TOPへ     戦没目次

平成22年4月24日 校正すみ

石間正次郎君を偲んで

上野 三郎

上野三郎 石間正次郎 航空母艦 瑞鶴

  太平洋戦争当時、最も長い間起居を共にしたのはあの真面目一本の石間君で、その記憶は未だに鮮明である。

 昭和十八年九月十五日から十一月上旬までの伊勢での訓練後東京で拝謁、横須賀から翔鶴に便乗してトラック島に碇泊していた瑞鶴に着任したのは十一月も押しつまった頃であった。兵科、主計科のコレスと共に貝塚艦長に着任の挨拶に伺ったが、艦長は非常に明るいザックバランの豪傑肌の人で、ベッドの上に板をひいてその上にあぐらをかいての対面で固苦しい事は全くなく頼りになる親爺という感じで、形破りのやり方に艦長のやさしさと気配りを覚えたものである。

五十二期の吉村理機関長附が色々と業務の事について親切に教えてくださり、小生が四十六期の島崎嵩機械科分隊長、石間君が五十期の原正道罐分隊長の下に配属された。最初にやらされた事は夫々の部署における配管系統とバルブ位置の確認で、これが急にはなかなか覚えられず、覚えなければ、それからすぐやらされた戦闘訓練の草案が書けないので最も苦労した。

石間君と一緒に罐室や機械室の底を這い回り、パルプ位置を記憶し、草案づくりに努力した。今でもその時の事を夢に見る事がある。石間君は生来おっとりとしていて、どんな時にも慌てず一呼吸してから答を出すという所があり、性急な私とは対照的であった。着任後吉村先輩の親切な指導で石間君も私も少しずつ仕事を覚えてゆき、一部の仕事を任せて貰うようになった。

罐分隊士としての石間君は部下の人事管理でも細かい気配りで、またゆったりとした人柄で部下の信頼を得ていった様に思う。原分隊長も温和な御人柄で石間君を評価されていた。休養の時にはトラック島に上陸して熱帯の植物の観察をし、住民の生活を見るのも楽しみであった。私は島崎機械科分隊長の分隊士として、分隊長の温い人格にふれることができたが、今にして思えばどれだけ先輩の期待に添えたのか全く自信がなく、どうも余り良いスタッフではなかったのではと心残りである。一度も叱られた事がないだけに反省しきりである。

呉鎮所属の瑞鶴は昭和十八年暮近くになって呉に帰投し、岩国基地から戦闘機・艦爆・艦攻八十機余を積み、バシー海峡を通ってシンガポールのセレタ基地まで昭和十九年三月末までの間に三回程のピストン輸送に従事した。四月からはア号作戦開始まで赤道直下で激しい航空機の離着艦訓練が行なわれ、内地から運んだ航空機の二十パーセント以上が訓練で失われ、同数の殉職者が出た様に思う。当直の合間に数多くの事故を見て、搭乗員の無念の意を偲んだ。訓練の合間に修理と燃料補給でシンガポールに寄港し、二〜三回分隊長、吉村先輩・石間君と街に出て食事したり、植物園を見学したりした。リラックスした楽しい一刻であった。この時或レストランの中国人メイドに世界で最も偉い人は誰かと尋ねた所、二十歳に満たない娘がはっきりと蒋介石と明言したのには驚いた。日本の軍人の前でも臆せず答えられるとはすごいと後で石間君と話した事を覚えている。

米海軍、空軍の活動は日を追って盛んになり、海上決戦の日が近い事を予感し、航空機の離着艦訓練は益々激しく、碇泊地での機関科部門の応急訓練も本格的になり、石間君と私は訓練を兼ねて応急班指揮官を交替で兼ねる事になり昭和十九年五月早々に先ず私がその任に就いた。罐室、機械室に魚雷や爆弾が命中した時に被害が他に及ばない様に処置するのが仕事である。応急作業は全般的なもので、兵科では運用科がこれに当った。六月十日前後までボルネオ タラカン沖で訓練を続けつつ待機し、米機動部隊がサイパン近海に北上するという情報で、ア号作戦が指令され、六月十六日フィリピンのコスソル水道を通って八十隻余の大艦隊が北上して東進、太平洋に入った。六月に入って機関科応急班指揮官は石間君に交替させられた。当時私共候補生は訓練を兼ねての配置転換が多かった。六月十八日空母二隻が潜水艦の魚雷攻撃で沈没、同日午後二時頃索敵機が米空母三群を発見、直ちに航空部隊は得意の薄暮攻撃を進言したが、艦隊長官は航空機の帰投が夜になるので着艦困難との理由でこれを受理せず、翌十九日早朝に発進を延期した。これがア号作戦敗戦のキッカケになった事は作戦参加者全員の知る所である。

翌六月十九日、各空母は索敵機を午前二時から発進させたが夜明けになっても発見できず、午前十時頃敵索敵機がこちらの艦隊を発見し、体勢は逆転した。午後二時ようやく当方の索敵機が敵艦隊を発見、母艦にZ旗を掲げて第一攻撃隊二二〇機、続いて第二次攻撃隊と計四〇〇機余が発進して攻撃に向った。しかし、なかなか敵艦隊を発見できず、逆に六、〇〇〇メートルの高空に待機していた敵戦闘機に攻撃され見るべき戦果なく、陸上基地に着陸しようとしていた残った航空機は上空で待構えていた敵機の餌食となった。母艦の天側位置が五〇浬実際とは違っていたという。かしくて我機動艦隊は折角の戦機を掴み損ねて航空機なしの裸となった。後は敵航空部隊による思うがままの攻撃に曝(さら)されることになる。果して六月二十日は昼前から数次に亘る激しい雷撃爆撃に曝された。貝塚艦長の巧な操艦により雷撃は逃れたが数発の直撃弾、無数の至近弾を受け、発着艦は不能となり、艦の両舷側は大小無数の孔が開いた。雷撃を避けることができなければ沈没していたかも知れない。

  朝食時石間君と今日はいよいよ激しい戦闘だ。頑張ろうといって戦闘配置についた。間もなく始まった第一次攻撃で応急斑の真横の海面に落ちた爆撃の破片が小さい応急班室内を駆けめぐり石間君の大腿動脈を破り、部下数名を傷つけ室内は火事になったが消し止めた。石間君は手持の止血帯で止血をした様であるが大腿内側の動脈は極めて止血の難しい所で、近くに拳大の石ころの様なものでもあれば、これを布で包み動脈部上位に当て締めつけて止血でき助かったと思われる。非常に残念な事であるが完全な止血をする事ができず、出血過多で他には何の傷もないのに戦死してしまった。四十七名の戦死者、二百余名の負傷者があり衛生班は手の負える状況ではなかったし、また当時大腿部止血の為の止血道具は誰も持っていなかった。今思うだに残念でならない。第一次攻撃が終り機関室から上ってきた時には既に戦死しており手の施す術もなかった。数次の敵機攻撃が終り、夕刻になっても早攻撃がないという時点で機関室から出て部下と共に石間君を新しい衣類に着換えさせ、傷口を見たが意外に小さなもので、これ位の傷で出血死するとは思えない程で非常に残念であった。艦内は飛行甲板から各階のフロア、階段すべて血と脂と異様な臭気で、遺体の置いてある風呂場の床は血の海であった。

六月二十日夜敵艦隊に突込むべく東進したが、東京からの指令で沖縄に帰投を命ぜられた。六月二十一日水深一万米近い沖縄海溝で戦死者を水葬にする事になり、ラッパと読経の中で四十七名の戦死者が水葬にされた。その情景と無念の想いはつい昨日の事の様に鮮明で、生きている限り忘れる事はできない。戦闘の一週間前まで応急斑に配置されていた私は、命令で配置が変るとはいいながら石間君とご家族の方々に申し訳にという気持で一杯である。

沖縄中城湾に碇泊して、六月未呉に帰投、大竹の潜水学校普通科学生希望で赴任したが、肺門リンパ腺炎という事で入校を許可されず、七月から十月初めまで山城の応急班として勤務、次いで横須賀の工機学校に赴任した。

そこで十月中旬だったと思うが静岡市内の石間君の家に御両親を訪問、瑞鶴での生活・訓練、そして戦闘の時の模様を詳しく報告した。この時のつらい気持は今でも忘れる事ができない。御父上は洋服の仕立業を経営され目の優しい真面目一本の御人柄で、御母堂も温和そのもの御親切な方で、初対面なのに心の悲しみを抑えて最後の模様を聞いていただいた。そして静岡は気候温暖で果物や食べ物がおいしく豊かで住むなら静岡ですよと云われたのが記憶に残っている。石間君の温和で誠実一途の人格が御両親の御人柄と家庭環境にあることがうかがわれた。

昭和十八年九月十五日の卒業から二十年八月十五日までの一年十一ケ月は五十三期生の人生そのものである。

この間半数余の級友は人生を終えた。石間君との七ケ月は同じ仕事を分ち、共に苦しみ共に学んだ貴重な月日であった。その後終戦までは単独で、級友と同じ職場に居た事はない。また戦後別な学校で多くの級友を得たが機関学校程心の通い合うものはなかった。

十代の少年が護国の至情に燃えて身命を捧げるという雰囲気が機関学校の教育そのものであり、従ってそこの級友と戦後の学校の級友とのかかわり方が違うのは当然の事であろう。これは兵科、主計科のコレスでも全く同じだろう。我々の心の財産は、機関学校三年足らずの級友、先輩、後輩との心のつながり、云わずしてわかり合える信頼関係と尊敬の念である。五十三期の級友は永久に百十一名である。それは機関学校生活の中で、我々の身体の中で脈々として生きている。これを心の拠点として今後の人生を力強く生きてゆきたい。

機53期記念誌 47頁

 TOPへ    戦没目次