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岩波 欣昭君を偲ぶ

藤田 昇

42年前始めて君に会いました。それは江田島海軍兵学校の校門近く橋中周倶楽部でした。同期14名の第13分隊四号生徒で間もなく起居を共にし、目まぐるしい訓練および学習が始まり、以後1年間同じ釜の飯を食い親兄弟にも優る親密の(きずな)が生まれ、将来の海軍将校としての出発をしたのであります。当時君は「おきん」の愛称で呼ばれ分隊の人気者でした。1年後分隊は別れ、2学年、3学年と進み、太平洋戦争(たけなわ)の昭和18年に卒業、航空部隊と艦船部隊に分離の時、君は我等と共に溌剌(はつらつ)として航空部隊の道を選んだのでありました。

72期の半数は飛行機搭乗員として霞ケ浦にて第41期飛行学生となり、その学生舎にて、また飛行場にて、約半年間飛行将校としての修練を受けたのであります。

当時はガダルカナル、ソロモン等での消耗戦が激しく戦場帰りの教官よりその様子を聞き、未だ見ぬ熾烈な空中戦を想像し乍らひしひしと身のひきしまる思いをしたのでありました。霞ケ浦では1人の殉職者も出ずに無事その課程を修了、次に実用機課程へと分散、君も我等と共に戦闘機へと進むことになりました。150名という一番の多世帯であり、また、それだけ重要な華々しい任務であります。新設の神ノ池航空隊へと配置されました。

この航空隊は当時未完成であり、教官教員も未着任の儘で唯我々72期の学生のみ、約2週間の間は何もせず、ごろごろと海軍で最ものんきな生活であったと思われました。

ここで我等が愛機零戦と対面、以後最後迄その運命を共にするのであります。約5ケ月間空中戦闘の要領を得て修了。実施部隊へ、また、後進の指導に教官として配属されることになり、各々その任務に散って行きました。当時君は南方でその名を揚げたトラ部隊こと、館山の二五二空へ赴任したと思う。私は松山基地在の六〇一空母艦部隊へと決定した。それから約10ケ月後に君の最後の地となった台湾台中基地で再会することになるのです。

いよいよ苛烈を極める戦闘は我々72期の実戦投入となり台湾沖航空戦を始め主戦場と化した比島方面に展開され、初陣の我等搭乗員には実に激しい戦闘であり、多くの期友が物量を誇る米軍のためその尊き生命を捧げ護国の神となったのは周知の通りであります

ここに比島における特攻作戦について一言言及致しますと、1025日関大尉が敵空母に突入されてより、在比二〇一空はその中心部隊となり、玉井司令を始めとして中島飛行長を中心に当隊は全員特攻隊であると宣言し、海軍航空隊各部隊より志願者を募り実施部隊、教育隊を問わず練習機迄含めこの比島マバラカットの二〇一空へと飛来参集。前夜戦況説明後、もう翌日にはこの特攻々撃に発進せしめるという強硬作戦でありました。その悲想なる事、何の表現を以って書き続けることができましょうか。私は36機編制の母艦部隊よりの特攻隊の内の直掩隊であったため敵空母群のみの攻撃目標選定を受け、その他の時は他部隊の直掩任務に回され、191220日頃より約2週間自隊を始め各爆装隊の直掩として4回、サンフェルナンド味方輸送船上空直衛として1回、空中退避3回程出撃したように記憶している。然し乍ら20年1月6日さしもの熾烈を極めた比島特攻作戦も戦勢挽回するに至らずその物量に屈し終焉を迎え、最後の攻撃として母艦部隊よりの爆装隊および残存爆装隊合せて16機、直掩の私を含めて2機計18機でリンガエンに上陸進行中の敵大部隊へ攻撃を決行し二〇一空はその戦力を失ったのであります。

その後、生存搭乗員は苦労を重ね半月かかってルソン島を脱出し台湾へ転出し、台中を基地として主戦場を台湾沖縄方面に変更し終戦まで作戦することになるのであります。

しばしの休養を得た元二〇一空隊員及び南方より参集した残存部隊および比島出撃の予定を変更、台湾に飛来した内地よりの進出組は此処に新たに二〇五空を編制、爾後の作戦行動をするのであります。岩波君はこの内地より進出の中にありました。それは二五二空です。

昭和20年2月のある日、私は台中の指揮所前でその二五二空の着陸を見守りました。誰が来るのか分らず、唯本日二五二空が来る事だけを聞いて居りましたので、多分同期生が来ると思い乍ら味方のふえる事を楽しみに待って居ると8機程到着、編隊をとき着陸コースに入って来ました。飛行機は内地から来ると気温差でスピード感が全く違いまた高度計も500米も狂うものです。1番機は大分バウンドをしたようでした。乗員が整列し着任の挨拶をした時、すべてが分りました。1番機は岩波欣昭君でした。

開口一番私の口から出たのは「何だ、おきん、お前か」と一言、後は例の破顔一笑あのなつかしい笑顔と元気のいい声で神ノ池で別れてからの何か月かの出来事の話が交され、今迄の無事を喜んだ。然しこれからの困難さ、きびしい戦闘の事を思いお互いに口では言わないが内心決死の覚悟はあったと思われる。二〇五空は玉井司令、鈴木突飛行長、村上武分隊長(70期)、永仮分隊長(71期)と10名の72期分隊士および13期予備学生ほか、兵曹長4名予科練出身者の合計約100名の搭乗員編制であったと思う。零戦は120機程度あったと思われた。
同期の戦闘機組は次の通り。

岩波欣昭、粕谷仁司、清水 武、田中敬二、細川孜、満田 茂、山崎州夫、吉盛一己(いづれも戦死)生存者として私藤田、眞鍋正人の計10名がこの台湾に集合した。以上をもって台湾東方洋上の死闘に参加するのであります。

20年の2月と3月は、台湾上空は割合閑散であり、敵も比島奪回後の整備に追われて居たためか始めて二〇五空もしばしの休養を得て久々の訓練飛行を実施し、空戦編隊射撃等戦闘機乗りらしき作業をすることができた。

2月中はたまに米機の偵察行動はあったものの、この静けさは比島飛行場整備完了により飛来せるP47サンダーボルト重戦闘機によって破られ、運命の2月27日につらなることになります。その日の午後、在台中部隊は小康を得て4機編隊4組が訓練に上り、終了後誘導コース反対の西方を高度4〜500米で南下し、指揮所西方2〜300  米離れた位置に達した時、浅い後上方より単機P47の攻撃を受けた。一瞬にして2編隊の1番機のみ火だるまとなる。その2機は同じ状態で落下傘降下、しかし無惨にも乗員は火につつまれ、落下傘の糸が一つ一つ焼け切れているのが地上の双眼鏡からよく見える。全体の3分の1が切れた時、遂にまるい傘は吹流し状となって300米位の高度から落下した。搭乗員は岩波と吉盛の両君であった。

敵艦攻撃を前にして倒れたのです。その悲嘆の胸の内如何ばかりかと思わずにはおれません。小生を含む地上員は直ちに落下地点に急行、その遺骸を収容致しました。2月は台湾でも未だ寒く君は紺の厚い海軍セーターを着て居りました。(くび)にはマイクロホンがその儘着き落下傘バンドが半分黒くこげて片方が無くなっておりました。急ぎトラックに収容工作課にその(ひつぎ)を製作させて柩に安置し全員でその冥福を祈ったのであります。

4月に入るや敵機動部隊は台湾東方海上に遊弋(ゆうよく)を開始、当隊は全力をあげこの機動部隊へ連日に亘り攻撃を開始し敵が沖縄上陸作戦を開始するまで続けられた。この為同期では私と眞鍋君を除く全員が再び台湾の土地に帰り着くことなく台湾東方洋上に散華し、悠久の大義に生き花の青春を惜しまずこの国難にその生命を捧げ、祖国の繁栄を願いつつ殉じたのでありました。

本日は欣昭君の兄正幸氏の御骨折により欣昭君及び亡き期友の面影を偲び我等心新たに哀悼の念を深くし強く顕彰するものであります。

(なにわ会ニュース47号9頁 昭和57年3月掲載)

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