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平成22年4月24日 校正すみ

平成12年10月

 忘れ難い人たち 石川誠三

小灘 利春 

 72 金剛隊 58 昭和20年1月12 グァム島アプラ港突入

海軍兵学校72期の六百人中、九番で合格した秀才であるが、肩幅のある太った体つきの、陽気な人物であった。

米国駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した故・勝山 淳少佐と同じ水戸中学の出身で同様に典型的な水戸っ子である。

自らの思うがままに行動し、軍隊の組織の中にあっても天衣無縫、時に奔放不覇とも見えた。

私と一緒に第16戦隊旗艦の重巡洋艦「足柄」の乗組みになり彼は航海士を勤めた。

悪気はないが遠慮のない物の言い方なので艦内で波風を立てる事もしばしばであった。しかし、攻撃的に見えて相手の事情を適確に洞察しており、陰の配慮も行届いていた。名実ともにリーダーの資質を備えていたと言える。その故に、今も彼への愛着を誇る友人が少なくない。

 彼は私と共に回天の搭乗員を命ぜられて大津島で搭乗訓練に入った後も、明るい表情で我が物顔に闊歩する態度は変わらなかった。回天特攻の出撃が始まり、石川中尉は第一陣の出撃者に選ばれた。しかし海軍上層部は海上戦術、特に奇襲兵器使用の根本である「先制・集中」の大原則に背いて、出撃の規模を直前に大幅カットした為に外され、

彼は第2陣の金剛隊伊号第58潜水艦で191230日大津島を出撃した。

その日の朝、彼は最高に上機嫌であった。そして「オイ、予科練を鍛えろ」と、搭乗員分隊長の私に一つだけ注文を付けて出ていった。 

工藤義彦中尉、森  稔二飛曹、三枝二飛曹と共にグアム島アプラ港を目指して進み、1月12日未明、母艦甲板上の回天に乗り移った。発進予定地点へ潜航接近してゆく母艦の中で、連絡係りの砲術長が電話機に耳を当てると、発進準備万端を終えた石川誠三中尉が独り操縦室内で吹く口笛が聞こえてきた。

目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡にいたわしや

曇る今宵の金屏風 誰の脊やら罪じゃやら

千々に乱れる思い出は 過ぎし月日の糸車 

後は予定地点に着いたら母艦を離れて突撃、散華する。その時を待つのみの虚心坦懐の姿であった。アプラ港の沖合に到着して艦長の指示を受け、一号艇の石川中尉は声高らかに「天皇陛下万歳」を奉唱して発進、

続いて3艇が次々と発進して一路、敵艦船の停泊地へ水中追撃していった。彼にも多くの遺詠があるが、率直な性格であるだけに、母上に対する愛情も家族への思いも飾らずに表現しており、特攻隊員としては異色のものがある。戦後私が復員してから、御遺族に連絡を取ったところ折り返し母上から長文のお便りを戴いた。

国の為に捧げたものながら命を喪った我子に寄せる絶叫にも似た母親の思いが切々と記されていた。母の愛情というのはかくも強く激しいものかと、私は強烈な衝撃を受け、声もなかった。

回天で戦没した仲間達の御両親の御気持ちも皆この様なものであろうかと、改めて一人ひとりの家庭に思いを馳せた。

 彼の遺詠のひとつは、

思はじと 思えどとかく思い出る 故郷の母よ 健やかにおはしませ

  (HPより)

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