平成22年4月26日 校正すみ
国生中尉と門脇中尉を偲んで
大森愼二郎
門脇 国樹 | 国生眞三郎 |
昭和19年9月、鈴鹿空より愛知県明治基地210空への転勤命令により明治基地に着任した。着いてみると同期の梅本和夫が既に着任していて、それから翌年5月迄約8ケ月間共に同基地で勤務することになった。
当時の210空は実戦機の教育訓練を目的として編成されたばかりで未だ設営隊が基地の整備に従事していて飛行機の機種揃え部品の購入等部隊の態勢が出来上る迄すべてが一から始める状況であった。
先輩には47期山崎大尉、51期児島大尉が相前後して着任してこられ、又艦爆隊の搭乗員として51期の国安大尉も居られた。
その頃やはり着任して来た柴田中尉が梅本と一緒にいる所へやって来て2枚の写眞を見せられた。1枚は国生中尉、1枚は門脇中尉の写眞で2人とも今迄一緒の部隊で勤務し近況等を話して呉れた。
2人共非常に元気なこと、門脇中尉は甲板士官として特に張切っているとの話であった。
その後1ケ月程たって隊員の知識補充と研修の為、20名程を引率して1週間、相模野航空隊へ出張した。相模野空には51期の森山大尉が居られ何かとお世話になったが、その折国生中尉も同じ目的で来て居ると開いてその晩彼の部屋を訪ね色々と近況やら同期の消息等を話し合った。彼の部隊も近く南方へ移動する事等、語っていた。
翌日彼の方は一先ず目的も終え帰隊して行った。それが彼と会った最後となり其後消息は聞かなかった。戦後になって始めて、彼が非常に困難な状況下で比島の山野を転戦して散った最後を知った。
彼はカメラや写眞が非常に好きで整備学生の頃当時既に入手が非常に困難だったドイツ製カメラを買いに上田と東京迄行った事があった。彼の愛機「コレレ」の事等思い出はつきない。
門脇中尉には其後遂に再会の機会は無かったが、戦局は愈々激しさを増し20年2月米軍硫黄島上陸、3月硫黄島守備隊全滅、期友合志秀夫戦死等此の半年間は悲報相つぎ期友の多くが此の時期海に空に又水中深く散って逝った。
沖縄に米軍上陸が始まるや210空でも各飛行隊が部隊を編成攻撃隊として鹿屋に進出して行き、艦攻隊も47期小林平八郎大尉を隊長として20数機を率いて発進して行った。
又国安大尉が給油で立寄り見送ったのもその頃である。其日指揮所から1台の小型車が走って来たが、眼の前で止り中から飛行服姿の国安大尉が出て来た。何時ものさわやかな笑顔で南方へ部隊を指揮して移動の途中である事、又以前勤めた基地を懐かしそうに見廻して「では」と車に乗って列線の方へ走り去って行った。
そして其後、暫くして大尉の戦死の報せを知った。
残った隊では機数を揃え昼夜訓練が続いていたが、或る日訓練を終った飛行機の整備を指揮していた時、数機の飛行機が給油のため、着陸し搭乗員は給油が終る迄待機していたが、その中から1人が近づいて来て門脇中尉の同期ですかと尋ねた。「そうだ」と答えると「実は中尉は先日戦死されました」と言われた。
状況を聞くと彼の部隊は南方(串良基地)へ移動したが、1機丈エンジン不調で出発を遅らせる事になった。彼は責任上後に残り他は先に進発していったが無事に目的地についた。当時内地の空は既に米軍艦載機の跳梁する所となり空輸や移動も非常な危険が伴っていた。
先に着いた飛行機を収納し終った時、空襲警報が鳴り敵機の接近を知らせたがその時味方の1機が飛行場に近づいて来るのが見えた。それはまさしく後れて発進した門脇中尉同乗の1機である。目撃した基地の人々は一瞬不安につつまれたが、不安は適中、折から進入してきた米軍艦載機の攻撃を受け墜落していった。誠に残念でしたと言い残して飛び立って行った。
もう少し詳しく聞きたいと思ったがその時間が無かった。其の夜は目的地を目前にして散って逝った彼の無念の胸中を察して療つかれない一夜を過した。
又生徒時代同じ分隊ではなかったが、厳しい生徒館生活の中で諷々として一種のさわやかさを感じさせた彼の面影を想い出す。
国生と門脇の両君の写眞を思い浮べる時決して華やかではないが困難な状況の中で与えられた義務に全力で当って散った二君の冥福を心から祈念してやまない。
(機関記念誌119頁)