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平成22年4月29日 校正すみ

巡 拝 行

安藤  満

 十三分隊の一号は五名(豊住、松山、佐藤、松田、安藤) であったが、内二名 (豊住、松山) が戦死した。豊住は二十年一月二十一日、回天でウルシーに突入し、松山は二十年四月二十四日、クラーク地区周辺の野戦に斃れ、文字通り水清く屍、草蒸す屍となった。

 戦後を唯夢中で馬車馬の様に過ごして初老を迎えた頃、こんな生活を続けていてよいのか、何かやり残しているものはないのかと省みた時、真っ先に頭に浮かんだことは、足腰の丈夫な今の裡にこそ、永年気にしながら実行の出来なかった、亡き友の墓参と御遺族の訪問をすることだった。そのように心に定め、御遺族には事前に遅ればせ乍らの御詫びも兼ねて、身勝手な許諾を頂き、心身を清めて巡拝の旅を始めたのは、十年程前のことであった。

 豊住の墓は熊本市内の妙立寺にある。家内を連れての九州路ははじめてであったが、御遺族の皆様に温かく迎えられ、特に入院静養中であられた御母堂シズ様が、医師の許可を得て自宅に帰り、小生夫婦を迎えてくださったことに深い感動を覚えた。

 折よく、合志の令弟辰典様、また合志の親戚筋にあたる増田兄(機54)にもお金いすることが出来、その上令弟の御案内で、大津町浄専寺の墓域にある合志の墓参も叶えられて、嬉しい限りであった。また増田兄には熊本市内の名所案内までしていただき、感謝の他はない。

豊住、合志の二人は共に済々黌の出身で、典型的な九州男児だったと思う。

昭和天皇に拝謁のため、候補生全員が東京に集合した時の一日、豊住と明治神宮を参拝しての帰り道に、青山の小生の叔父の家に寄って、一緒に休息したことがあった。その頃、まだ幼かった従妹や従弟が豊住とすぐ仲良しになり、いろいろな話をしている中で、豊住が「私の熊本の家は魚屋なんです」と、小生も当時知らなかったことを口にして、打ち解けているのだった。こんな童顔の笑顔をみせた豊住を見たのははじめてであった。

 

 松山の墓は、有馬の温泉に、ほど近い林渓寺の墓域にあった。その日は初夏の爽やかな日であったが、家内と一緒に先ず西宮の御遺族を訪ね、その頃はまだ御壮健であった御母堂悦様をはじめ、兄上裕典様御夫婦に温かく迎えられ、永年の御無沙汰をお詫びしたのに、丁重なおもてなしを頂き、兄上ご夫妻の案内を受けて墓参を済ませたのであった。

 松山は水泳を得意とし、若干関西訛りの混じる言葉で、いつも先頭に立って下級生の面倒をみていた。流石に灘中出身の俊英といつも思わせられたものだった。

松山が戦死したクラーク地区周辺では、青木、堀、増井、国生、成瀬、山崎、関谷、菊池を含め九名の諸兄が、飛行機整備または兵器整備でありながら、整備をする飛行機も無く、陸上戦闘に巻き込まれてしまったという。

 その上、食料の補給を断たれ、マラリヤに侵かされ、彼等の無念さは今想像すら許されない。搭乗員、水上艦艇、潜水艦まで含めると、比島全域での戦没者は二十五名を数え、クラス全戦没者の大半を数えることになる。

 比島の戦跡は、なんとしても行かねばならない処である。

その後もある時は生存諸兄と、ある時は独りで、また家族で、墓参と御遺族訪問を続けているが、未だに終りに至っていない。

 しかし、どちらへお伺いしても、故人が生前その侭の青年士官で生き続けているのを感得する。彼等は若くして散華したが、いつまでも光り輝いているのを感じる。

 「無為に過ごして百歳を生きても、それは真剣に生きた一日に劣る。
このような一日の身命ほど尊いものはない。」

これは曹洞の修証義の一節を小生なりに解釈したものだが、二十代を必死に生きた戦没諸兄すべてに当てはまることであり、また間もなく七十代を迎えんとする我等への警鐘とも受けとれる。

(機関記念誌150頁)

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