平成22年4月24日 校正すみ
比島沖海戦
池田武邦
伊藤比良雄 | 巡洋艦 矢矧 |
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1 リンガ泊地をあとに「明朝0300出撃!」と艦内スピーカー(高声令達器)が響き、緊張した空気が艦内に漲った。
サイパソ玉砕以来、敵の攻勢は日に日に激しく比島方面へひた押しに押してくるのが、刻々入る敵情電報に感ぜられ「捷一号作戦」の発動間近しの気配を感じていたが、いよいよその日は来た。
昭和19年6月「マリアナ作戦」 (あ号作戦)を終了してから、私達は連合艦隊の第1遊撃艦隊として、司令長官栗田健男中将の下で、赤道直下のリンガ泊地において殆んど連日連夜、艦隊の対空砲戦訓練、対潜警戒訓練、電測射撃訓練、夜間水上戦闘訓練、泊地突入訓練、魚雷戦訓練等、灼熱の洋上で血の滲むような訓練を行なってきた。それは敵が比島上陸の日に備えて計画された捷一号作戦完遂の目的に集中された。
「捷一号作戦」の概略は次の通りである。
比島に揚陸を企図した敵はレイテ湾に大部隊を集中したが、これに対し我が連合艦隊は空母瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田を基幹とし、航空戦艦伊勢・日向・巡洋艦大淀以下防空駆逐艦数隻を含む機動部隊を本隊(司令長官小沢治三郎中将)としてルソン島東方海面を南下し、比島における基地航空兵力と協力して敵機動部隊に打撃を与えると共、いわゆる「囲艦隊」として敵の主力を引き付け、その間に超努級戦艦大和・武蔵および長門・金剛・榛名の3戦艦、1万トン級重巡愛宕・摩耶・高雄・鳥海および熊野・鈴谷・利根・筑摩および羽黒・妙高の10隻と、私の乗艦軽巡矢矧を旗艦とする第10戦隊、同型艦能代を旗艦とする第2水雷戦隊を第1遊撃部隊としてフィリッピン群島の間を東進し太平洋側に出て北よりレイテ湾に突入、時を同じくして戦艦扶桑、山城以下重巡最上、軽巡阿武隈を旗艦とする第1水雷戦隊を含む第2遊撃部隊はミンダナオ海よりスリガオ海峡を経て南よりレイテ湾に突入し敵を粉砕せんとする作戦であった。
ここではこの捷一号作戦を戦略的、戦術的に見てその可否を云々すべきものでもなく、またその余地もない。
私は比島のレイテ湾を中心に展開されるべきこの雄大な作戦に第1遊撃部隊の10戦隊旗艦、軽巡矢矧の航海士として、また海軍中尉として参加出来る喜びに血を湧かし、肉を躍らせた。
10月18日
0200 私は、ベッドを下りて戦闘服装に身を固めた。そしてその内ボケットに両親から送られてきた鎌倉鶴ケ岡八幡宮の御守りを丁寧に収めた。
寝室を出ると薄暗い常夜灯のついている通路には既に錨関係員が出港準備のため前甲板の方へ忙しく歩いて行くのが見られた。私は海図室に行き昨日調べておいた海図・水路誌や航海士の兵器ともいうべき信号書・艦隊運動程式艦隊戦策等を持って艦橋に上り出港準備を整え、夜間視界に眼を慣らした。
真っ暗な艦橋には通信参謀吉村少佐が子隊(駆逐隊)の状況を眼鏡で見ている。信号員は何となく緊張した様子で信号灯に就いている。諸計器の目盛りが青白く夜光塗料を光らせている外はすべて夜の闇の中に包まれている。星は密雲に遮られ空は墨のごとく暗黒である。
やがて航海長川添少佐が艦橋に上ってきた。羅針盤の指度を見てから子隊及び他の僚艦の状況を見て、出港針路を定める。続いて艦長吉村真武大佐、司令官木村進少将、先任参謀南中佐、砲術参謀朝田少佐、機関参謀入谷少佐等がきて真っ暗な艦橋は無言のうちに物々しい空気が漂う。艦橋正面の時計のみがチックタックと刻々出撃時間を刻む。前甲板では真っ暗な中で粛々として錨作業が行なわれている。
「0300になりました」福直将校が官庁に報告した。
「錨揚げ」 艦長の令により錨は海底を離れた。
「右(右舷機)前進微速!」
「トーリカージ(取舵)!」
音もなぐ艦は徐々に動き出した。子隊は旗艦に続き単縦陣となる。
リオー水道通過までは第2水雷戦隊、第4戦隊、第5戦隊、第1戦隊、第10戦隊、第7戦隊、第3戦隊、第2戦隊の順に縦陣列となった。艦相互は一切信号せず、灯火は勿論音も極力出さず全ては無言のうちに、しかも整然と隊形を保ち我が遊撃部隊は今リンガ泊地を後にボルネオのブルネー基地へ隠密裡に向った。
狭水道の通過には刻々の正確な艦位を常に明確にしていなければならない。私は真っ暗な海上に測定目標を求め正確な艦位を海図上に記入していった。
連日出動訓練ごとに艦位測定の目標となっていた私には極めて馴染み深い耶子の木茂るロバン島、ボンボン島、チェンバ島等暗夜に薄ぼんやりと黒い輪郭をみせ静かに後方に去って行く。
艦隊の作戦行動は高度の機密が保たれた。各艦は暗黒の海面に艦尾の白波を光らせ黒い艦体が一種の物々しさを感ぜしめ、密雲立ち込める潔夜の南海を無気味なほどの沈黙を守り北東の針路を取っている。
0600 艦隊はリオー水道を通過して広漠たる南支部海に出た。東経104度、赤道直下の此処は内地時間よりちょうど2時間遅く午前6時は内地の午前4時と同じくらいの暗さだ。未だ夜の幕は艦隊の全貌を覆っている。
「対潜警戒を厳にせよ。第1警戒航行序列となせ」
旗艦愛宕から始めて信号があった。垂れ込めていた密雲は何時しか薄れてその一角からは星が輝きはじめた。視界はやや良くなってくる。海上は熱帯、無風帯、独特の油を流したように平穏である。各艦は占位運動をはじめた。縦陣列の隊形から対潜警戒を考慮した警戒航行序列となる。
「艦内哨戒第2配備!」
黎明時における大洋航海は潜水艦に対して最も危険な状態である。艦内は第2配備を令せられた。
今迄、闇黒の中に島か艦かも判明しなかった我遊撃部隊の全貌は漸く朝焼けに輝く南海の水平線上にその雄姿を現わしてきた。我が遊撃部隊は3箇部隊にわかれ、先頭部隊は第1戦艦戦隊(大和・武蔵・長門}第4重巡戦隊(愛宕・摩耶・高雄・鳥海)第5重巡戦隊(妙高・羽黒)及び第2水雷戦隊が第1部隊、その後方1万米に第3戦艦戦隊(金剛・榛名)第7重巡戦隊(熊野・鈴谷・利根・筑摩)及び駆逐艦を有する第10戦隊の第2部隊が続き、さらにその後方1万米には第2戦艦戦隊(扶桑・山城)及び重巡最上以下駆逐艦5隻を含む第3部隊が殿を務めて総計40数隻の艦は南支部海を圧して水平線から水平線に亘り、一路ブルネー基地への進出の航海を続けている。
「速力21節となせ!」
再び旗艦愛宕からの信号に接した各艦はそれまで原速12節で静々と狭水道を通過し第1警戒航行序列に占位したが、艦首尾から蹴る白波を次第に大きくして第1戦闘速力の21節に増速した。
「一斉回頭之字運動始め、]法!」
潜水艦に対する警戒航法のジグザグ運動が始められた。見張員は各自の受持区域を一片の浮流物をも見逃すまいと見張りを厳にする。水中聴音器室では水測員が全神経を耳にかけたレシーバーに集中して潜水艦音の聴取に全力を注ぐ。
敵潜情報電報によれば、2、3日前にこの附近に敵潜を探知しているのだ。敵潜の出現状況は最近急激にその数を増し、我が方の損害は日に日に多くなっている。遊撃部隊は戦場到達前に彼等の餌食となることを厳重に警戒しつつ東北の進路をとり寸分の油断もない。我に航空機を有すれば艦隊の前路掃蕩は容易なるも、空母を含まない遊撃部隊の大きな弱点がそこにあった。私達はその弱点を自らの手によりあらゆる努力を払って補った。
一度、艦が航海すれば艦長・航海長・航海士は用便と食事以外に下へ降りて休むことはほとんどない。艦長は食事も艦橋で摂った。いかなる咄嗟の事件に対しても直ちに臨機応変の処置を取るためには、一瞬も油断はできなかった。しかも戦闘の勝敗はその一瞬によって殆んど決定するものである。司令官も滅多に下で休むことはなかった。
参謀は3直で交替している。一般の乗員は「2配備」には2直、「3配備」には3直交替で哨戒配備に就いている。
0830 すっかり明け渡った海上には、強烈な熱帯の太陽がギラギラと反射し出した。
「艦内哨戒第3配備!」
最も危険な時期は一応過ぎた。波一つない白日の下における対潜見張は黎明時におけるよりは容易だ。艦内は第3配備となった。
私は航海長と交替に食事のためガンルーム(第1士官次室)へ降りた。出撃前に可燃物を一切陸揚げしたガンルーム内はガランとして殺風景だ。ただ一つ誰かの慰問袋に入っていた可憐なお人形がポッンと柱にぶら下げてあるのが僅かに皆の心を慰めている。
然しガンルーム内の空気は快活で皆戦場に向う興奮に紅潮した顔を輝かせ活気に満ち満ちている。若い青年士官のみのガンルームの面々はケプガン私より2期上の大森大尉を室長とし、私が室長補佐、同期の伊藤比良雄中尉及び田中技術中尉と1期下の砲術士八田少尉、水雷士中本少尉、甲板士官松田少尉、伝測士斉藤少尉、機銃群指揮官大坪少尉、機関長附鈴木少尉、庶務主任大迫少尉と予備少尉4名の15名だ。
同期の伊藤中尉とは兵学校卒業後、練習艦隊の時からずっと一緒で苦楽を共にし、特に肝胆相照らす仲であった。彼は無口でおとなしかった。そして職務に対する熱心さは人一倍であった。
矢矧着任の時から右舷高角砲の指揮官をしている彼は、射撃演習の度に自ら研究した対空射撃の精度向上策を実施し、非常な成果をあげていた。敵機グラマンに対する射表を彼独特の方式で作っているところであった。
少尉連中は作戦に対する各自の抱負に話を弾ませている。私は食事を済ますとすぐまた艦橋に上った。海上には既に島影は見出せなかった。四周は際限なく続く水平線で囲まれていた。通信室には盛んに作戦緊急通信が入電し、レイテ戦闘状況は刻々と逼迫を告げてくる。
超弩級戦艦大和、武蔵を始め40数隻よりなるこの遊撃部隊の全砲門が火を吐いてレイテに突入する様を想像しつつ私は胸を躍らせて電報を読んだ。比島における我が航空部隊は連日レイテに殺到している。しかし敵の攻勢は益々激烈の度を高め彼等の強固な作戦意図が察せられた。
10月19日
防空指揮所で黎明天測をやり航海長室で計算をして「0600」の艦位を出して艦橋へ上った。浮流物一つない果てしなき海は紺碧に映え数10尋の深さをたたえている。艦首が波を切って進む海面には可憐な飛魚が左右へ空中飛翔をやって逃げ小さな波紋をつくって再び海中へ入る。
南の太陽は強烈な熱をもって鉄板を焼き甲板を焦がさんばかりに照りつける。遊撃部隊はその中をブルネー基地へ急いでいる。明日の午後はブルネーだ。
艦内は数日後の戦闘に備え乗員は各自の愛器の最後の手入れに余念がない。ちょうど入学試験を目前に控え最後の調べをする受験生の興奮に似通った気分だが、それより遥かに深刻であり、戦の勝敗と一艦の運命と自己の生命とを各自の兵器に委ねており皆真剣そのものだ。
艦橋下部にある電波探信儀室では測的長の木金大尉(71期)が電測士の斉藤少尉と昨日から徹夜して電波探信儀の調整をしている。近代科学の粋を集めた軍艦と軍艦との海戦はすべてが科学戦である。その科学の最先端をゆく電波探信儀は敵に一日の長あり、この差を追い抜かんとして艦隊を挙げて日夜訓練と研究を重ねてきたのである。
その結果は目覚しい進歩があり上は長官より下一兵にいたるまで電波探信儀の能力に多大の関心を持っていた。しかしながら内地より送られてくる真空管の半分は途中で駄目になり残り半分もほとんど規格通りになっていないので、一つの真空管を換装するごとに調整には非常な努力を要した。
また兵器自体改善の余地は多くあり、その改善策を中央に度々具申したが、事の運びは極めて緩漫であり明日の戦闘には間に合わない状態であった。自己の兵器に全生命を委ねる用兵者にとり、また明日の生命を予測できない戦場にある者にとり与えられた兵器の能力最大発揮はただ訓練による外なったのである。
木金大尉始め電探関係員は赤道直下の炎熱の下で倉庫を改造した極めて狭い、(電探は、矢矧竣工当時は対空用のみで、対水上用のものはなく、7月に始めて取り付けた為、部屋は全く不完全なものであった)然も電探を作動させるとその発熱により温度はぐんぐん上昇し、40度に達する程の場所で朝早くより夜遅くまで毎日閉じ籠もって訓練をしてきた。そしてその精度の向上は他艦を圧倒していたが、丁度出撃の前日不幸にも故障を起したのである。
直ちに修理調整にかかったが中々思わしくいかず、しかも艦は今刻々戦場に近づいているのだ。木金大尉は食事も碌に取らず暑苦しい電探室で懸命の努力をしているのである。
10月20日
「先頭艦嚮導せよ」
旗艦「愛宕」からの信号を受け、私の乗艦「矢矧」は艦隊の最先頭に占位し始めて入るブルネー湾入港の嚮導という責任を負った。
航海士たる私は丁度スコールのため天測が出来ず、今朝の艦位が測定されなかったので、昨夜の天測艦位から現在位置を風、潮流、海流等の修正をして推定しブルネー港に至る針路を決定し航海長に報告した。そしてやがて現われるべきボルネオの山を求めて大倍力双眼鏡を覗いた。
油を流したような海面の前方は、スコールに覆われて、ボルネオの連山を包み隠している。
昨夜11時やっと電探の調整を終った木金大尉は、無精髭をポウボウに生やしたまま艦長に故障箇所の説明をしていたが、電探員にボルネオの山を電探測定するように命じた。
電探員は明確に山の反射波を報告して来た。私は早速海図に山からの方位距離を記入して見たが、私の測定艦位とほとんど一致していた。
艦尾には、単縦陣列に1万屯級重巡に続き「大和」、「武蔵」以下の戦艦と駆逐艦とが従って来る。この全艦隊の取っている針路は私が昨夜の天測艦位から出した針路なのだ。
私は自己の責任が非常に大きく双肩に掛るのを痛感し、同時にもし私の艦位推定が違っていたら私だけでなく艦長の不名誉となると共に、艦隊の作戦行動に支障を来す事になるのであると思うと、甚だ不安な気持ちであった。 そして早くスコールが晴れ正確な陸測艦位が得られるように念じた。
私はじっと大倍力双眼鏡で前方を見つめていたが、やがて予期していた方位に微かに山の頂きを見出すことが出来た。それから間もなくスコールは晴れボルネオの山はくっきりとその雄姿を眼前に展開した。私は直ぐコンパスを狙い実測艦位を出したが、私の推定艦位はほとんど間違なくぴったりと合致した。
港口は珊瑚礁で白く泡立って見え入口は極めて狭い、しかも敵潜水艦に対する防御機雷があり、港口通過時には正確な艦位と針路保持とを要した。操舵員は最も老錬な中川上曹が舵輪を取った。私は刻々の艦位を測定記入し、修正進路を航海長に報告しつつ無事港口を通過し、錨地に向った。
後続艦も続々と通過し、各々指定錨地に向った。港内には油槽船が我々の入港を待ちかまえ、直ちに横付けし燃料補給が行なわれた。
私は海図台の上を整理し、機密書額を持てガンルームに降りた。機密書類には出撃前に全部鉛の錘を付け艦が沈むようなことがあった時に、機密書類が海上に浮いたり流れたりしないようにされていた。それ等の書類を機密書類箱に収めレイテ方面の海図を整理して艦橋へ備えた。
双眼鏡で岸を見るとリンガにあった家と同じような形の家が、海面上に木材(椰子の木)を組み椰子の葉で葺いた屋根をつけて建っている。近くの海岸に土人が裸で歩いているのが見られる。無表情の彼等は一体何を考えているのか見当がつかない。北側のラブアン島には陸軍警備隊と海軍の飛行場があり零式戦闘機が10機近く並んでいる。
湾内には40数隻のわが艦隊が整然と錨を入れている。
油槽船からの燃料補給は明日の午前中まで掛る予定だが、今朝入港すべき油槽船「光栄丸」は未だ入港していない。タラカンから来る途中敵潜水艦の襲撃を受け大きな被害はなかったが、その為に予定通り航海出来ないのだ。燃料は作戦行動に重大な問題である。
遊撃部隊長官は第2水雷戦隊の駆逐艦2隻を派遣し「光栄九」の護衛を命じた。駆逐艦「沖波」「清霜」はリンガ泊地からの長い航海の疲れを休める暇もなく、再び錨を揚げ光栄丸を迎えに出港した。
陽は西の水平線に沈み、夜の闇はブルネー湾内に錨を卸したわが遊撃部隊を包み深い沈黙に入った。私は2日の航海の疲れを休め明日からの戦闘に備えるためガンルームの椅子に体を横たえた。
10月21日
昨夜の熟睡ですっかり疲れを回復した私は艦橋へ上って作戦電報を読んだ。レイテの戦況は益々激烈の度を加え、わが空軍の索敵攻撃は連続行なわれ、敵船団が続々比島へ押寄せて来るのが手に取るように判った。しかし、わが方の航空機消耗は意外に大きく、実動機数は各飛行場共次第に数が減って行く報告に、私は何となく息つまる緊張を感じた。
この比島方面の海軍航空隊には各隊共、最も若い隊長として、私の級友が奮闘しているのである。遊撃部隊の各艦にも1人乃至3人は乗って戦闘配置に就いている。私は各航空隊、各艦から発せられる電報に級友の奮戦振りを想像し、私も同期の名誉のためにも職務完遂に努力しようと誓った。
午前8時、昨日から待ち焦れた「光栄丸」が入港して来た。「沖波」・「清霜」は前後して「光栄丸」護送の任務を果し錨地についた。
それから間もなく旗艦愛宕から、
「指揮官参集セヨ!」
の信号が発せられた。今次作戦の最後の打合せである。やがて短艇が卸され司令官、参謀および艦長は「愛宕」へ行った。
旗艦「愛宕」艦上では栗田遊撃部隊長官以下各戦隊司令官、各艦長、および参謀によりレイテ突入作戦の細部に亘る最後の打合せが行なわれた。
夕刻艦内の准士官以上は士官室に集合し、艦長から作戦に関する注意と訓示とを受けた。
まず作戦全般に亘る説明の後、レイテ湾内の敵兵力につき戦艦数隻、重巡数隻、輸送船群ならびに小艦艇多数あり、なお空母が可成り出入している旨索敵報告あり、我々の攻撃目標は輸送船団ならびに空母を第一とし、次に戦艦以下大型に対し向けるよう決められ、またレイテ湾突入は第10戦隊を先頭とし、従って「矢矧」は第1遊撃部隊の真先を行きレイテに一番乗をするよう決められたと艦長は力強い言葉でいった。
そして「我々ハ決シテ生還ハ期サナイ。諸子ハ各々ノ戦闘配置ニテ今迄ノ訓練ノ全力ヲ発揮シ、悔ヲ残サヌ様戦ツテ最後ノ御奉公ヲシテ貰イ度イ」と述べ天皇陛下万歳を三唱し最後の酒杯を交した。
その時先任参謀南中佐から始めて今次作戦には本隊の機動部隊より「神風特別攻撃隊」が出陣することを聞き私達は士気いやが上にも昂り心はレイテの戦場に走った。
私は級友の伊藤中尉と杯を交換し出陣を祝し合った。私達2人はお互いにリンガ泊地出撃前から私物品を整理し、他人に見られたくないものは一まとめにしてどちらか後に生残った者がそれを海中に投棄処分し、他の遺品を整理するよう約束していた。
「貴様が残ったらよろしく頼むぜ」
伊藤中尉は朗かに私にいった。
「俺こそ頼むぜ、俺の荷物が少ないから例の件だけ処分してくれれば良いよ」
と私は彼にいって互いに何の懸念なく出陣出来る事を嬉しく思った。
兵員にも出撃の酒が配給され艦内は賑やかに明日の出陣を祝い、互いに最後の別れの酒杯を交し士気旺盛である。
士官室を出てガソルームに帰って来ると、私の部下である信号兵(航海幹部付)の橋本兵曹と野口兵長とが兵員用の湯呑に酒を入れて持って、 .
「航海士大いにやります」
「航海士の健斗を祝して、これを持って来ました」
といって冷酒を差出した。
「有難う。今迄随分お前連を叱ったりして鍛えて来たけれど、これも皆明日の戦闘のためだ。頑張ってくれよ」
と私はいって乾杯した。
「ハイ、頑張ります」2人は元気よく答えて帰った。
「可愛い兵隊だなあ」
と側にいた伊藤中尉が、誰にともなくいった。
2人共全く純真な若い兵隊で実に良く働いた。かかる良兵を部下に持つ私は自己の職責に全力を発揮し得た。そして常に部下に心の中で感謝していた。
やがて各分隊共先任下士官が、ガンルームへ分隊士連中を自分の分隊の居住区に別杯を交わすべく呼びに来た。私も航海科の居住区に行き部下兵員と共に別杯を交わした。
私の部下は子供を3人持っている36才の井上上曹始め今年始めに入団したばかりの17才の川上上水まで総員52名、今生の別れの杯は互いに互いの唇へ廻った。
或る者は故国に残した妻子のこと、愛する人のこと、母のこと、父のことへ、淡い惜別の想いを馳せ、或る者は想像もつかぬ戦闘の興奮に気を張りつめ、或る者は只々飲み歌い愉快な気分に気を紛らわしている。私は兵隊が持って来る酒杯を一人一人、一口ずつ受け返し恐らく生きて再びこの基地へ帰る者は殆んどいないであろう事を当然の運命のように見つめていた。
私は知らぬ間に可成りの量の酒を飲んでいた。兵達は各々色々の思いを胸に、暑い艦内、リノリユーム甲板にじかに横になって休んだ。ハンモックは総て防弾用マットに使われていたのである。私は妙に頭がさえて少しも眠くならず、部下の寝顔をじっと眺めていた。皆何とあどけなく愛らしい髭面なのだろうと私は一寸意外に思った。
10月22日
リンガ泊地から、行動を共にして来た第2戦艦戦隊「扶桑」「山城」および重巡「最上」駆逐艦「朝雲」「山雲」「満潮」「時雨」はマニラを発進して来る第5艦隊(第21戦隊、第1水雷戦隊)と合同して、第2遊撃部隊となり、ミンダナオ海を通りスリガオ水道より南からレイテ湾に突入すべく、我々第1遊撃部隊から分離し、我々の出撃から7時間半後、1530に出撃の予定である。
「0800」われわれ第1遊撃部隊出撃の時は来た。世界最大超弩級戦艦.「大和」「武蔵」を含む戦艦5、重巡10、および水雷戦隊2隊よりなる第1遊撃部隊は、25日未明レイテ湾突入を期して今ブルネー基地を出撃せんとして一斉に錨を揚げた。手明きは皆甲板に出て、未だ停泊中の第2遊撃部隊の近くを両舷前進微速にまま静かに通過した。出撃する者も見送る者も明後日未明にレイテ湾で再会を期し、甲板上で帽を振り無言のうちに互いの武運を祈った。
その雄姿は威風堂々若人の熱血を沸かすに充分である。されど惜しむらくは近代立体科学戦で航空兵力が絶対不可欠なる秋(とき)に、わが遊撃部隊単独としては、1機の攻撃機をも有していないのだ。私達は「神風特攻隊」を出さなければならない事態にある現戦局を痛感した。
今日は10月22日、進次兄(67期)の命日だ。進次兄の望みを私が代って今果して行くような責任と喜びとを感じ、私は「矢矧」の艦橋から遠ざかって行くブルネー基地を眺めつつ重大責務を完遂せんことを誓った。
航路は新南群島を通るか、パラワン島西岸を通るか、或いはバラバック水道を通りスルー海に入るか3つの方法があったが、25日未明レイテ突入のため、第2航路のパラワン島西岸航路が選ばれた。この航路は敵潜水艦の待伏せする公算は最も大きかった。然し第2遊撃部隊と同時にレイテ湾に突入するにはどうしてもこの航路を通る必要があった。
連合艦隊長官より第1遊撃部隊長官宛「敵潜水艦ニ対シ警戒ヲ厳ニサレ度」の電報が来た。敵潜水艦の無電傍受による行動判定によれば可成りの敵潜がパラワン島西岸に散開線を敷いている如く推定された。
ブルネー港を出ると間もなく遊撃部隊は2隊となり「愛宕」を旗艦とし「大和」「武蔵」を主体とする第1部隊と、その後方1万米に「金剛」「榛名」を主体とする第2部隊とは対潜警戒航行序列となりジグザグ運動をとった。
艦内は対潜哨戒第2配備となり、見張水測兵に厳重な対潜警戒を実施させた。又これからの行動区域は既に敵哨戒機の索敵線圏内に入っており、対空警戒も十分にしなければならない。
出港してから4時間程して、私は艦橋の防空指揮所に上った。その処は対空戦闘の時の対空射撃指揮所であり、また戦闘航海における見張指揮所でもある。その時丁度伊藤中尉が見張指揮官の当直を終り、次直の中本少尉(73期)に申継を終った処であった。
「おい、いよいよだな」
私は いよいよ の中に深い決意を秘めて伊藤中尉に話し掛けた。
「うむ、俺の高角砲は腕を撫してむずむずしているよ」
彼は、右舷一番高角砲(60口径10糎2連装)の指揮官だ。
私は「今度の戦闘は何といっても味方に航空兵力がないから、レイテ到達までにきっと猛烈な空襲に会うぞ、貴様の腕をいくらでも発揮できる機会に恵まれるだろう」といった。彼は腕組みして、艦隊の進撃する遥か水平級を見つめながら黙って頷いた。
しかし、まだ20才を僅か越したばかりの青年であった2人は、祖国の運命を決するこの大海戦に参加しているという事実に、「日本男子の本懐だ」という言葉で表現された生き甲斐を感じていた。
この作戦が全く無謀であり、成算は殆んど望めないものであることは、下級士官である2人も十分承知していた。けれども今眼前に波涛を蹴って堂々進撃している大艦隊を見ていると、それは単なる杞憂に過ぎないとしか思えない錯覚に捕らわれてしまった。
我に戦艦「武蔵」あり「大和」ありという気持ちは悲惨な敗退よりも、敵撃滅という勇壮さに結びついていた。
10月23日
「0530」黎明訓諌のため総員戦闘配置につき、砲員は砲の操作を、銃員は機銃の射撃操法を、水雷科員は魚雷発射操作法を、応急員は応急訓練を始めた。敵を見るまで訓練は続けられるのだ。
見張員、水中聴音員は、既に今が戦闘である。特に敵潜水艦の潜伏する海面を通りつつある今、次第に明け放れて行く海面に海中に、血眼の見張と受聴器に全精神を集中する真剣な聴音とが神経を極度に鋭くして行なわれる。
私は黎明天測をやるため、航海長と航海部付の橋本兵曹と野口兵長とともに防空指揮所に上り、六分儀を手にして星を探していた。
その時、「魚雷音」と聴音員が、水測室から伝声管で艦橋に報告したのとほとんど同時に、「矢矧」の左前方に占位していた遊撃部隊長官の坐乗する旗艦「愛宕」の右舷中部に火柱が「サッ」と揚がり続いて水柱が「グウーツ」と揚がった。敵潜水艦の襲撃だ。直衛の駆逐艦は直ちに爆雷攻撃に向った。
「配置ニ就ケ、戦闘爆雷戦用意!」
艦内は直ちに戦闘即応の態勢となる。
続いて第2発の火柱が「愛宕」後部から上り、旗艦は見る見る右舷に傾斜し煙突から黒煙を吐き出した。駆逐艦が急航して爆雷を投射し始めた。見張員は自分の見張区域に全精神を集中している。私は天測を終り直ぐ艦橋へ降りた。
間もなく第2番艦「摩耶」の艦橋下部から火柱が揚がり、火薬庫が誘爆を起した。「摩耶」はそのままぐんぐん海中に沈没し、艦橋上部を僅に出して暫く浮いていたが、やがて跡形もなく沈み去った。
「愛宕」は舵機をやられたらしく、同一の場所を大きく旋回している。駆逐艦は敵潜の制圧をしているが「摩耶」の乗員が泳いでいるため、爆雷投下は出来なくなった。1隻の駆逐艦は「摩耶」乗員の救助に当っている。
「摩耶」がやられてから艦隊は一層厳重な警戒を行ない航行したが、この厳重な警戒制圧の下を潜って敵ながら勇敢にも第3番艦「高雄」の舷側800米位から更に魚雷放ち「高雄」に2発を命中せしめた。「高雄」は左舷に傾斜した。
ほとんど15分内外の時間の出来事であったが、第4戦隊は4分の3の兵力を失った。「愛宕」は次第に速力が落ち浸水が激しく、やがてその巨体は数千尋(ひろ)の海底へ没した。遊撃部隊長官以下司令部は無事駆逐艦に移乗し乗員も大部分救助された。
「高雄」は艦隊から離れ、結果は見届けられなかったが、後に電報によりブルネー基地に帰投した旨報せがあった。乗員救助駆逐艦は盛に敵潜攻撃を行なったが、戦果不明のまま目的地戦場に向かわねはならなかった。
それから数日の後、わが駆逐艦の徹底的攻撃により、その敵潜は逃げ場を失い、遂に新南群島の一島の岩礁に乗揚げ仇を取られたのである。(敵潜水艦内の航海日誌により遊撃部隊攻撃の潜水艦なる事判明)
斯くて旗艦以下重巡3隻を忽ちの内に失った艦隊は、更に幾つかの敵潜水艦の散開線を突破せねばならなかった。しかも敵潜が盛んに作戦緊急信を敵長官宛打電するのが傍受できた。敵はわが遊撃隊の行動を悉く知ったのだ。
明日は更に狭い比島の列島間を昼間強行突破しなければならない。作戦の前途は実に大きな障害が幾つも横たわっていることを痛感した。長官が大和へ移乗する迄、指揮は第1戦隊司令官が代って遊撃部隊を統率した。
何時何処から魚雷が走って来るかも知れない海面を、見張は極度に神経を鋭くして血眼である。1時間じっと眼鏡を覗くことは、これだけの緊張を以ってする時は10時間の労働より体力的に疲労するものである。正に喰うか喰われるかの沈黙の内における闘争である。僚艦の敢え無き最後は全艦に貴重な戦訓を与えた。
黎明薄暮訓練の時は総員配置に就いて、総員が見張を行うことにした。この近海の海面状態は、水中聴音には極めて不利な条件を備えているため、聴音の精度はズット落ちているものと思われた。
「1800」ミンドロ海峡西方沖海上において艦隊は漂泊、長官は駆逐艦から戦艦「大和」へ移乗、「愛宕」「摩耶」の生存者は夫々「大和」「武蔵」に分乗した。これで艦隊は編成を立直し、いよいよ比島列島線突破の第一歩を踏み出し、ミンドロ海峡に向け発進した。
対潜水艦、対飛行機に対する警戒を厳にしつつ東進した。 戦場に予定時刻に到達するため、手間取った時間を短縮すべく艦隊は第1戦闘速力に増速した。陽は没し夜の幕が降り始める中を艦隊は黙々と急航する。
10月24日
「0200」艦隊の前方に黒く大きな島影が闇夜の中に次第にぼんやりとした輪廓を現わして来た。ミンドロ島だ。巍然として仰ぐが如く聳えて見えるのはハルコン山である。海岸からいきなり屏風の如く空へ聳えて黒々と見えるのは実に偉観だ。もう完全に列島線内に入った。
今から今日1日を駆けて、此の島々の間を縫う様にして突破するのだ。大艦隊が敵航空機の襲撃の際の回避運動を極度に制限され、然もその行動は手に取る如く見られる様な狭い水道を昼間通るというのは、制空権が味方に在る場合にこそ可能であるが、殆ど敵に制空権を取られている現在、それは無謀に近い事は万人の認める処であった。
併し乍ら著しく航空兵力を損耗している現在、また比島こそ最後の生命線とし、之が防備には全艦隊を出動させる作戦を敢行する秋(とき)に当り、やむを得ない作戦ではあった。旺盛なる戦闘力に依り、巨艦巨砲の威力により、敵機の襲撃を払いのけ遮二無二に目的地レイテへ突入するのみであった。
「0300」 「航海士少し休んだらどうだ。昼間は激戦だぞ」航海長が優しく私に言ってくれた。
18日リンガ泊地出撃後ブルネー基地で、一晩ガンルームで横になって休んだ外は、夜もずっと艦橋で立ち通し、時々腰掛けて仮眠する程度であった。 私はどんなに疲れても此の作戦こそ日本興亡を決するものであることを熟知していた為、とても下に降り休む気は起らなかった。私は自分の全精力を此の作戦に出し尽くしてしまう決意で頑張った。
航海長も今迄殆ど休んでは居ない。然も神経を使う事は私よりずっと多いのである。艦長は更にそれ以上体力的にも精神的にも疲れている筈であるが、少しもその様な顔色を見せずに頑張っている。
私は艦橋左舷に腰を降して暫く仮眠した。信号員から「変針10分前」を知らされ眼を覚ました。時計を見たら午前4時50分であった。内地時間より約1時間遅い此の附近は未だ真夜中である。
「今朝0730、1号機索敵発艦の予定」
司令部からの命令に依り「矢矧」搭載の零式水上偵察機は今、試運転を行っている。2号機は「0800」1号機に続いて発艦の予定である。
飛行甲板のカタパルト(射出機)の上で黒い人影がエンジンの排気管から出る青白い排気の焔の近くに見られる。試運転の爆音が対岸の島々に反響し、今日の戦闘の前奏曲の如く腹の底に響いて来る。海上は夜光虫が異様に輝き、艦の航跡が闇黒の海面にきらきらと輝いている。内地に見られる夜光虫よりずっと輝度が大きい感じだ。空は満天の星である。
やがて比島の島々に黎明が訪れ、海上は美しく朝日に輝き、緑の耶子の木茂る島々が新鮮な朝の空気の中にくっきりと浮び出て来た。それは丁度瀬戸内海の景色とそっくり似ている。
瀬戸内海の朝霧に包まれた優美に対し、水の滴る様な緑濃い中に真っ赤な煉瓦の屋根が見える。如何にも南国的な情熱的な景色である。私達の眼前に展開される之等の景色は全く戦争と掛け離れた平和な楽園の様な甘美な美しさである。純白に色どられた遊覧船に乗り、此の様な美しい景色を心行くばかり眺めたらと夢の様な事を想い浮べて見た。
併し乍ら此の島々こそ我艦隊にとり、極めて危険な代物である。その島影には敵の手先が侵入しているのだ。そして我々の行動を何等かの方法により敵本部に密告するのである。それでも斯様な美しい景色を見られる町も今日限りと思うと叉実に懐かしい感がする。
「0700」索敵哨戒に出発する1号機搭乗員が艦橋へ上って来た。艦長、飛行長から索敵命令と細々とした注意がなされた。帰投点はミンドロ島、サンホセ飛行場である。佐々木飛行少尉は索敵命令を受け終ると、私の所に来て航空図上に現在の艦位を記入した。それから時計の秒時を整合し、「航海士、之と一緒に行って来ますよ」と胸を叩いて言った。その胸の中は何時も離さずに持っている彼の愛妻の写真が入っている事を私達は良く知っていた。
彼は予科練出身で年は若いが私達兵学校出の青年士官とは良く気が合い、特務士官室よりガンルームに居る方が多い位であった。そして新婚早々の彼の愛妻の写真を見せては私達を笑わせ煙に巻いていたが、実に快活で然も勇敢な男であった。
佐々木飛行少尉と川上飛行兵曹(偵察員)とが艦橋を降りて行くのを見送り私は心から彼等の武運を祈った。
「0730」1号機発艦の為艦は艦隊の列外にでて風に立った。航海長は風速計を見乍ら飛行機の射出発艦に適した風向風速になる様に艦を操艦した。
「整備!」
飛行甲板から射出準備の整備を報告して来る。艦長は風速計を見て風向風速の適当なるのを確かめてから、「発進!」と鋭い号令を下した。ドカンという爆音と同時に1号機は射出機から打だされた。佐々木少尉の操縦する1号機は一廻り艦隊の上空を旋回してから一路東方太平洋上の索敵線へ向いて飛び去った。
「0800」2号機発進後両機共本艦との通信連絡は良好であった。
超巨砲の対空三式弾
「0900」ミンドロ最南端に至り変針、タブラス島との間の狭い水道を通過する航路となる。その水道で警戒航行序列を作りジグザグ運動をすると端末艦は岸から200米位の所迄近づく様になる。此の海面において敵潜水艦の襲撃を受ければ、必ず損害を蒙るであろう。敵潜水艦が待伏せするには絶好の海面である。私達は懸命に見張をした。
昨日の第4戦隊(愛宕、摩耶、高雄、鳥海)の打撃は可成強く乗員の肝に銘ぜられている。一方上空は既に敵の制空権内である。対空用電波探信儀は盛んに旋回して敵機を探知すべく電波を放っている。機銃員、対空見張員は専ら上空見張である。
「170度方向上空、敵大型機見ユ!」
「大和」檣上に発見信号が揚がった。時刻は午前10時10分。
「配置ニ就ケ」
艦内拡声器は叫んだ。乗員は脱兎の如く駈足をもって各々の戦闘配置に就いた。
「主砲、高角砲配置艮シ!」
「水雷科配置ヨシ!」
「内務科配置ヨシ!」
「電探測的部配置ヨシ!」等々
忽ちにして、艦内各部はその整備を報告して戦闘態勢は整った。
私は直ちに敵発見時刻、彼我態勢等を戦闘記録用紙に記入した。航海士の任務は刻々の正確な艦位を測定、海図上に記入、艦長、航海長を直接補佐し、戦闘中は彼我戦闘の経過の記録と合戦図の作製、信号授受の指揮等、艦橋諸要務を一切誤なくテキパキと処理する事である。その為にはどんな激戦中でも常に冷静な観測と沈着な判断とを要する。
私は双眼鏡で大和の発見した敵大型機を見た。ずっと南方上空の雲間から出たり入ったりしてその機体を太陽にキラリキラリと輝かせ悠々と飛んでいる。
「何だ、たった1機か」
私は些か張合がない様な気がした。然しそれは私の早計であった。この1機が如何なる意義を持っていたかは、それから約1時間の後、私は痛烈に体験させられた。
其の大型機は暫く雲間に見え隠れして、我艦隊の動向を観測した後南方上空へ姿を消した。
「其の場に休め!」
艦内は戦闘配置に就いたまま休めの姿勢となる。対潜水艦見張と対飛行機見張とに集中された。
「160度方向敵小型機40機発見!」
「速力24節トナセ!」
再び大和から艦隊宛信号が発せられた。
「いよいよ来たぞ」
皆一様に体の引き締まる様な緊張を覚えた。双眼鏡で見ると5機から6機の編隊で「グラマンF6F」 「グラマンTBF」 「カーチスSB2C」等の戦闘機、爆撃機、雷撃機が40機、雲間を見え隠れして右に旋回しつつ次第に艦隊上空に近づいて来る。
敵は肉眼ではっきりと見える処迄近づいて来た。轟然たる巨声がシブアン海の島々を震わした。「大和」「武蔵」の超巨砲から対空三式弾が打出されたのだ。「バツ」と三式弾が敵機群の前方に炸裂した。然し敵は依然と飛翔を続けている。
第2斉射が発砲された。直径800米、長さ1,200米の傘型に有効帯を有する此の三式弾の炸裂により最前端の6機編隊の中5機は「グラグラ」と煽りを喰い内2機は「ボツ」と火を吹き、2機は白煙を吐きつつ錐もみをして墜落して行った。之に動揺した敵は急に編隊を解き分散して艦隊の上空に飛来して来た。
敵機は全部「大和」、「武蔵」、「長門」を基幹とする第1部隊に襲い掛かった。第1部隊から1万米後方に占位する「金剛」「榛名」を基幹とする我々第2部隊は今次作戦の最初の対空戦闘を傍観する立場となった。
第1部隊の各艦は猛烈な対空砲火を打上げ始めた。敵機は雲間から「サッ」と急降下して爆弾を投下し、素早く砲列の間を逃れて舞上る。敵機の襲撃の主力は戦艦に向けられている。
小さな黒い敵機が「サッ」と降下すると次の瞬間真っ白な水柱が回避運動をする艦を覆うばかりに盛り上る。「命中した」と思うとその水柱の中からヌツと巨体を表わし何等変化なくその雄姿を示し、何とも言えない安心と頼もしさを感ぜしめる。
耳をつんざく様な砲声と爆音とが入り乱れ、シブアン海の空は炸裂する弾幕に色どられ、海上には高速力で右に左に転舵回避しつつ、敵飛行機と交戦する光景は実に壮観である。
私は火を吐いて墜落する敵機を3機確認した。その時重巡「妙高」の右上空からグーと緩降下して来た急降下雷撃機「カーチスSB2C」が腹に抱えていた魚雷を投下した。猛烈な射撃が向けられた。併し間もなく「妙高」の右舷中部を抉る様に水柱が上った。
確実に魚雷が命中したのだ。 「妙高」の前方で戦艦「長門」が火災を起した。我々第2部隊の砲員は引金に手を当て1機でも向って来たら、忽ち射落さんと一触即発の構えで第1部隊の奮戦を見ている。この第1回の戦闘は約30分で、敵は全弾を投下し、東方上空に去った。
「長門」は間もなく火災鎮まり艦隊隊形を整えた。「妙高」は右に傾き速力低下し列外に出た。他の各艦には、殆ど被害はなかった様である。
艦隊はタブラス島北方に来り比較的広い海面に出た。そして今迄の対潜警戒航行序列から対空警戒航行序列の輪形陣となった。乗員は皆戦闘配置に就いたまま、半数ずつ昼食をとる事となった。私は信号兵が持って来てくれた握り飯を頬張り乍ら戦闘記事の記録用紙を整理した。その時、
「飛行機ノ反射波、50粁、次第ニ近ヅグ」
電波探倍儀室から報告が来た。敵機だ。
「配置ニ就ヶ!」
直ちに号令は下され乗員は食事を止めて直ぐ戦闘態勢となった。見張員は電波探信機の補捉した方向に注目した。
「220度方向、敵小型30機発見!」
「大和」が緊急発見信号を掲げた。艦隊中で最も高い檣と、優秀な眼鏡を多数に有する「大和」は流石に敵発見も早い。
私は直ぐ発見時刻と方位距離を記入し、今の艦位を測定して航跡自画器を10万分の1に用意させた。航跡自画器は艦橋の直ぐ下の作戦室に在り、艦橋の海図台の側から伝声管で連絡している。自画器は艦の航跡をそのまま願尺して図面上に記してくれ、之は合戦図作製に極めて大切なものである。
此の機械を完全に運転し役立たせるためには之を十分に使いこなす兵員を要した。此の係が斉藤兵曹である。彼はリンガ泊地に於ける出動訓練毎に私から散々叱られつつも、何とかして立派に自画器を作動させようと、真剣に努力して来た。
戦闘中の重要な記事を航跡の上にその都度記入する事は、中々兵の頭では困難な事である。併し訓練と彼の熱心とはこの難事を立派にやり遂げる迄になり、今では私が言わんとする所を直ぐに察して、どんどんやってのけた。私は彼の御蔭で最も面倒な合戦図も手落ちなく画く事が出来る。彼は実に朗らかで私は彼位叱り易く又叱り甲斐のある部下を持った事はない。
「自画器発動用意ヨロシイー」
作戦室から元気に報告してくる斉藤兵曹の声を聞いてから、私は鉄兜の顎紐をグッと締め耳に綿の栓をした。
敵機は先きと殆ど同数の編隊で遠巻きに我艦隊の射距離外を右に旋回し始めた。息詰まる緊張が漲る。敵の行動は明かに我々第2部隊に対する襲撃態勢を取っている。
艦隊は25節に増速、がっちりと輪型陣を組んで敵を待ち構える。轟然と「大和」以下戦艦群の巨砲が吼える。続いて重巡の20糎砲が其の砲身をグッと仰角を掛け一斉に火蓋を切った。敵機は3乃至4機の編隊となって分散し、ぐんぐんと頭上に襲い掛って来た。高角砲、機銃は狂える如く火を吹き我に挑む敵機に向けられた。一切は怒涛の如き砲声に震え、艦内の命令号令は総て視覚信号で行われている。
輪型陣の中心艦「大和」の雷爆撃回避に随伴して全艦隊は右へ左へと転舵しつつ自分を襲って来る敵機と交戦し回避運動を行う。
「右艦首急降下!」
防空指揮所から見張員が急報して来た。
「面舵(オモカジ)一杯!」
航海長は直ちに爆撃回避の転舵号令を下した。艦は大きく左へ傾斜しぐんぐん旋回し始める。前部の機銃群は猛火を吹いて敵機に挑む。
「グアーン」と音がして艦がグラグラと動揺した。水柱が艦橋にザーツと掛かって来る。私達艦橋に居る者は皆油水の黒茶色の飛沫を受けて墨を引掛けられた様に汚れた。至近弾である。艦橋の真横、左側約10米の所に落ちたのだ。
左舷4番機銃員は爆弾被片で2名倒れた。舷側には無数の大小破孔が出来た。艦は直ぐ定位置に就いた。間もなく、
「雷撃機左90度!」
再び見張員が急報した。左舷を見ると既に敵は本艦を目指して襲撃態勢に入っていた。
「危ない」私は回避の時機が少し遅れた事を直感した。
「取舵一杯!前進一杯!」
航海長は羅針盤をぐっと握り号令した。
高角砲、機銃は猛烈に打出した。敵はその砲火にたじろぎ、一寸左へ機首を向け魚雷を落した。間一髪!魚雷は、本艦すれすれに白い航跡を残して過ぎ去った。艦長以下艦橋に居た者は思わずホツとした。
若し敵機が最初の襲撃態勢のまま魚雷を落したら、本艦のドテッ腹に大きな穴が開き、艦の運命はどうなっていたか解らない所であった。全く間一髪で我々の運命は左右される。
かくて第2戦闘は40分にして一応敵機は退避した。その間に我艦隊はシブアン海の比較的広い海面に入った。そこは丁度瀬戸内海の伊予灘位の広さである。そして我々は間もなく来るであろう第3回目の襲撃に備え見張を厳にしたその時であった。
下部見張所の伝声管から
「潜望鏡!左310度1,000米!」
とかん高い声で報告して来た。空にばかり気を取られていた私達は、急に足下に刃を突き付けられた様な緊張を覚えその方向に視線を走らすと、直立した棒切れの様なものが水面上5寸位顔を突き出しているのが見えた。
「面舵一杯!」
直ちに回避転舵の号令が下され、旗?信号で敵潜発見を全艦に知らせると同時に、摩下駆遂艦に制圧を命じた。間もなく潜望鏡らしきものは水面下に没し、その後に駆遂艦の爆雷攻撃がなされた。
そうしている内にシブアン海南方の島の上の雲間から敵艦載機の襲撃第3波が現われて来た。足下から何時潜水艦から魚雷を見舞われるか判らない所へ、更に頭上から数10機の戦爆連合の来襲があり、上下から挟み打たれる艦隊の苦戦は益々加わって来た。
敵機の襲撃がなされる度に我艦隊の隊形は次第に乱れて来た。隊形を整うべく定位置に就こうとすると、雷撃、爆撃機の急襲に遭い、それに対砲空火を浴びせつつ回避する為、各艦共次第に中心艦から離れ勝ちであった。
前回の戦闘で2名戦死、5名の負傷者を出し,それ等が治療室に運ばれる間もなく第3回目の攻撃は頭上に迫っていた。嵐の前の静けさ、息詰まる沈黙。敵機は我艦隊の射程外で、獲物を求めつつ正に喰いつかんと見構えた。
我々は「何糞!来たら叩き落とすぞ」と頭上八方に気を配り、敵の動静に全神経を作用して砲口を向ける。
胸にピリリツと響く振動と同時にシプアン海の上空にバツと白煙が上った。「大和」「武蔵」の巨砲の発砲だ。それを機会に一瞬にして海上は再び百雷の如きどよめきと砲煙とに覆われた。
私は旗艦の信号に注意しつつ、僚艦の態勢、敵機の攻撃状況を記録紙に時刻と共にどんどん記入し、艦橋下部の作戦室の航跡自画機に必要事項を怒鳴った。作戦室と艦橋との間の伝声管は僅か2米足らずのものだが、猛り狂う砲声は耳にした綿の栓を吹き飛して鼓膜を引き裂かんばかりに吼えるので、喉を嗄らして怒鳴った。やっと下に聞える状態である。
後続艦の様子を見る為、艦橋左舷の旗甲板に出た時、急に体の平衡を失ってよろよろと危なく倒れそうになったと同時に、後部から不気味な爆発音が腹に応えた。
「畜生!やったな」と思わず歯を喰いしばった。今の激動で海図台の上の物が跳びはねて艦橋の甲板の上に散乱した。信号兵が弾みを喰って3人重なって倒れている。丁度地震の様な感じだ。
「後部兵員室直撃、舵機異常なし!」
伝令が急報して来た。あと3米後方であったら完全に舵機室をやられる処であった。その報告が来るか来ないかの時、
「艦尾急降下!」
と後部見張の絶叫する報告が砲声の中に伝声管を伝って来た。
「面舵一杯!」
航海長が回避の転舵号令を下した。私が艦尾上空を見ると丁度殆ど頭上に既に急降下の態勢でぐんぐん頭上に襲い掛って来る爆撃機が、ポッンと鳥の糞の様な黒いものを落としたのが見えた。爆弾投下である。その黒点はグーッと私の脳天目がけて落ちて来る様に見えた。
何する暇もなく私達艦橋に居る者は2度目の地震を喰った。眼の前がバツと閃光の様に光り、顔をピシャツと平手で打たれた様な感じがした。続いて2度、艦橋左舷に大きく水柱が上り、艦がグラグラツと動揺した。一発は前甲板錨鎖庫に落ち、一発は艦橋左舷すれすれの至近弾であった。
その時作戦室からの伝声管で何か怒鳴っているのが耳に入ったので伝声管に耳を当てると、「自画器のペンが跳び、故障しました」と報告して来た。 「直に修理に全力を挙げろ」と私は怒鳴り返した。
今の撃動で精密な機械の自画器は一たまりもなく故障してしまったのである。最も大事な時にかかる兵器の故障は非常な痛手だ。前甲板は一面に破片が乱れ、傷付いてしまった。錨鎖庫の右舷の処が無残にさかれ戦闘速力の高速で走っている為、その破口は大きくなり錨鎖庫は忽ちにしで満水し前部が次第に海面下に沈んで行くのが感ぜちれた。応急員は転がる様にして、応急用具を持って錨鎖庫へ駈けつけ応急処置に当った。
「水面直上、破孔直径4米、附近舷側に大小無数の破口あり。浸水危険」応急員からの伝令が艦橋に報告に来た。
武蔵傷つき艦隊反転
隣接防水区画に浸水を喰い止める応急作業がこの戦闘の真只中で遂行された。僚艦も殆んど総てが多かれ少かれ被弾し傷ついた様子である。飛行機に比し図体が大きく速力はずっと遅く海面を這い廻る軍艦は飛行機の雷撃、爆撃を回避するだけでも問題にならぬ程不利である。しかも相手は入れ代り立代り何度でも他の機が交代して襲って来るのである。緒戦において日本の飛行機が明かにそれを実証している。
私達は今全く逆の立場に置かれ、敵は今や尽きざる物量に物を言わせ、我々がこの戦場の海面に浮ぶ限り飽くことなく何十回、何百回でも襲撃の手を休めないであろう。然しどんなに攻撃されようとも目的地レイテ湾に突入するまでは断じてわが艦を護らねばならない。
第3波が去った後、1時間を待たず第4波の来襲があり、更に第5波、第6波と息つく余裕も与えず敵は入り代り立代り襲って来た。その都度私達は死に物狂いで応戦し敵を退けた。
第3回目の来襲における私の乗艦「矢矧」の被害は、本艦の唯一の特徴であり戦闘の強みであった36節の高速を、24節に制限しなければならず、ともすれば艦隊から遅れ、落伍せんとし、苦戦は乗員一人一人の上にのしかかって来た。
然し、それ以上に私達の心を暗くしたのはわが遊撃部隊の誇る超弩級戦艦「武蔵」の損傷である。第2回目の戦闘において爆弾が艦橋に命中し艦長以下首脳幹部が死傷したため、五体が健全でありながら頭脳を失ったと同様になり、以後の戦闘は操艦が思うように行なわれず、何本もの魚雷と数多くの直撃弾とを受け、右舷に大きく傾き艦首を著しく水中に没し、10節せいぜいの速力で喘いでいる。
然し彼の巨砲は最期まで空に向けられ、襲い来る敵機に応戦しその姿は恰も傷つける猛獣がその最後の息を引取る瞬間まで戦い、反抗する時の壮絶さを思わせる。
今この処で「武蔵」を失うことはわが遊撃部隊の半分を失うことである。最悪の場合遊撃部隊の全艦がやられても 「武蔵」と「大和」だけは我々の最後の頼みとなりレイテ湾内にその巨砲の威力を発揮することを願っていたのである。その「武蔵」がレイテ突入を明日にして今瀕死の重傷を負ったのである。
我々の予定は、今頃(午後6時)既にサン・ベルナンディオ水道を出て太平洋に乗出しているべきであったが、波状攻撃をして来る敵機との応戦の為、河のように狭い水道を通る事が出来ず、夕刻までシプアン海上において戦闘を続けなければならなかった。
そのためこの分で行けば、夜間無事に水道を突破し得たとしてもレイテ到着までには奇蹟の起らぬ限り、ほとんど艦隊は全滅するであろうことは想像に難くない。
今までの敵艦載機の来襲より判断して、比島東方の太平洋上には予期以上の敵空母大部隊が待機していることが察せられた。内地より出たわが空母艦隊の特攻々撃はどうなっているのであろうか。若し成功しているとすれば、今日のような連続的な敵の大襲撃はあり得ない。しからば不成功か、予定通り作戦が進めば当然今頃は本隊より敵撃滅の打電があるべきだが敵発見の報すら満足に入っていない。
栗田遊撃部隊長官は連合艦隊長官(海軍大将豊田副武)宛に、このまま作戦を続行する事は敵に殆んど損害を与え得ずしてわが艦隊の全滅となり、極めて不利であることを報告し、(敵航空艦隊を制圧する時機を得て)再挙を計るため、一時戦場を避退する旨打電し、我々は夕焼けに染むシブアンの海を瀕死の「武蔵」を守るべく周囲に輪形陣を作り対空、対潜警戒を厳にしつつ反転、針路西へと向った。
母艦を飛出して来る敵艦載機は夜間の母艦発着の困難な為か、日没前2,5時間頃からは姿を見せない。空に打上げられた砲煙砲火は何時しか薄れ鏡の様に澄んだシブアンの海は先程の激戦を忘れたように美しい夕焼けを映し島々は次第に暮色に覆われてゆく。
その中を最も強く大きな父親が子供のためにその身を犠牲にして奮戦し、遂に重傷を負い歩くことすら出来なくなったのを一生懸命に介抱し、労わる子供達のように僚艦が「武蔵」の周囲で護衛をしている。
その子供達も皆夫々負傷し、あるいは煙突が破れ、あるいはマストが折れ、あるいは前に後に右に左に傾斜せるまま、それでも猛々しく殺気立った様相をして粛々とシプアンの海を西へ引返して行く。
天柘を確信し全軍突撃
然しどうしてこのまま、引返すことが出来ようか。我々は更に再び反転、針路東、レイテ湾へと向った。
「天祐ヲ確信シ全軍突撃セヨ」
豊田連合艦隊長官よりの命令電報を受けたのは、既に進路を東にとった後である。
昼の戦闘に殺気立っている我々は当然の事として、この命令を受けた。いよいよ明朝はレイテだ。
鳴呼、その時戦艦「武蔵」は、最早我々と行動を共にすることは不可能である。巡洋艦の「利根」と駆逐艦1隻を護衛に残し、我々は健在の戦艦「大和」に唯一の頼みを托し「武蔵」を後にして日没せるシブアン海より更にサン・ベルナンディオ水道に到る狭い海峡を島の間を縫うようにして厳重な警戒の下に進んだ。
狭水道通過のため輪形陣より単縦陣に隊形を変え、本艦を先頭に水雷戦隊、巡洋艦戦隊、戦艦戦隊と一列に並び次第に夜の幕の下りる島嶼間を音もなく、見張の眼だけ極度に光らせ、島蔭に潜む敵魚雷艇を警戒し潜水艦の襲撃に備えつつ、後に残した「武蔵」の身の上を案じながら航行を続けた。
暫くして後方海上に2条の閃光が輝き同時に太い火柱が上るのが見えた。「武蔵」の最期である。普通の軍艦では2本も魚雷を喰えば忽ち沈没するのであるが、流石に超弩級艦「武蔵」は多数の魚雷と無数の爆弾に良く長時間堪えていたが、遂に自分の火薬庫に引火爆発し、その偉大なる巨体を真2つに割き、自らシブアンの海底へ幾多の勇士と共に没し去った。
我々の前途は次第に暗くなる海上の如く暗黒である。如何なる運命が待ち構えているかは神以外の何人も知ることは不可能である。我々の判っている事は遮に無にレイテに突入し、我に生命ある限り敵に損害を与えるという任務を万難を排して敢行することである。
私は此処にもう一つの心を曇らせた事件を記さねばならない。
それは今朝未明あんなに元気に私に別れを告げて飛び出して行った佐々木飛行少尉の操縦する1号機が索敵哨戒に出、数時間の後丁度昼食時頃本艦に無電で、「ワレ敵戦闘機3機ノ追従ヲ受ク」を報せたのを最後にばったり連絡が途絶えたのである。完全な敵の制空権下に行動するわが艦隊の苦しい作戦遂行は到底言い尽せるものではない。
空には星一つなく、低く暗雲が覆って来た。水気を一杯含んだ風が冷え冷えと艦橋周囲の防禦用の索具やマントレットに強く当り、マストは無気味な唸り声を出し視界が次第に悪くなって来た。
サン・ベルナンディオ水道通過は丁度夜の12時頃である。今年、(昭和19年)の6月18日、サイパン玉砕の寸前マリアナ作戦に出撃した時、私は同じ本艦でこの水道を通過したことを思い出す。僅か4カ月前である。
その時は未だほとんど警戒といっても潜水艦のみで水道通過も気楽であったが、今は全く敵地を通過するようなものである。戦況の不利は甚だしいものがある。水道出口の中央部に小さな島があり、その島には灯を消した灯台が闇夜にほの白く見えるが、何とはなしに懐かしい思いがする。明日に戦闘を控える身にとり、この風景もこの世における最後の想い出となるかも知れないと、淡い感傷が叉胸の中に甦って来た。
「おい、池田、もう太平洋に出たな」何時の間に艦橋に上って来たのか級友の伊藤中尉が私の肩を叩いて言った。私は何故か伊藤中尉の顔を見て非常に嬉しく思った。彼は昼間の戦闘の興奮が未だ残って元気一杯に眼を輝かせて、
「今日少なくとも10機は確実に落したぞ」といって疲労の色等少しもなく寧ろ明日の戦闘が楽しそうに見えた。それから彼は肩に掛けた七倍率の双眼鏡を見せて
「おい、これを見て見ろ、こんなに弾丸が当っている」
というので見て見ると、成程双眼鏡の中央部がえぐれて弾丸が其処ではね返ったようにまくれていた。戦闘中は全く気が付かず夕方敵機が来なくなってから始めて気が付いたそうである。実に危ないところであった。
私は思わず彼の顔を見て「危なかったなア」と言った。彼は平気な顔をしていた。警戒した魚雷艇の襲撃もなく潜水艦にも遭わず水道間を切り抜けた。いよいよ敵艦隊の行動海面である。低い雲は遂にスコールとなり、視界は全く不良になった。何時敵艦隊と遭遇するか判らない。短縦陣で水道を出ると間もなく旗艦「大和」から「第1索敵航行序列ニ占位セヨ」との命令が出、艦隊は横に一列に1,000米間隔に並び敵水上艦艇を求めてサマール島北方より針路南へ変針レイテへと向かった。
10月25日
西村第2遊撃部隊悲痛の最期
昨夜からのスコールは依然として去らず、時々猛烈な降雨となり後続駆逐艦の影すら全く見えなくなる。
「0300」針路180度速力18節。艦橋は粛として声なし。昨日の戦闘中からずっと修理に掛っていた航跡自画器が夕刻修理を完成し、今薄暗いランプに照らされ南へ南へと南下する艦の航跡を「チック、タック」と規則正しい音を立てて正確に記録して行く。
艦橋上部にある21号電波探信儀は敵を求めて電波を発しつつ喇叭型の発信器を徐々に旋回している。見張員の眼は異様な緊張を漲らせて血走しっている。暗黒の太平洋をサマール島に添って今敵陣間近に敵を求めつつ一路レイテ目指して南下しているのだ。
時間の経過は激烈な戦闘場に達する時刻を刻一刻と狭めて行く。
「電探異常ナシ」
「見張異常ナシ」
報告する伝令の声にも、やがて現われるべき異常を暗示するかの如く異常なしを報告する。
後で私は知らされたのであるが、丁度この頃(午前3時頃)スルー海を通りスリガオ海峡よりレイテ湾の南から突入すべく、我々と別れて22日、ボルネオのブルネー基地を我々より7時間半遅く出撃した戦艦「扶桑」「山城」以下の第2遊撃部隊は既にレイテ湾口に到達し激戦の真最中であった。
敵にすっかり作戦意図を見破られていた第2遊撃部隊は敵がレイテ湾内より湾口に向け全艦隊の砲列を並べ、敵魚雷艇は島蔭に潜み今か今かと「扶桑」「山城」以下のわが艦隊の到着を待ち構えているその真只中へ狭い海峡を一列になり突入してしまった。
忽ち敵戦艦巡洋艦の砲撃を喰い、魚雷艇の雷撃を受け、海面は狭いため大きな図体の「扶桑」も「山城」も身動きならず戦闘僅か10分にして敵弾を受け、大火災を起し火薬庫は爆発し、乗員の殆んど全てと共に敢え無き最期を遂げ、続いて来た重巡「最上」以下駆逐艦も全滅し、僅かに駆逐艦「時雨」のみ、辛うじて死地を脱出し得たのみ。
我々第1遊撃部隊も昨日の戦闘がなければ今頃、第2遊撃部隊と相呼応して「レイテ」湾に突入し得たのであるが、数時間予定より遅れた為、第2遊撃部隊は敵艦隊の全砲火の集中攻撃を受けたのである。
「0400」依然として針路180度、速力18節、サマール島東方海上である。レイテ湾口まで後6時間。時々晴れるスコールの間から見える星が素晴らしく美しい。今刻々死地に向いつつある第1遊撃部隊をじっと高い空から見下している星は同じ激戦をなすべき敵の動向をもじっと見詰めているのであろう。
昨日の戦闘で大穴を開けられた右舷前部の応急処置を不眠不休でやっていたのが、やっと出来上ったらしく応急指揮官が汗まみれとなり眼だけぎらぎら光らせて艦橋に上って来た。
「艦長、前部破孔の応急修理 完了しました。」
「何ノットまで耐えられるか」
「28ノットまでは安全です。30以上は無理です。」
「30ノット以上出せなければ戦闘にならんぞ」
艦長は重々、応急指揮官以下応急員の絶大な努力を知っている。そしてこれ以上の処置は出来ないことも解っている。しかし、水雷戦隊の旗艦として第3戦闘速力以上出せない。しかも数時間後は否でも応でも激闘を交えなければならないのだ。
「30ノット以上出せなければ……」
という艦長の気持ちは応急指揮官にも良く解るのである。その言葉の内には愈々となれば30以上出して戦闘し、敵と刺し違える覚悟を秘めているのだ。
「0500」針路180度速力18節、全員戦闘配置に就く。勿論昨日からずっと戦闘配置に就いているのだが夜間は半数ずつ各々の配置で休めの態勢にあったので、愈々レイテ湾口近くなり総員が戦闘配置に就いた。
今まで副直将校だった第4分隊士は、総員配置に就けの号令により副直将校の任務を航海士である私に申し継ぎをして弾火薬庫鍵箱の鍵を私に渡した。(戦闘配置では航海士が副直将校の任務を行なう)その第4分隊士の加治木兵曹長は3時間後にはこの世の人ではない運命にあった。
依然スコールは艦隊を覆って視界極めて不良だ。司令官、艦長始め諸参謀の顔は何れも平静である。勿論誰も一睡もしていない。私達はほとんど疲労感を感じない。緊張している神経は戦うこと以外の一切の感覚を感じないようである。
「0600」針路速力依然として同じ。スコールの為天測不能。航跡自画器により「0600」の艦位を海図に記入する。自画器は斉藤兵曹の真剣な努力により極めて好調である。
「レイテ湾まで後100浬、10万分の1切換え準備をしておけ」と斉藤兵曹に命ずると、「10万分の1切換え用意宜しい、作動良好」と元気に答えた。
大和の初弾命中
「0630」サマール島沖の海面は次第に朝の色が夜の幕に取って代って来た。スコールも晴れ上がって来て前方の水平線が朝焼けに赤く染む雲と海との境に次第に明らかになって来た。見張員の双眼鏡は吸われるようにその水平線のある一点に向けられた。
「マストラシキモノ、左65度水平線!」艦橋上部の防空指揮所にいる見張員長の鋭い声が伝声管を通して艦橋の静寂を破った。
敵!
一同は昨夜から求めに求めた獲物にありついた喜びに既に敵を破ったような興奮に胸を躍らせた。
司令官、艦長以下幹部の眼は一様に双眼鏡を通して左70度の水平線に吸い付けられた。私も七倍力の双眼鏡で水平線を見た。見える! 確に敵艦船群だ。水平線に出ているマストの数は6本、直ちに敵発見の信号を掲げ、同時に旗艦「大和」に報告した。
「敵ラシキマスト見ユ、方位110度距離26,000米」
わが艦隊の索敵隊形における最左翼前端に占位していた本艦は敵と最も近い距離にあり、従って、発見も最も早かった。
「第10戦闘序列ニ占位セヨ。速力24節 最大戦速即時待機トナセ!」
旗艦「大和」より全艦に対して命令が発せられた。今までの索敵序列よりずっと密集した海上戦闘態勢が取られた。
各艦は総ての攻撃兵器を敵艦隊の方向に向けた。中でも「大和」は最も遠距離の射程を有し既に目標に対し巨大な砲口を9門一斉に向けその火蓋を開いた。
物凄い発砲の爆発音は晴れ渡たる空に轟き、その一つの炸裂は小艦隊の一対を吹飛ばす位に巨大なものである。
悠然と敵の方を睨み、巨大な砲身がグット仰角を取り一度砲火を開くや灰褐色砲煙は砲塔を覆ってしまう。その力強さ頼もしさは、我々に戦闘精神を沸き立たせたと同時に昨日失った「武蔵」が今ここにいない口惜しさが全員の胸に疼いた(うずいた)。
他のどの戦艦も未だ有効射程外である。「矢矧」は勿論、未だ何等攻撃を加えられない。固唾を呑んで「大和」の砲撃を見守る。敵は未だわが艦隊に気附かないかのように同様な隊形でこちらに近付いて来る。マストは10数本見えて来た。未だその艦種は不明である。
双眼鏡で見ていると、その水平線に「モクッ」と敵マストより、やや高く水柱が認められた。「大和」の砲撃の水柱である。我々の処からは未だ距離遠く弾着観測は全く解らない。
「大和」から第2斉射が発砲された頃、漸く敵はその前途に巨大な日本艦隊が自分に向って砲門を向けているのに気付いたらしくマストの動きが如何にも慌てた如く右往左往し出した。
彼我の距離はぐんぐん接近し、敵は遂にその艦体を水平線上に現わした。それは明かに航空母艦と、その直衛駆逐艦との艦隊であった。平らな飛行甲板とその上に未だ飛ばずにいる飛行機の群が手に取るように双眼鏡の視野に入って来た。
敵は艦尾をこちらに向け急激に増速して逃走し始めた。そして矢鱈に飛行機を発艦した。続いて「大和」の第3斉射が打出されたと殆んど同時に、戦艦「長門」「金剛」「榛名」の巨砲が唸った。
この時から果然海上は激戦の巷と化した。敵母艦を発艦した敵機は遮に無にわが艦隊の頭上に襲い掛って来た。
乗艦矢矧に敵機来襲
昨日の戦闘で機銃、高角砲員の対空射撃の腕は極めて上っていた。度胸も出来て来たのだ。真先に襲い掛って来た「グラマン、F6F」は本艦の左舷上空で美事に木葉微塵に飛び散った。それにも怯まず(ひるまず)敵は実に勇敢に襲来して来る。
「左舷艦首、雷撃磯!」
「取舵一杯! 第3戦速!」
「艦尾急降下!」
「戻セー面舵一杯!」
見張員の必死な報告と航海長のそれに対する懸命な回避操艦の号令、艦長の砲戦魚雷戦操艦指揮、司命官の戦隊指揮。
敵艦載機の襲撃下における艦橋員は皆各自の職務完遂に全力を奮っている。私は彼我刻々の態勢、敵の攻撃、わが砲戦等戦闘記録を記録する一方、旗艦との信号の受授、本艦の艦位測定等航海士の職務遂行に必死になって頭を働かせ手を動かす。
「0725」後部見張員から
「グラマン3機、急降下!」
と伝声管を通じて叫んだ。艦は今左へ旋回中だ、態勢からいえば右へ回避すべきだが既に取舵の惰力でぐんぐん左へ旋回しているため航海長は艦長に、
「このまま左へ回避します」
といって取舵一杯を令した。
我々は次の瞬間昨日の戦闘で体験した急降下の爆弾投下による轟音と激動とを予期した。然し敵機は意外に爆弾を以ってせず、けたたましい音を立てて機銃掃射を艦尾から艦首へ浴せて来た。敵機は爆弾や魚雷を搭載する余裕なく慌てて発艦したのであろう。
本艦艦上で始めて受けた敵機の機銃掃射である。私達は艦橋の遮蔽物で身を護った。次で2番機の曳限弾が艦橋のガラスを破壊し狭い艦橋の甲板を其赤な条を引いて「カラカラ」とかん高い音を立て跳び廻った。
艦の対空砲火は全力を振るってその砲口から火を吹いている。3番機の銃撃が去ってから艦を元の針路に立て直した。
この銃撃により狭い艦橋で私の直ぐ隣にいた第4分隊士の加治木兵曹長は突嗟に伏せたが、丁度その処へ真っ赤に焼けた7.7粍の機銃弾が飛来して彼の大腿部から腹部へ貫通し、創口から鮮血が吐流し私の戦闘服のズボンへも散った。
「やられた」
つぶやくように一言、云ったきり見る見る出血のため青ざめる顔を一度持上げ虚空をじっと見つめ間もなくばたりと仆れた。
その傍の水雷科方位盤員の下士官1人と水兵2名が腕、胸部に夫々貫通銃創を負いその場にうつ伏せに仆れている。
艦橋は忽ち血の海と化し血腥い凄惨な臭いが充ちた。懸命に操艦する航海長の戦闘帽の顎紐に重傷者の肉片が飛び鮮血と共にベットリと引っ付き、私は最初航海長が負傷したのかと思った。併し艦長も航海長も顔色一つ変えず、平静にじっと敵の行動を観測しつつ操艦に余念がない。
私は素早く戦闘記録を記註してから加治木兵曹長を信号員に負わせ、戦時治療室になっている士官室へ降させた。私が彼を抱き起した時彼は既に事切れていた。
ああ伊藤中尉倒れる
今迄共に活動し苦楽を分け合って来た戦友が一瞬の後に鮮血を残して他界する深刻な現実に直面して、ふっと心の中を空虚な掴み所のない悲哀感が横切り、無意識に故郷の家のことが掠め通る。しかし、それも全くの一瞬である。
耳をつんざく砲声と襲撃して来る敵弾とは一刻たりとも心の休みを許さない。戦場心理はすべての常識を超越して動く。
同じ今の銃撃は本艦における私の唯一の級友である伊藤中尉にもその魔手を掛けていた。私の戦闘配置から僅か10数米の処にいる彼であったが、指揮系統が違っていた為、彼の負傷を知ったのは夕刻、敵の来襲が一応収まってからだった。
彼と同じ高角砲指揮所にいて彼の補佐をしていた高橋兵曹に後でその時の様子を聞いたが、「0725」の銃撃のあった時、丁度右舷にいた敵の雷撃機群に対し高角砲の戦闘指揮をなし、指揮棒で目標を部下に指示していた。
その時第1番機の銃撃に附近の構造物はバリバリと被弾したが、彼は少しもそれらを意に介せず高角砲の目標に向い懸命の射撃指揮をしていた。第2番機の襲撃の時、艦はぐんぐん左へ退避し、左舷艦尾より襲った敵機は右舷艦首へ超低空で去った。
その時の弾丸は煙突を貫き射撃指揮塔に立っていた伊藤中尉の背後から腹部を貫通し彼の左前に坐していた伝令兵の右肩から心臓部を貫通し右舷の海中へ入った。
高橋兵曹は伝令兵が仆れたので直ちに伝令の着けていた伝声管を外し自分が伝令を兼務し、他の者に伝令兵を治療所へ運はしめ指揮官を見上げると、伊藤中尉は指揮棒を握ったまま、腹に手を当てじっと敵機の態勢を観測しているが様子がどうもおかしいと思いつつ、
「指揮官、伝令を下げます」
というと、
「よし直ぐ治療所へ連れて行け」
といい新目標を求めている。
ふと彼の左手を見ると指の間から血が流れているのに気が付いた高橋兵曹は、
「指揮官、どうされましたか」と尋ねると、
「何、一寸した傷だ、何でもない」
といいつつ指揮塔の上にどっかと腰を降した。高橋兵曹は直ぐ自分の救急袋から締帯を出し、傷を巻こうと思い、指揮官の出血部を見ると意外に傷は大きく、腹部をやられているので驚いて、
「指揮官、治療所へ降りて下さい」というと、
「馬鹿、これしきの傷で降りられるか、俺より伝令兵は大丈夫か」
といい、なお指揮を続けようとするので、高橋兵曹は他の兵と伊藤中尉を担ぎ降そうとしたが、彼は中々許さなかった。
しかし流石に重傷のため出血多く、次第に意識薄れ遂にがっくりと仆れ、部下に負われて治療所へと降りたのであった。
治療所は既に多数の負傷者で、軍医長はどんどん運ばれて来る負傷者に対して実に目覚ましい応急治療をしている。閉め切った艦内は蒸されるような暑さである。そこに負傷者の傷の痛みをこらえる坤吟の声、腥い臭いと砲煙の臭いに薬品の臭いが混じり、戦場独特の場面を現出している。
その治療所へ担ぎ込まれた伊藤中尉は早速軍医長井手軍医少佐の治療を受けたが軍医長は既にその時「もう駄目だ」と思った。腹の傷は腸を貫き膀胱を破り最早手の下しようがなかった。
出来る丈の処置をし、カンフル注射を打つと彼は意識を快復し、自分が戦闘配置を離れて治療を受けていることを知ると、直ちに戦闘配置に就こうと懸命に立上ろうとするのであった。軍医長は絶対安静にしておかねはならぬので彼を静めるのに非常に手こずったと後で語った。
出血と激労とのため、重傷の伊藤中尉はそれから昏々たる眠りに陥りつつも、激戦中の彼我の砲声爆振に眼を醒し、自分が戦闘配置にいないことを知ると旺盛な戦闘力と責任観念とで、彼は何とかして戦闘配置に就こうと気が逸る(はやる)のであった。重傷の身体で動きも出来ず、その心中は察するに余りあるものがある。
全力を挙げて東進
その間にわが艦隊はぐんぐんと敵を追い、蜂の如く群がり襲って来る敵飛行機と交戦しつつ敵艦隊を撃滅せんと速力を上げ、戦艦巡洋艦はその砲火を極度に発揮している。やがて「大和」より
「我レ敵空母1、重巡1撃沈ス」
と味方艦隊へ真っ先の戦果を知らせて来た。
彼我の砲煙と天候の不良とで、本艦からは敵の情況は良く判らなかった。「大和」からの信号により私達は大いに元気付けられた。
それから約30分の後、本艦の通信室へラジオで日本内地の大本営発表として軍艦マーチに続き、「只今比島東方海上ニ於テ帝国海軍ノ一部ハ敵艦隊卜交戦、空母1、重巡1ヲ撃沈、尚戦果拡大中」と我々が現に戦闘中のことを早速ニュースで報道しているのが入った。戦果のみ報じ、味方の非常な苦戦と損害とは一切報道しない。
「ニュース」ではあるが現に私達が必死の戦闘をしていることが、もう内地にいる同胞に伝っていると思うと、身近に内地の同胞が私達を力つけてくれるのを感じた。
敵空母は全速力で死に物狂いの逃走を続け、敵飛行機はわが艦隊の追撃を少しでも遅らそうと執拗に襲って来る。そして時々来るスコールは敵艦隊を隠し、さらに敵は直衛駆逐艦に煙幕を張らせ懸命に脱出を企ている。
「水雷戦隊ハ続行セヨ!」の命令で今迄ずっと戦艦や巡洋艦が砲戦を行なっている後方で、本艦の率いる駆逐艦群と「能代」の率いる第2水雷戦隊とは満を持していたが、やがて
「全力ヲ挙ゲテ東進!」
と旗艦「大和」より緊急電あり、各戦隊は各々最大の速力を以って敵を追撃した。
本艦も錨鎖庫の破孔にも拘らず敵と刺し違えを覚悟して、30節に増速し、駆逐艦を率いて味方の戦艦、重巡戦隊を追越しぐんぐん敵に迫って行った。敵は巧みにスコール・煙幕を利用し、日本艦隊からの砲戦・魚雷戦の目標となることから逃げている。
「0800」不意を喰った敵は、盛に生のままの無電(作戦電報を暗号にする暇がない程、慌てたのである)を敵の航空艦隊に打ち救援を求めているのが、本艦の通信室に全部傍受していたが、その救援が今我々の頭上に襲って来た。それは昨日、我々を散々苦しめた敵機動部隊である。(註ポーガン艦隊およびダブイソン艦隊)
戦場は新しい敵の増援のため俄然激烈の度を高めた。襲い来る敵機は全て爆弾、魚雷を抱いていた。全艦隊の砲火は文字通り砲身が赤熱して怒り狂って砲火を吐く。海面は彼我砲戦の弾が降り注ぎ一面に飛沫を上げている。私達甲板にいる者は皆鉄兜を被っている。敵弾による被害よりも味方の弾片に傷つかない用心である。
本艦の右舷側約1,000米の位置で20糎砲を打ち、敵艦艇中に赤や黄、縁等の着色したしぶきの水柱を林立させ、敵の心胆を寒からしめていた重巡戦隊の第7戦隊旗艦「熊野」は前甲板に新増援機の直撃を受け、黒煙を吹き上げ速力が著しく低下した。
そのため第7戦隊は艦隊の後方に残されるに至った。旗艦を変更するのである。この激戦中一刻も早く敵に迫らねばならない大事な時に艦を止めて、司令部が他艦に移乗し、絶好の戦機をみすみす逃してしまうことは実に残念である。
丁度その時、腹に響くような轟音と共に7戦隊の一艦が天に沖するばかりの黒煙を吹き上げ、後甲板が無惨にも破壊されるのが見えた。4番艦「筑摩」の自艦搭載の魚雷が爆弾の破片で誘爆を起したのである。
スコールは再び敵空母群を覆い、本艦からは敵を見失った。
ここまで来て好餌を逃しては悔を千載に残すとばかり、司令官艦長以下艦橋にいる私達は血眼になって敵空母を探し求めた。執拗な敵飛行機と交戦しつつ敵を追撃することは益々困難となって来た。しかも一刻を争う今だ。
敵駆逐艦から魚雷攻撃がなされた。旗艦「大和」から艦隊宛に「雷跡ニ注意セヨ、雷跡ニ注意セヨ!」と緊急電を打つ。
本艦の前甲板の破口からは応急処置の部に次第に浸水量を増し、前部は昨日に比しずっと水面下に没して来た。しかし今の速力では敵を全く見失うに至る恐れがあり、司令官はじっと敵の方向を睨んでいたが、やがて「32節!」と命令した。矢矧自体が浸水のため参るか、夫より早く敵に追い着くか2つに一つだ
「敵の針路、南!」
「大和」からの電報により直ちに針路を南に変え、危険速力32節でぐんぐん敵を追った。
「敵駆逐艦、左310度、15,000!」
見張員の報告があった。見ると煙幕の切れ目に方位角左310度位で我に向って来る駆逐艦があった。
敵は砲口をこちらに向け、盛に砲撃している。発砲毎に敵は閃光を発し我に戦を挑んでいる。それは第2水雷戦隊に向け発砲している。本艦と姉妹艦である「能代」を旗艦とする第2水雷戦隊は、私達の右前方を進撃しその周辺には敵弾による水柱が盛に上っている。
本艦は間もなく第2水雷戦隊に追い着き両水戦はほとんど平行して南下進撃した。敵はやがて本艦に対して集中砲火を向けて来た。本艦も麾下駆逐艦に対し砲戦命令を下しこれに応戦した。しかし飽まで我々の目標は敵空母である。
わが方は本艦以下駆逐艦4隻に対し、敵は駆逐艦3隻。勿論われに絶対有利である。しかし敵は侮り難く実に勇敢に向って来、砲撃も極めて正確だ。殆んど敵弾は本艦の両舷50米以内に落ち水柱を上げた。頭上を通り越す敵弾は「シュッ」と無気味な音をして右舷側の海中にドカンと水柱を作る。
その砲撃に対し回避運動を取りつつ本艦の15糎砲6門は一斉に砲火を敵1番艦に向けた。敵水上艦艇に対する砲撃は本艦に取りこれが最初である。敵は精密な電測射撃を行なうのに対し、昨日からの戦闘で電測射撃装置に故障を起し観測装置に狂いを生じた。本艦の射撃は精度が悪かった。
砲術長永井少佐の沈着な修正射撃は第3斉射において敵の艦橋に火災を生ぜしめ敵艦は著しく右舷へ傾いた。味方駆逐艦からの砲撃も相当命中し敵は殆んど戦闘力を失って停止した。
「矢矧」は目標を2番艦に変えた。しかし敵飛行機はこれを見て猛烈に本艦に襲って来た。本艦も負けずにこれに応戦しつつ、駆逐艦に対し射撃を緩めなかった。
凄惨! 飛散する肉片
「0900」敵駆逐艦の砲撃は飛行機の爆撃と相まって本艦の左右舷側すれすれに弾着していたが、遂にその一つが左舷士官室上部に命中した。士官室は戦時治療室として今多くの負傷者が収容されている室である。この敵弾のため、治療を受けていた下士官2名と兵3名とが戦死した。
更に附近に火災を起した。応急員が現場に駈けつける。艦橋にいる私の処からは弾着部の甲板が抉れ、そこから煙が噴き出ているのが見える。2番弾火薬庫の近くだ。緊急消火しなければ危険である。艦橋にある通信室からの伝声管からモクモクと白煙が出て来た。火は通信室にまで延焼しているらしい。今火災を大きくすれば忽ち敵飛行機の餌食となる。応急員は必死になって消火に全力を挙げている。
この砲戦の最中、空からは尚盛んに敵機の襲撃があり、雷爆撃の回避に32節の高速で転舵一杯を取るため左右へ30度内外の傾斜をし、耳を聾する砲声の轟音と艦内各処に起る被弾の火煙と戦死戦傷者の鮮血と飛散せる肉片とで、今や艦内は阿修羅の如き凄絶なる様相を呈し、乗員一人一人は隣の戦友の死体を運ぶ暇もなく、次の瞬間には自分の脚が、額が吹飛ぶかも知れないのだ。
一瞬一瞬の中で与えられた戦闘任務を夢中で行なっている。全く命がけの微塵も物慾的なものはなく、精根を打込んで戦闘するその姿は人間の一面の極致を表わしている。
18糎望遠鏡でひたすら敵空母を求めていた水雷長の石博大尉は遂に再び煙幕内にこれを見出した。
「航空母艦、左艦首、15,000!」
艦長に報告すると司令官は直に麾下戦隊に魚雷戦を命じた。
「戦闘、魚雷戦!」
艦長の号令に水雷科員は魚雷発射の身構えに全精神を集中した。水雷戦隊の本領である魚雷戦を行なう時が来たのだ。
その時勇敢にもわれに挑んでいた敵駆逐艦の2番艦は、わが砲撃により火薬庫が大爆発を起し沈没した。砲戦目標は空母に向けられた。しかし、残る1隻の敵駆逐艦は僚艦2隻の沈没にも拘らず、更に我に向い魚雷発射を行なった。航海長は沈着に魚雷回避の操艦を行なう。
「左、上空、急降下!」
艦橋左舷の見張員が怒鳴るように報告した。皆駆逐艦に気を取られていたので、ほとんど回避の間がなかった。猛然飛び掛って来た敵機は、幸い爆弾を持っていなかったが、猛烈な機銃掃射を浴せて来た。
今、敵機の急降下を報告した見張員の阿部兵長は顎から咽喉へ弾丸を受けて即死、彼の眼鏡は真紅に染まった。艦橋ラッタルの傍にいた前田主計兵も鉄兜を貫通し、頭骸骨を割られ即死した。
水雷長は水雷発射方位盤の眼鏡でじっと敵母艦を観測していたが、その時の銃撃で方位盤に当てていた左手先を負傷し血がドッと流れ出た。しかし、少しも眼を眼鏡から離さず敵を観測していた。部下の河原上曹が直にその手に包帯を巻いた。私の周囲は既に黒く固まった血とまだ温みを持っているような真紅の鮮血とで悉く色どられていた。そして艦橋の人員は敵の攻撃毎にその数が減って行った。
「艦長、魚雷を打ちます」
水雷長が眼を輝かせていった。
「まだ少し遠いだろう」
艦長はこの千載一遇の好機に、もし、魚雷を打って敵を逃しては一大事と、出来る丈慎重を期し、もっと接近してから打つ考えだ。一方、水雷長は敵が再び煙幕内に逃げ込み今の好機を失ってはと、心が逸るのであった。
「この距離で大丈夫です」きっぱりと、水雷長は自信あり気に言った。
「起動弁開け!」艦長は意を決し、水雷長に発射を命じた。
同時に司令官から駆逐隊に対しても突撃命令が下された。私は司令官の突撃命令を直に旗?信号に翻訳して掌信号長に旗?を揚げさせた。突撃命令の旗?信号は高速で走るマストに千切れるばかり風を受けて、砲煙の中から麾下駆逐艦に示された。
1番艦、2番艦、3番艦と続いて同じ信号を掲揚し了解を示した。最後尾、4番艦の了解信号を見て命令は発動され、信号は下された。
水雷長は血のにじむ純白の綿帯を巻いた手を方位盤に当て敵針敵速を判定した。私も双眼鏡で敵空母を見たが、敵は既にわが軍の砲撃に可成り傷を受け左舷に少し傾斜していた。
「発射用意……打て!」
胸に響く水雷長の声が艦橋を一瞬沈黙せしめた。
「魚雷発射!」と後部の発射管室から報告が来る。
「発射雷数7本!」
続いて伝令の報告があった。8本発射の処が7本と報告があったので水雷長が直ぐ、「あと1本はどうしたか?」
と後部発射管室に問い正した処、丁度発射の時に敵飛行機の銃撃により、内1本に被弾、故障を起したのであった。
「魚雷到達迄9分」と、水雷長は艦長に報告した。
その間本艦は盛に飛び掛って来る敵機と交戦するため、右へ左へと回頭し、なお、未だに砲火を開いている敵駆逐艦へ15糎砲を打込んだ。空母に対する戦果を確認するため、見張員1名をずっと空母につけておいた。
本艦に続く駆逐隊は更に近迫し、空母の2番艦に対し魚雷を発射した。「矢矧」は大きく右に反転し、先の駆逐艦に最後の止めを刺すべくこれに近付いた。
「魚雷到達迄あと30秒!」、水雷長が艦橋にいる幹部に知らせた。直後、
「魚雷命中!」と見張員が叫んだ魚雷到達予定時刻より約20秒早かった。
一同は咄嗟に双眼鏡を眼にした。その時は既に水柱の崩れ去る処であったが、敵空母はその水柱の影に隠れたのか、姿は確認し得ず、その跡には果てしない水平線のみである。
完全な轟沈だ、と艦橋にいる者は思った。
「万歳!」
艦橋にいた私達は今敵陣の真只中にいる事を忘れて思わず叫んだ。
艦長と水雷長とは只にっこり笑って、今しがた消え去った敵空母の跡を見つめていた。
距離10,000米、発射雷数7本で完全に敵をし止めた喜びは今までの私達の苦心難儀を消し飛ばした。
(注 しかし戦後、米側の発表によれば、それは誤認であることが判明した。)
「矢矧」は更に大傾斜をしている敵駆逐艦の舷側500米位まで近づき、最後の砲撃を加え、その艦尾から水中へ吸込まれるように消えるのを認めた。
栗田艦隊遂に突入せず.
時刻は午前10時、敵飛行機も何処かへ去り彼我の砲声は急に止み、味方戦艦、重巡戦隊も遥か後方に離れ視界内は私達の第10戦隊のみである。本艦は更に敵を求めてレイテ湾内に向け針路を取った。その時「大和」より無電で
「集結セヨ、地点チセワ12」
の命令が来た。地点は本艦の現在位置から北東10浬の処だ。私は海図でその地点に向う針路を求め艦長に報告した。麾下駆逐隊も本艦の針路に従い後に続航した。
6時半から3時間半に亘って行なわれたレイテ湾外における艦隊遭遇戦の大激戦は今一段落ついた。
集合点附近に来ると「大和」始め「長門」「金剛」「榛名」の戦艦戦隊がその雄姿を並べているのが見えた。が、重巡戦隊は「利根」と「羽黒」のみで他の「熊野」「鈴谷」「筑摩」「鳥海」は1隻も視界内になく「能代」を旗艦とする第2水雷戦隊も麾下駆逐艦はほとんど残っていない。私達「矢矧」を旗艦とする第10戦隊のみ1隻も欠ける事なく集合して来た。
本艦の前部の破口からの浸水は奇蹟的に止まり、高速を出したことは代えって補強材を締め着け良い結果を来した。
「艦隊はレイテ突入を止め北方の敵空母を撃滅せんとす」
と「大和」からの命令により、艦隊は再度輪形陣に隊形を整え針路北、速力20節とした。(世に言う謎の反転)
重巡大半を失ったわが艦隊の輪型陣は昨日までは2つの部隊に別れていたが、全部一つの輪となりサマール島の東方を北上した。
駆逐艦「野分」は「鳥海」の救助に「山雲」「満潮」は夫々「鈴谷」「筑摩」の救援に差向けられた。
戦艦5隻の中「武蔵」1隻を失ったのを始め、わが艦隊の損害は重巡10隻の中、23日に「愛宕」「摩耶」「高雄」の3隻、昨日の戦闘で「羽黒」「妙高」の2隻、続いて今日「熊野」「筑摩」「鈴谷」「鳥海」と計9隻を沈没、あるいは大破せしめられ、艦隊から落伍し、駆逐艦も大半は破損し、また救援に趣いたまま敵飛行機の餌食となり、乗員全てと共に行方不明となった。
(羽黒 熊野 沈没は誤り。(編集部))
かくて日本海軍の主力はその大半を失い、尚我に数倍する敵艦隊と最後の一戦を交えんと悲壮な進撃を続けている。一方、第2遊撃部隊は、今朝未明に既に全滅し、台湾沖より南下した本隊の空母艦隊も天候に遮られ、「特攻攻撃」は戦果少なく逆に敵の攻撃を受け、今夕全滅に瀕したのである。
快速力を以って我が艦隊の最尖端に進み、逃走する敵空母に最後の一撃を加え、更に駆逐艦3隻を撃沈した本艦の戦果も、戦闘の大勢には如何ともならず、余りにも優勢な敵航空兵力は、遂にわが艦隊の初期の目的であったレイテ湾内突入を断念せしめた。
我が軍から何等の攻撃を受けていない無欠の敵の有力な空母艦隊(注 戦後、米軍の発表によれば「ボーガン」「ダヴイソン」の率いる2群の大空母艦隊)は勢力の半減したわが艦隊への攻撃の手を少しも緩めなかった。
「一100」東方海上の水平線に又もや群がる黒い影を現わし、小さな一点からぐんぐんとわが艦隊の頭上に広がって来た。艦隊は増速し交戦の身構えをした。
例の如く敵機は先ず艦隊の砲撃射距離圏外を悠々と旋回し始めた。
息詰まる沈黙、食うか、食われるかの殺気立った身構え。
乗員は皆汗と砲煙とで真黒にくすんだ顔にぎらぎらと眼ばかり血走らせ敵機を睨む。
「大和」の巨砲が火を吐いたと同時に敵機は急に分散し、艦隊の上空に四方八方から襲って来た。空は全艦から打揚げる対空弾の炸裂の砲煙に赤、紫、黒、自等に色取られ、敵機はその間にギラギラと銀翼を太陽に輝かせ、或いは雲間から或いは太陽を脊にしつつ鷹が獲物に飛掛るようにサッと急降下し、爆弾を投下し魚雷を放つ。
海上は彼我砲弾のしぶきの中を全身から火を噴き上げつつ、右へ左へと敵襲を回避しつつ、各艦は輪型陣の隊形を保つ。
「味方の数が減ったから、敵機の配給量が多くなったぞ」
砲術参謀の朝田少佐が冗談をいった。確かに、本艦に襲って来る敵機の数は、昨日の戦闘に比しずっと多かった。然し、乗員の砲戦技量も目覚しく上り、撃墜機数も昨日に倍加している。約40分間の死闘の後、敵は全弾を投下し、再び艦隊の射距離圏外に退き集結してから東方洋上へ去った。
私は急に空腹を感じた。咽喉もからからに渇いていた。艦橋に置いてある応急食糧の「乾パン」は負傷者の血潮が一杯に掛り、半分はどす黒く汚れていた。私は血のついていないのを選り取り、齧りながら今の戦闘の記録を整理し艦位を海図に記入した。
「今日は昨日よりずっと襲撃して来ますね」と砲術参謀に話した。
「うん、まだまだ相当数の攻撃が数回はあるだろう」と言っていた。
実際、夕方6時頃まで20数回ほとんど息つく暇なく、入り代り立ち代り攻撃が繰り返され、生か、死かの息詰まる空と海との死闘が展開された。
一空襲が去ると、既に次の来襲機の群は水平線上にその魔物のような黒点を現わしていた。本艦はその都度数発の爆弾を見舞われた。しかし甲板にいる者は、上は司令官から下は一水に到るまで皆対空見張りをなし、その迅速な敵機の発見と航海長の見事な操艦と機関科員の沈着確実な運転とは実に数10発の爆弾と魚雷とをすべて回避し、幾度かの死地を奇蹟的に切り抜けて来た。
10数発の至近弾は艦の致命傷にはならなかったが、数10名の尊い戦死者と2百余名の重軽傷者とを出した。4度目の襲撃を受けた時であった。
「艦首急降下!」
見張の発見報告に続き、
「面舵一杯!」
航海長の鋭く然も落着いた操艦号令により艦が左に傾きつつ右へ回頭し始めると、間もなく「ドドーソ」と耳をつんざく轟音とぐらぐらっと体を触り出されるような激しい艦体の動揺に、艦橋にいる者は皆よろめき倒れた。次の瞬間、硝子の飛散る音、構造物の破壊される音が砲声と共に天地が崩れるような感覚を与え、頭から水煙を被った。海図台は破片でずたずたに破かれ、私の使っていた定規とコンパスは滅茶滅茶に壊れてしまった。その時、艦橋下部にいた見張員の志村兵曹は、その至近弾の破片で左腕を根元からもぎ取られた。彼は残る右手と口とで切断部の上部を包帯で巻き、出撃前に軍医長から乗員すべてに教えられた通りに、竹の止血棒で止血をし、見張指揮官にその旨を報告した。
その声は平生とほとんど変らず、声だけでは、一寸ばかりのかすり傷を負った位にしか感じられなかった。後で私が負傷者を見舞った時に、「左手は痛まないか」と尋ねると、「これ位何でもありません。まだ右手も両足もあります。十分ご奉公できます」その顔には少しも衒ったり、見栄を張ってカラ元気を出したりしているのでなく、真剣な誠意に充ちていた。対して私は何となく自分が恥しくなり、心から頭の下る思いであった。
帝国海軍敗れたり
「1600」10回目の攻撃を受けた時、本艦の右舷中部に投下された至近弾の弾片は、1番魚雷発射聯管室に当り、装填中の魚雷の第2空気室を破壊した。酸素の充満している第2空気室は丁度酸素熔接の火焔と同じ火焔となり、猛烈な勢いで爆燃し、聯管室内は2,000度に近い高熱の火焔で充たされた。そして中にいた聯管長山田兵曹長以下15名の聯管員は全身を火焔に包まれ、管内で真っ黒に焼死した者、或いは辛うじて室を飛び出した者も狂えるが如く海中に跳び込み、又甲板で暴れ間もなく息絶える等、実に眼を覆しめる様であった。
僚艦も度々黒煙を上げ、局部的火災を発するもの等、被害は次第に拡大されて行った。しかし乗員の急激な錬度の向上は、今までのように易くは落伍しなかった。
重巡10隻の中、僅かに2隻のみ残った重巡「利根」と「羽黒」も幾度か速力が低下し、艦隊の輪型陣から遅れ、他の8隻と同じ運命を辿るかと思われたが、遂に最後まで頑張り、夫々に大きく傾斜しながらも輪型陣内に留まっている。
然し、先に重巡の救援に向けられた「朝雲」以下4隻の駆逐艦は、重巡と共に全く消息を絶ってしまった。
午後6時半(1830)第18回目の空襲を最後に25日の戦斗は終了した。
サマール島沖の洋上は静かに夕暮色に色取られ、夕陽は紅に照り映えサマール島は紫に染まり、日中の激戦は遠い過去のように想われる程、美しく静かに平生通り太陽は西のサマールの彼方へ没して行く。私達は暫し我を忘れてこの光景に見惚れた。
艦隊は隊伍を整え、今、静々とサン・ベルナンディオ海峡に向いつつある。
北方にいた敵機動部隊は東方洋上に遠ざかっていた。わが艦隊は、後はボルネオ基地に帰投するだけしか残有燃料は持っていなかった。
人員兵器の異常が艦橋にいる艦長へ報告されて来た。その時、私は始めて伊藤中尉の重傷を知った。私達は予てから覚悟はしていたが、身近に級友の重傷を知らされた時の私の衝撃は大きかった。私は海図に艦位を記入し予定航路にサン・ベルナンディオ水道通過の予定時刻を算出し、艦長、航海長に報告してから航海長にお願いして、伊藤中尉を見舞うため艦橋を降りた。身体を斜めにしてやっと通れる螺旋形の梯子のような艦橋「ラッタル」には生々しい血が到る処に流れついていた。
また鉄の壁面には無残に破れた鉄板がめくれ上り弾痕や破片の飛散した痕が昼間の激闘をそのまま残している。戦闘閉鎖をされた出入口のマンホールを潜って上甲板に降りると、至近弾で吹き飛ばされた機銃が銃身を「く」の字形にして台の部を抉られ、叩き潰されているのが真先に眼についた。その附近は、その機銃の銃員の血と肉片が一杯に散乱している。
他の甲板では連続の戦闘に、殆んどそのままになっている戦死者、重傷者の運搬治療に戦友達が休む暇なく活動している。私は上甲板から中甲板に到るマンホールを開いて中甲板に降りた。
むっとする悪臭(それは名状し難い戦場における艦内独特の臭である)が鼻をついた。リノリウム甲板の上には、ほとんど足の踏み場もない程、負傷者が横たわっている。士官室、ガンルームの戦時治療室だけではとても収容し切れず、兵員室から通路に至るまで、今日の戦闘で傷付いた者が寝ているのである。
足を切断した者、手をやられた者、胸を貫通した者、或いは顔面を焼傷した者等、200名近くの負傷者に軍医長と軍医中尉との2人だけと看護兵数名で応急治療を行なうのであるから、その労苦は並大抵でない。切断したばかりの脚を入れてある桶、真っ赤な血にそまった脱脂綿や包帯を入れた容器、夫等の間に寝ている負傷者、そうした中を私は足で踏まぬよう注意しながら、やっと通り抜け伊藤中尉の寝ている水雷長の私室に入った。
彼は腹部に血の滲んだ包帯を幾重にも巻き、仮製ベッドに寝ていた。顔色は幾分青ざめていたが、想像していた以上に元気で、意識も明瞭であり、私はこれならブルネーまで頑張れば、入院して案外直ぐ治るのではないかと思った。
「良く頑張ってくれたな」私は心から彼の奮闘を感謝していった。
「いやいや、戦闘中こんな処で寝ていて済まないよ」彼は如何にも残念そうに言った。
「とんでもない、貴様は名誉の負傷をして、然も部下は貴様の立派な態度に感激して士気はとても旺になっている。貴様の働きは十分だ。後はただ出来る丈静養し早く傷を直すのが一番のご奉公だよ」
私は何とかして彼を安心させ、落着いて休んで貰いたかった。
その時突然、
「配置ニ就ケ 配置ニ就ケ!」
と艦内スピーカーが叫び喇叭が鳴った。私は伊藤中尉に、「焦らず、大事にしろよ」といい残して素早く艦橋に駈け昇った。
僚艦が敵潜水艦を水中聴音器で聴知したのであった。海上は既にとっぷりと暮れ、南十字星がサマール島上に輝いているのが印象的に眼に映った。昼間の耳を聾する激闘に比し、夜は灯一つ出さず、音も極力防ぎ、全くの沈黙の内に海中に潜む見えざる敵を相手にあらゆる神経を尖らせ、無言の中に彼我の戦闘が行われる。どちらかが音を出した時、その時は既に勝敗の決った時である。
「2200」遂に敵はそのまま姿を潜めた切りであった。
「その場に休め」の号令が出た。
しかし対潜警戒は益々厳重に行なわれた。
「2300」対潜警戒航行序列より水道通過時の単縦陣列になる。
「2330」遂に3度、サン・ベルナンディオ水道を通過する。
10月26日
空は星が一面に輝き、東の山上には下弦の月が静かに上がり始めている。昨夜通った航路を今わが艦隊は傷付きながら無言のまま引返してゆく。一昨日の激戦で「武蔵」がその巨体を沈めたシブアン海も月明りに白々として艦橋にいる私達の眼は冴える一方である。
誰一人声を出さず、眼ばかり海面を見つめている。夜が明ければ、また今日も敵飛行機の襲撃だ。私達は、今は只、是以上の損害を被ることを極力避け、基地に帰り破損部の修理をして、再度立ち上る準備を急ぐことが一番大きな任務であった。一刻も早く敵機動部隊の行動半径より脱し、戦場から遠ざかることが必要である。
一昨日最初の襲撃を受けたタブロス島附近に来た時、東の空は漸く明るみ、星は次第に輝きを失い、我々に取っては実に苦手な昼間がやって来た。まだ十分に敵の攻撃圏内に、わが艦隊はその半減した勢力で何れも負傷した痛ましい姿を晒さねばならなかった。太陽は相変らずジリジリと焼け付くように照りつけ、波のない真青に澄んだ海面はギラギラとそれを反射し、今日も絶好の空襲日和である。
「0900」わが艦隊は往路と少し航路を変更し、ミンドロ島の方に北上せず、そのまま南下し、クヨー水道に向った。
果せる哉、執拗な敵艦載機は又もや我が艦隊を見出し、戦爆連合で襲って来た。連日の激闘にも拘らず、乗員は各々その戦闘配置で全力を挙げて応戦する。本艦と並行して戦闘していた第2水雷戦隊の駆逐艦2隻に爆弾と魚雷とが命中した。装甲の殆んどない駆逐艦は忽ち黒煙を揚げ見る見る傾斜して行った。
姉妹艦能代も沈没
敵機は勝誇ったようにその駆逐艦に一層襲い掛って行くのが見えた。
艦隊は「大和」を中心に輪形陣のまま、応戦しつつ南下した。落伍した2隻の駆逐艦も必死になって応戦しつつ艦隊に随いて来たが、内1隻は敵機が去った後で遂に沈没した。
僚艦が1隻でも減ずる事は残存艦の戦闘力を等比級数的に減ずることであり、従って爾後戦闘における被害は倍加するものである。如何に優秀な乗員が揃い、練度が上っても、一昨日から昨日、今日と連日、連夜の襲撃を受ければ、遂には何時か被弾あるいは被雷するのは当然である。
私達は敵機襲撃毎に今度はやられるか今度は駄目かと思うことは度々あった。しかしその都度無事に通して来た。あと今日、一日切り抜ければ一先ず敵の艦載機の攻撃圏内から逃れることが出来るのである。私達は歯を喰いしばって文字通り懸命に頑張った。
敵は更に第2、第3波と昨日に劣らず襲撃して来た。そして本艦と同型の第2水雷戦隊の旗艦「能代」に2本の魚雷を命中せしめ大傾斜を起し速力がほとんどなくなった処に、集中的に攻撃して遂にクヨー水道にあえなき最期を遂げさせたのである。本艦の姉妹艦の沈み行く直ぐ側でその乗員を救助する事も出来ず、後から襲って来る敵機と交戦する私達の心は悲壮と言わんよりは悲痛であった。
わが艦隊はクヨー水道を出てスルー海を南西へ向い、パラワン島の東側を通る如く見せるため偽航路を取り、夜になってから反転北上しパラワン島の北端を通過して南支那海に出る旨「大和」より信号を受け針路南に進んだ。
「1300」「大和」は北方上空に敵の大型機約30機の編隊を発見した。それはやがて肉眼で十分見分けられる距離に迫って来た。「B-24」32機からなる編隊である。癪に障る程悠然とその銀翼を輝かせ艦隊の真上を通り南下した。高度が高いため「大和」の主砲のみこれに発砲したが敵はやや編隊を乱したのみであった。
そして一度艦隊上空を通過し、艦の針路速力を観測して愈々反転高度をずっと下げて艦隊に水平爆撃を行なうべく再び上空に襲って来た。今度は艦隊各艦共猛烈な反撃を行なった。艦載磯の小型に比し目標は実に砲撃し易い。数個の編隊に別れた内で本艦の上空に襲って来た「B-24」は、本艦と麾下の月型防空駆逐艦の砲撃により忽ち4機はその大きな図体をバラバラにして、ほとんど本艦の真上に落ちるかと思われる程本艦の直ぐ近くの海面に墜落した。
小型機に比し大型機の襲撃はこれを迎え撃つ方もずっと余裕があった。私は水平爆撃回避盤で敵速と自艦速力とを調べ本艦に向って来る編隊の1番機を狙った。これは敵機と自艦との水平角を測定し、丁度整えた角になった時自動的に「ランプ」が灯き回避の転舵時機を知る測定盤である。私の測定により航海長が転舵号令を下すのである。従ってもしその測定を誤れば当然回避の時期を失するのだ。私は、全精神を敵1番機に注いだ。
その時は一切の砲声も敵機の爆撃の音も耳に入らなかった。その間敵機は戦艦「金剛」と「榛名」に数発の「ロケット爆弾」を命中せしめていた。やがて敵機は艦隊の砲撃射程圏外に出て編隊を整えていたが数は6機減じて26機となり、その中数機は白い煙を機尾に残しつつ南方の空へ去った。
その後、艦隊は尚敵機の襲撃を予期しながら対空警戒を厳重に行ないつつ輪型陣のまま航海を続けたが大型機との交戦を最後に遂に敵機は姿を見せなかった。
対潜警戒下の避退航行
パラワン島北端のクリオン島とルイアバカン島との間の狭水道を無事に通過し、再び南支那海に出た我々は更に厳重な対潜水艦警戒に入った。
やっと敵艦載機の攻撃圏内から脱したが、なお我々の行途には敵潜水艦とB-24型爆撃機との攻撃が予期された。
一昨日、昨日、今日と3日間連続の激戦にゴッタ返しになった艦内は、第2哨戒配置になった非番直員によって整理が行なわれ、同時にこの戦闘で戦死した50余柱の遺骸水葬の準備が行なわれた。
戦死者の中には手足が飛散した者、顔がつぶれ誰であるか不明の者、或いは足のみ甲板上にあり体がない者等惨澹たる状態で、その整理には意外に手間取り遺骸と姓名とが正確に判ったのは午後5時半頃であった。そして2名が行方不明で結局水葬者は52名である。
昨日最初の襲撃で私の直ぐ側で戦死した加治木兵曹長を始め、52名の遺骸は一人一人毛布に包まれ戦友の手により水葬用の錘が括り付けられ、5人ずつ並べて板にくくり、後甲板に安置され水葬の準備が出来た。
昨日まで苦楽を共にして同じ甲板の上で同じ食事を取り同じ目的で行動して来た戦友が、今かくも変り果てた姿で静に水葬の時を待つ光景を見つめる戦友達の顔はさすがに一抹の曇をたたえてはいるが、まだ一昨日からの激戦に昂じている神経と、既に「死」の問題にはあまりにも考えさせられたことであり、人の死も自分の死も思考の上でなく現実に眼前に容赦なく一杯に突きつけられる戦場の其只中に在る乗員にとって、この水葬は当然のことであり水葬される者の一人と自分を今置換えても大して変らない気特になっている。誰もが遅かれ早かれやがては自分もこうして葬られて行くことを知らず知らずの内に自覚し、また自覚せざるを得なくなっていた。
日没と同時に戦友の手により次々と水葬は行なわれた。私は戦闘配置の艦橋から後甲板で水葬される英霊に厳粛な想いで万感を混めて挙手の礼をした。波静かな南支部海を夕闇が覆い比島の島々も次第に小さく遠ざかり、やがて闇の中に消えてゆく中に水葬は無事終った。が、私は運命という巨大な人間の力では如何ともし難い強力な手がぐいぐいと胸を締めつけて来るような重圧感をひしひしと感じた。私はそれを払いのけるようにして海図に艦位を記入し、翌朝までの予定航路を書き入れた。
その時、艦橋ラッタルを幾分乱れた調子で駈け昇って来た軍医長が昨日からの激務に引釣った眼をして艦長に、
「伊藤中尉が……」と後を低く呟くように報告した。
やっぱり駄目だったか、と私は流石に気が沈んで行った。私は天測を終え、特に航海長にお願いして今夜伊藤中尉の側でお通夜をさせで貰うことにした。航海長は喜んで私の無理な願いを許してくれた。激戦は終ったとはいえまだ敵潜水艦の伏在する海上を戦闘航海している最中に航海長としては航海士たる私が艦橋にいないことは非常に困ることではあったが、部下思いの航海長は良く私と伊藤中尉との級友の親交を理解し、私の申出をむしろ喜んでくれた。
私は一日の記録を整理し敵状電報に眼を通し海図へ所要記事を記入し終えてから、伊藤中尉の永眠する水雷長の私室へ降りて行った。扉を開けると昼間の時と同じ姿勢で、多分伊藤中尉の部下がしたのであろう両手を胸の上で合掌に組み、私が固縛した扇風機もそのままに、薄暗い室内灯の下で一人静かに横になっていた。
何か美しい夢でも見ているように静かな寝顔で、死んでいる等とは思えない程安らかな眠りであった。折椅子を彼の寝ている直ぐ側に置き、それに腰掛け、静かに彼と共に過した過去のことを様々に想い巡らせた。
之字運動をして対潜警戒航行を続ける艦隊が定時刻毎に転舵し、その度に艦が大きく片舷に傾き、伊藤中尉の寝ているベッドがギシッときしむ。扉の外には足の踏み場もない程に多勢負傷者が横になっているが、それ等の中から傷の痛みを訴えうめき声がもれて来る。昨日程強くは感じない艦内独特の臭気は自分の鼻が麻痺しているのであろう。こうして安らかに安眠する伊藤中尉の側にいると昨日の激闘の生々しさはかえって夢のように速く感ぜられ、それよりも佐世保やシンガポールで彼と共に上陸して遊んだことや練習艦隊の時トラック島への航海中天測の最中彼が船酔いをして随分苦労したこと等が彷彿として想出され、彼が死んだという事実は少しも実感として受け入れられなかった。
熱帯近くの海上で閉め切った艦内は蒸し釜のように暑い。扇風機もかえって熱い空気をかき回すようになって来た。私はブルネー基地を出る時から一週間近くほとんど眠っていないが慣れたせいか、やはり少しも眠くなく頭は暑い艦内にも拘らず冴て来るのであった。私はつくづくと人間の生命のことをまた考えた。人間は必ず死すべきものである。我々人類はすべてこの運命を担っている。それなのに、その明白な事実の前に何故に私達は考え苦しむのであろうか。
私は伊藤中尉の安らかな、神々しいような顔を見ている内に彼の冥福を祈るよりも無言の中に彼から私の魂の底に教えられるように感じた。
0月27日
海ゆかば水漬く屍
「0530」黎明警戒の時間になり私は伊藤中尉の側を離れて艦橋に上った。
次第に明るくなる南支那海の洋上に浮び出て来たわが艦隊の全貌は5日前ブルネー基地を出る時の雄姿を知る者にとっては余りにも変り果てた姿である。
「武蔵」「大和」以下戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15、計32隻からなる艦隊の端末艦は、水平線下に隠れる程大きな部隊を編成していたが、今行動を共にしてブルネーの基地に向いつつある艦隊は戦艦4、重巡2、軽巡1、駆逐艦7、計14隻で何れも大破以下の損傷を受け「大和」は前甲板をほとんど水面近くまで沈め、「金剛」「榛名」共随所に被弾の痕生々しく、「長門」は舷側に大穴を開け航行するのにその破口部分で著しく水しぶきを上げ、重巡の「利根」は右舷に大きく傾き、軽巡の本艦は前甲板を矢張り著しく沈め、前にのめるように傾いている。駆逐艦はマストの折れたもの、煙突の破れているもの等何れ劣らず負傷している。昔、落武者が折れた刀を杖に傷つける友を負って山路を行くその様を思わせるものがある。
航路は往路の被害に鑑みてパラワン島西岸の直航を避け、ずっと西に出て新南群島の間を通ってプルネーに至る航路をとり、24日の昼食以来乾パンばかり噛っていたが今日の朝食からまた握り飯にありついた。
主計科の炊事掛の兵隊も2名戦死し、炊事室は至近弾で多数破損を受け900名近くの乗員の食事を作るのも並々ならぬ苦労である。
久し振りに時間通り定時に食事をした。配置に就いたまま立食いをする艦橋にいる人達の顔にはさすがに幾分の疲労感が見られた。それだけのゆとりが生じたのである。
新南群島の島の一つが見えたのは午後3時頃であった。島といっても少し大きな波があれば直ぐ波の中に没してしまうような小さな珊瑚礁である。それでも中には椰子の木が相当茂っている島もある。新南群島近海の測量は日本海軍でごく近年行なわれたのみで、一般には無数にある珊瑚礁のため航海には危険区域とされており、従って敵の潜水艦もこの近海は行動できず、我々に取っては一種の安全地帯のようになっている。この近海を測量された海図は軍の機密海図として各艦に配布されている。この珊瑚礁が随処に在る新南群島内を明朝まで南下航行し、明日の午後ブルネー基地に入港の予定である。
伊藤中尉の水葬を今日の日没を期して行なう旨本艦より艦隊全般へ通告した私が、その準備のため艦橋を降りたのは午後4時少し前であった。彼の安眠する室には工作科で作った立派な棺が用意されていた。
入棺時は艦長、副長とケップガンの大森大尉の他数名が伊藤中尉室に集り伊藤中尉と最後の訣別をなした。棺には彼の生前大好物であった煙草と彼が倒れるまで持っていた指揮棒とを入れ、更に温厚で信心深い副長は冥途への渡舟の舟賃にといって小銭を入れた。
入棺前に大森大尉が伊藤中尉の遺髪を取った部分が虎刈りのようになっている。すっかり棺に収まった後、水葬の時沈むように砂袋を入れ錨鎖の一部を入れた。それは彼の体の上に重く掛り如何にも苦しそうな感じがした。しかしそれも彼には感じない身体になっているのだ。
棺の蓋がなされ、それに打つ第1の釘は最も親しかった者が打つという習慣に従い、私が最初の釘を打った。全部を終ってから棺は部下の手により純白の布に包まれた上に、「故伊藤大尉之霊」と黒々と墨で書かれ、彼の部下の兵員室に安置され部下は一人一人その霊前に焼香を行なった。
日没時刻近くなり彼の柩は後甲板に運ばれそこに安置された。新南群島の水平線遥か西の彼方に、今真紅の太陽は無限の想いを秘めて静にその姿を没し去ろうとしている。海面は美しく驚くばかりに変化に富んだ色彩を反映し、果てし無い空と海とは水平線において一致し、雄大な宇宙の神秘を語っている。
その夕映えの洋上を多くの僚艦を失い、激闘に傷ついたわが艦隊は黙々と南下、基地への帰路を急いでいる。
さらば! 伊藤中尉
本艦は水葬を行なうため艦隊の列外に転舵変針した。紺碧の海に其白い航跡が長く艦尾に引かれて行く。やがて「気を付け」の喇叭が玲瓏と南海の空に響き渡った。それは勝者の喚声でもなく、敗者の絶叫でもない。祖国のため自己の任務完遂に全生命を賭して戦った者への敬虔なる祈りの声である。
後甲板右舷の手摺の一部が取脱され、棺は今部下の手により艦を離れんとしている。
「水葬!」厳かに令せられた副長の号令と共にシブキを上げて棺は南海に日が没すると
同時に海中に入れられた。
総員は挙手の礼を以って彼の棺を見送った。今までじっと抑えていた私の感情はその瞬間堰を切って熱い涙となって両眼から流れ出るのを如何とも出来なかった。十分重い錘を入れておいた彼の柩はそれでもなかなか沈まず、如何にも我々と別れを惜しむかのように白い航跡の波間に浮び、遥か後方に去ってから遂に幾千尋の海底に没して行った。
やがて洋上には夜の幕が降り南海の空には南十字星が輝き始めた。
明日はブルネー基地である。そして、最早交替勢力を全く持たないわが艦隊には既に次期作戦命令が下っていた。
(なにわ会ニュース9〜13号 昭和41年9月以降掲載)