎氏の苦悩を思い出しまして、御多忙を顧みませず手紙を差し上げました様な次第で御座います。
死を覚悟すると言っても、飛行機の場合と異り操艇の極めて困難な、浮力の少ない、波浪に弱い、潜望鏡視野の狭い回天で、平水ならいざ知らず外洋で、長さ1mの潜望鏡の露頂観測が如何に困難であったか想像に難くない状態でした。この様な艇であつた為奇襲には大変な苦労があった様でした。
伊56潜のアドミラルティ攻撃中止は、敵の防備、特にレーダーが40mの丘の上にあり強力で、御存知の通り米艦隊が一堂に会せる天然の良港で湾口の巾800m、水深30m湾外潮流異常に速く最高12ノットとの事でした。
柿崎少佐は、私が防潜材に体当りするから他の艇はその突破口から侵入して呉れと森永艦長に申し出たそうです。
当時同方面に作戦した十五隻の潜水艦が、戦後判明した事ですが、護衛空母ヨークタウン、バターン、護衛艦ハガード、モンゼン、メルツ、ハーマン、ウルマン、マツコード、コレット、コべ−ジャ、コンクリン、ラビー等のH・K・GroupのH・K・Operation により航空機・レーダー・ヘッヂホッグ及び九型高速沈下爆雷の攻撃で沈められて居り、特にヘッジホッグ攻撃のハート型投射が偉効であった様でした。三月中旬結成されラドフォード中将指揮のH・K・Operationは左記の潜水艦の沈没となりました。
(沈没月日の下の×はヘッジホッグ攻撃回数)
イ12(19・3・24) 1×
イ32(4・27) 3×
イ16(5・19) 5×
ロ104(5・23) 6×
ロ108(5・26) 1×
ロ105(5・31) 3×
ロ116(5・24) 1×
ロ42 (6・11) 4×
ロ44(6・16) 2×
イ10(7・4) 1×
イ5(7・19) 2×
ロ47(9・26) 5×
イ177(10・3) 1×
イ45(10・24) 4×
アドミラルティ攻撃不成功のあと柿崎氏はイ47(艦長折田善治)で、種ケ島南東100マイルで飛行機より爆撃され、重油漏洩、11時間対潜艦艇に追跡され時機を得ず内海に帰投。この間に回天作戦の要港襲撃は被害が多いので洋上襲撃に変更使用されるようになりました。
昭和20・5・2 イ47(艦長同前)にて沖大東島南々西一六〇浬で洋上攻撃にて駆逐艦に体当たり、差し違えて花々しく散って行ったのでした。
イ47の折田艦長の話しでは、第2回目の攻撃中止以来見るに忍びない様子で敵艦に突入するのが一日も早かれと祈るようであったとの事でした。最後の突入の時、折田艦長が「駆逐艦では小さいからもう少し待とう。必ず大艦にぶつかるよ」と言うと、「駆逐艦で結構です。一刻も早い方が良いです。是非発進させて下さい」と言って出ていったとのことです。山形県出身の方だけに忍耐強く、口下手で、幾分小造りの顔たちのくるくりした眼で、どちらかと言えば無口で内気で少々陰気だけれど思いやりのある人だと思っておりました。
死を決意するのは容易と思いますが、年余りに亘りこの決意を持続し、洋上攻撃を決行するなどは、到底常人の出来る事ではないと思い、唯々無我の境地を坦々と行く間には幾回という数え切れない突人を、心中で行っていたのでは無いかと思うと我々俗人には解らない偉大大さを感じます。(後略)
(なにわ会ニュース45号15頁 昭和56年9月掲載)