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昭和53年9月寄稿

兄伊藤 叡の思い出

今澤 純子

伊藤 叡 父 伊藤 整一中将

 兄は半ズボンの水兵服に「大日本帝国海軍」と金色に書かれた水兵帽をかぶり、手には日の丸の小旗を持っていた。恐ろしい音と煙と蒸気と、あの臭(にお)いと共に機関車が入ってきた。昭和四年春アメリカ留学から帰国した父を久留米駅頭に、母につれられて出迎えた夜である。その夜、父に逢ったことは覚えていないが、これが私の記憶の中に兄が登場した最初である。兄は五歳、私は三歳であった。

兄は丸顔の色の白い、目のクリクリした、頬っぺたの赤い、きかん気の男の子だった。少し鼻水が流れたが、ハンカチなどは面倒くさい。手の甲で横になすってみたが、どうもうまくふききれない。手のひらで天に向ってパッとはね上げてみたら、これはうまくいったぞ!と兄は、その後はいつもその手を使って、鼻の頭をいつも黒く光らせていた。母にどんなに注意されても、この腕白小僧は小学生の間中、鼻の頭を光らせるのをやめなかった。

 父は帰国後、海軍兵学校の生徒隊監事となり、私達は校内の官舎に移り住んだ。兄と私は従道小学校の附属幼稚園に入った。クラスは一ツしかないので、私達はいつも一緒に通い、歌ったり、踊ったりして一緒に手をつないで帰ってきた。兄は家ではよく妹をいじめたが、外に一歩出ると、おかしい程に豹変して、妹を守るナイトに変わるのであった。兄はやがて従道小学校一年に入学し、私一人が幼稚園に残ったが、お兄様と一緒でなければ嫌だと言って、とうとう幼稚園はやめてしまった。一年生になった兄は家でも勉強するようになったが、そんな時、私は側にいて、仮名や数字を教えて貰うのだった。江田島での夏は毎日のように兄と共に庭先から水着姿で集会所の前の坂道を下り、松林をぬけて海岸に行って遊んだ。裏の山では、ワシワシワシワシと大きな蝉が大合唱し、午後には兄と蝉とりにも忙しくて、時々、足手まといの妹に当惑するのだった。

 私達はそれから父の転勤にともない、佐世保、福岡、鎌倉、東京と転々とした。

兄が中学に合格した春休み(その頃はもう東京に住んでいたが、)三田尻に入港した父と合流して、九州に帰省したことがあった。あの頃、私達は二等車で旅行することになっていたが、この度中学生になった兄は、学生の分際でそれはふさわしくないと申し渡された。一人では可哀想なので、妹の私が三等車の旅のお相伴をすることになった。兄は歓喜してこの妹のために犬馬の労をいとわず、やれお弁当だ、お茶だ、みかんだと走り廻った。時々隣の客車から母がのぞきに来ると、不機嫌に妹をいじめてみるのだった。

 兄はこの時から、海軍少尉に任官して、自分の力で二等事に乗るまで、いつも三等で旅行した。女の子は結婚するまで常に父の娘としての特権を享受できたが、男の子にはきびしくて、中学生になった時から、その身分にふさわしく取扱われたものだった。

 兄は昭和十五年十二月、中学五年在学中に海軍兵学校に入校した。それまでの兄は、多分母への甘えからか、母の前ではわがままで、些細なことで妹達にからんでは泣かせて、母を困らせるのが常だった。だから、母の姿が見えなければ、日本一のやさしい 「ニイチャン」なのである。兄は機嫌のよい時、妹達には、自分のことをこう呼んだ。

 ある時、母がどこかの港に入った父に逢いに行って、一週間程留守をしたことがあった。勿論留守を頼んだ人がいても、中学三年の兄は一家の責任を双肩にになって、ニイチャンがこれをして上げる、あれをして上げると小さい妹達をお風呂にまで入れてやって面倒を見るのであった。ところが、母が帰宅して一歩玄関に足をふみ入れた途端、ホッと安堵の余り、今度は妹をポカリとやって、泣かせてしまうのである。母の帰宅のよろこびをこんな形でしか表わすことができなかったのだ。

 兵学校受験勉強の頃は、ちょうど父が東京に在勤しており、父は主義である「能率的な勉強」を要求し、(勿論健康へのおもんばかりもあっての事と思うが)深夜まで勉強部屋に閉じこもるのを許さなかった。実際問題として、それでは間に合いかねたのであろう。兄は相当に苛々したようである。然し父は、そのような勉強の仕方では、かりに合格しても、入校後ついてゆけるものではないと、頑としてゆずらなかった。この時、兄は随分母に辛く当ったし、妹達にとっても、それは受難の季節であった。けれども母にとって、この横暴にも見える一人息子は、その心根のやさしさを知る故に、叉となくいとしいものであったようである。

そうした兄も、兵学校に入ってからはすっかり立派になって、母や妹達にただただやさしい兄となっていた。休暇で家にすごす数日をまたとなく貴重なものとして一刻を惜しんでいつくしみ合ったものである。この文を記すにあたり、三十年ぶりに開いた筐底に思いがけず見付けたノートの中に「昭和十七年夏」として、

かへりくる君に着せむと母君の

針はこびます 白きかすりに

兄君のゆきて いまさぬ そのあとは

ただうつろなる寂しさのこり

人生僅か二十五年と

書きし雄々しき筆のあと

まだ目のうちに ありて悲しき

との腰折れ歌があった。十六歳の少女の歌とも呼べないものであるが、当時の哀歓がまざまざとよみがえってくる。

 

 私が女学校五年の夏休み、勤労奉仕で製薬工場に通っていた時、休暇で帰っていた兄は、夕方西永福駅に迎えにきてくれていた。夕暮れに白い絣がぽっと浮かんでいた。ちょっと散歩に出たのだと言ったけれど、兄が迎えにきてくれていたのは、私には分っていた。畠の中の道を歩きながら、兄は両親を大事にしてくれと私に頼んだ。「樹静かならんと欲すれども風やまず、子養わんと欲すれど親待たず」と言うではないか。「俺は居ないのだ。」と兄は言った。それから五年とたたないうちに、このことはみな事実となり、ただ不甲斐ない妹のみ後悔のほぞをかむこととなった。

昭和十八年九月、兄は兵学校を卒業し、少尉候補生となり、霞ケ浦航空隊に入隊した。兄が友人をつれて戻ってくる休日を私達はどれほど待ちこがれたことか。

十九年一月二十六日、兄は二人の友をつれて来た。田辺候補生はピアノを上手に弾いて、「初恋の歌」を教えてくれた。

初恋の 涙にしぼむ 花びらを

水に流して泣きくらす

あわれ 十九の 春の夢

歌をうたう才能の全くない私が早春の頃必ず口ずさむ歌である。その日私はちょうど仕上げたばかりのムーンライトソナタを全曲、暗譜で弾いて妹自慢の兄を感激させることができた。

 出雲候補生は背の高いハソサムボーイで唐津の人であった。夕食の寄せ鍋をつつきながら、「この汁は美味しいね、美味しいね」と言ってくれた。やがて見事な筆跡で、

しきしまの 花と桜の いさぎよく

散る身思えば うれしかりけり

との短冊が礼状と共に送られて来た。この二人も今はない。

十九年五月、私は短期現役の海軍主計大尉と結婚して任地である四日市に去った。兄は神之池の海軍航空隊で戦闘機の訓練をうけていた。私の結婚は兄をずい分寂しがらせたようだった。兄のアルバムの中に、私達の結婚写真によせて、

 

死すべくは 戦の大野

生くべくは 光あふるる かの愛の国

黒髪長き佳き人の

姿はみえて 海は鳴る

嵐にも咲け その花よ

清くすずしく いつまでも

の言葉がある。若者が誰も持つ結婚への夢を自ら断たなくてはならなかった兄。ただ死をみつめるのみの兄の青春を、どう惜しんでよいか、私は言葉を知らない。

 

 十九年七月、夫の東京出張に伴って上京した私は、当時筑波海軍航空隊で予備学生の教官として勤務する兄を訪ねた。休日でないその日、兄は忙しく、ゆっくり話をする暇もなかったが、海軍少尉の夏の賞与をそっくり妹に与えた。二百円であった。俺は使うことはないからな、お前使えよナ」と兄は言った。これが、私が兄を見、兄と話した最後である。

昭和二十年四月、四日市の海軍燃料厳の官舎には、らんまんと桜が咲き乱れていた。桜の枝をかざして若者達は次々と散っていった。この年の春ほどに美しくもかなしい花を私は憶えない。そしてまた生涯みることもないだろう。父戦死のしらせを受けたのは二十八日のことであった。そして、その日はまた、兄の戦死の当日であった。

 三十三年を経た今、かつての慟哭(どうこく)をもって兄を泣くことはもはやありません。然し妻も残さず、ただ妹の胸の中にのみ生きる兄をいとほしむことは、更に切なるものがあります。

 この度西口さんのたってのおすすめに、持ちなれない筆をとり、つたない思い出をつづりましたが、はからずも兄への挽歌となりました。この機会をお与え下さいましたことに深く感謝いたします。

 過ぎ去った日々はただ美しく、私の思い出の中に、兄はいつまでも紅顔の無垢の少年として、湖の香ただよわせてさわやかにほほえんでおります。

(編注) 

 今澤純子さんは伊藤 叡の妹で、父君は昭和二十年四月六日、戦艦大和とともに沖縄に突入した二艦隊司令長官伊藤整一中将(三十九期)である。

(なにわ会ニュース39号 38頁 昭和53年9月

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