石川第19分隊幹事とのご縁
高橋 猛典
昭和一七年一二月一日から一八年九月一五日までの約一〇ケ月間、一号生徒として過した第一九分隊。私の七〇年の人生の中で最も充実し鮮烈な想い出に満ちているはずなのに、何故か当時の記憶は茫漠として、同じ一号仲間、そして二号、三号生徒の諸君と共に過した日々の、或は楽しく或は苦しかった数々の思い出、エピソード等を明確に思い出せないのはどうしたことだろうか。単に五〇年という歳月のなせる業か。いまだ健忘症になったという自覚はない。卒業後一〇ケ月間の飛行学生生活、そしてその後一年間の酷しかった戦地勤務の中に、過去はすべて埋没してしまったのだろうか。或は敗戦と共に外地にあってすべての記録を焼却し、生あって復員したものの家は空襲で焼けて無く、間借りした親戚の一間での失意の日々。既に亡くなった父にこういう時はもう一度勉強し直せと励まされて漸く立ち直り、「軍人として戦って来た者がなぜ医学を志すのか」という口頭試問での教授の言葉に反撥を感じながらも進んだ医学部。過去とはまさに百八十度違った途を辿って勉強、研究、診療に明け暮れた四七年間が、想い出の数々をも消してしまったのだろうか。
いずれにしても一九分隊の思い出を書こうとしても仲々に筆が進まず、うらめしくも口惜しく思われる。
分隊監事 石川浩大尉
以上の次第で分隊生活の日々の想い出を語ることが出来ないのは本当に申し訳なく残念だが、その私にも石川分隊監事との因縁とも思われる想い出は昨日のことのように残っている。あれは卒業を間近に控えた或る晩のこと、我々一号は順番に当直監事室に呼ばれ
て分隊監事からお話があった。
「高橋お前は恋人がいるか」 「おりません」
「俺なんか六年生の頃初恋の女の子がいたぞ」
兵学校に入って初めて聞く別世界のようなお話の切り出しであった。後から考えるときっとリラックスさせるお積りだったのだろうが、こちらは却ってどきどきしてしまったのを覚えている。
続いて「一号生徒としての成績は大変に立派だったが、二号、三号の時はどうしたのか」
「私は理数系が余り得意ではない上、緊張の連続で心身共に疲れて勉強努力が足りませんでした」
「そうだな、人間には適性というものがあるからな。ところでお前は将来の志望に飛行科熱望と書いているがどうしてか」
卒業前の我々には以前に将来の志望調査があり、私は生来乗物に弱く岩国航空隊での航空実習でも初めて乗せられた練習機で散々酔ってしまった苦い経験があったのだが、それでも航空熱望として出していたのだった。
「これからの戦争は何と云っても飛行機だと思います」
「そうか。お前のように地味でおとなしい男は潜水艦でも志望するかと思ったが、やはり
そうか。卒業後も頑張れよ」
その他にも色々とお話合いした記憶はあるのだが内容は覚えていない。
卒業後私は志望どおり飛行学生となり、霞空での五ケ月間の練習機訓練を終え、今度も志望どおり中攻の四一期飛行学生として開隊したばかりの宮崎航空隊に着任、同じく五ケ月間九六陸攻、一式陸政での実用機訓練に励んだ。此の間あ号作戦の時は学生ながら硫黄島方面索敵の実戦に参加。梅雨時の悪天候の中を、無事任務を達成し、三日問の作戦中唯一人敵潜水艦を発見爆撃、司令に賞められた自慢話もあるのだが、一九分隊とは無関係なので割愛する。
さて一九年七月、実用機訓練課程を終えた私は九〇一航空隊附として館山航空隊に着任したが、間もなく本隊は台湾高雄だと云われて九七大艇に便乗し高雄郊外の東港水上基地を経て高雄基地の九〇一空に着任した。そして約二週間の訓練後マニラ派遣隊勤務を命ぜられて、マニラのニコルス基地に進出、連日哨戒、偵察、或は輸送船団護衛の為一日七、八時問飛び回っていた。
船団護衛、石川艦長戦死
そして忘れもしない八月二一日、その日も比島西岸すれすれにマニラを目指して南下する輸送船団護衛に朝から出動した。当時はまだ立派な輸送船があって七、八隻の船団は堂々と見事で、その外側を海防艦六隻が護衛していた。我々はその上空五〇〇米で南方の強い陽光に輝く海面を睨みながら、敵潜見逃がすまじと、見張っていた。それまでにも私は比島西岸で透明度の高い海中に数回敵潜を発見していたが、いずれも反航態勢で運動性能の鈍い中攻ではとっさに爆撃針路に入れず、鯨の如く深海に逃れて行く敵潜の黒い影をみすみす見失って逃がしてしまった口惜しい経験があり、日夜対潜攻撃の戦術を考え頭を悩ましていた。そして今船団を護衛している海防艦群の旗艦日振に、石川分隊監事が艦長として乗っておられること等知るよしもなく、上空からの見張りを続けていた。船団が丁度、後日マックアーサー指揮の米軍が反攻上陸したリンガエン沖にさしかかった頃、一三三〇頃だったと記憶しでいるが、私は左前方約一〇度、今度は船団に並走順航する潜望鏡らしきものを発見、瞬間的に雷撃寸前の敵潜と判断し、そのまま約三〇度の潜爆降下に入り、照準もぴたりと決って高度約二五〇米で二五番対潜爆弾を投下、直ちに機を引き上げたが直後に物凄い爆風にあおられて失速しそうになった機を懸命に操りながら、爆撃手の「命中、命中」という歓声を聞いた。漸く機を立て直して爆撃海面上空を旋回しながら効果を確認。走り廻る護衛船に低空から報告球を投下。「爆撃効果確実なるも附近に敵潜多し、見張りを厳にされたし」後から考えるといささかスタンドプレーめいた気もして恥ずかしかったが、当時通信設備貧弱で艦と直接通話出来ないのが実状であった。艦上には我々に手を振る戦友の姿が手に取るように見られた。
しばらく上空で見張りを続けた後船団の無事航行を祈りながら基地に帰投。護衛艦から通信室に入った連絡でも撃沈確実とのことで、大切な船資材、多くの陸軍将兵を護衛出来たことで興奮した一夜であった。ところが翌朝は我々には出動命令が出ず、どうしたことかと心配していたところ、午後になって本日未明マニラ湾口沖で船団全滅、六隻の護衛艦もすべて敵潜攻撃により撃沈されたという悲報が入り、一夜の喜びも束の間で悔しさに地団駄をふんだ覚えがある。然し護衛艦の艦長はお一人を除いて生存しておられると聞き悲しさの中にも僅かに救いを感じたのだったが、艦と運命を共にされたそのお一人が日振艦長石川分隊監事だったとは、後日そのことを知った時の悔しさ、茫然とした私の頭の中をか竹めぐったのは、あの卒業前分隊監事と語り合った心温まる一夜の想い出だったのを憶えている。そしてこれ程の御縁がありながらどうして分隊監事を護って差し上げられなかったのか。無事入港しておられたら或はマニラでお目にかかって、積るお話も又リンガエン沖のことも何とおっしゃったろうかと、ただただ残念無念の日々であった。
マニラ、台湾、上海、元山
そしてその後一ケ月経った九月二一日敵機動部隊艦載機の大空襲により私の隊も全機を失い、私はマニラ南方のキャビテ水上基地から再び九七大艇に便乗して高雄基地に帰り、南西方面各地の作戦で飛び回っていたが、二〇年三月には上海戊基地に移り、四月初めから始まった沖縄戦の時はP-51六機の攻撃を受け、一二〇発被弾、蜂の巣のようになったが、幸運にも顔面の負傷のみで一時失神しながら操縦を続け生還したこともあった。その時程神の御加護、自分の強運に感謝したことはない。それが戦後そして現在の自分に或はつながっているのかも知れない。その後も九州大村基地、北鮮元山基地と移動しながら哨戒索敵の任務に従事した。元山基地からの哨戒では絶対にソ連国境を越えてはならぬと命令を受けていたが、或未明私自身では判っていたのだが偵察員のいうとおり飛行を続けていたところ、ウラジオストック近くまで行ってしまって高射砲射撃を受けたことがあったが、当時のソ連の戦力は大したことなく悠々と逃げられた。ソ連参戦後になって羅津港湾地区を空襲し八○番爆弾で爆撃したこともあったが、その時は雲量多く効果は確認出来なかった。後になってウラジオ艦隊攻撃位出来たのにと思ったこともあったが後の祭りであった。
こうして元山基地で敗戦の日を迎えたが、なお本土決戦の為北陸小松基地に進出せよとの命令あり、一式陸攻一〇機を率いて月明の日本海を渡って小松に移動したが、期待に反して最後の戦争をすることもなく一週間後には隊解散、全員帰郷という予想だにしなかった経緯で私の戦いは終った。これに対して隊長以下元山基地に残った地上員は数日後ソ連軍の進攻を受け、シベリヤ抑留の悲運に遭われたことを後日知って、今度も自分の強運に驚いたものだった。
戦後四八年、あのマニラ湾口で石川分隊監事を失ってから間もなく四九年になろうとしているが、第一九分隊は諸君の熱意と努力で今日まで歩き続け、こうして想い出の一端でも書ける幸せな人生を感謝すると共に、分隊監事はじめ戦死された方々、或は戦後未だ若くして病没された方々の御冥福を心から祈る次第である。
(19分隊会誌−平成6年2月発行−から転載)
(なにわ会ニュース第70号31頁 平成6年3月)