平成22年4月24日 校正すみ
回天塔乗員の最期
押本 直正
「明日は元旦か、すると今夜は大晦日というわけだなあ」 つぶやくような低い声で石山中尉。
「そうだなあ、俺達も明日から二十三歳というわけか」
答えるというわけでもなく、前方を凝視したままの田村中尉。
二人はいま、西太平洋の潜水艦上にいる。 強い北東の季節風を真横からうけて、排水量二千屯弱のイ号五十八潜水艦は、かなりローリングを続けている。
「あれ、覚えているか」ぽつんと田村。
「うん、寒かったなあ」と石山。
◇ ◇ ◇
話は丁度四年前にさかのぼる。
昭和十五年十二月一日。彼等は広島県江田島の海軍兵学校に入校した。石山は水戸中学から、田村は九州の一中学から。
「全国の俊秀、きそい江田島に集う」
当時の呉の新聞はこんな見出しで彼等の入校を報じた。しかし、実際はそれどころではなかった。
彼等が期待していたものは、ショートジャケットに短剣をつり、白い手袋をはめたスマートな海軍生徒である。ところが、彼等を待っていたものは、「赤い練瓦にゃ鬼が住む」といわれた上級生徒達であった。
上級生徒は決して鬼でも蛇でもなく、彼等と同じ「全国の俊秀達」であったが、二〜三年の江田島生活が彼等の思考と行動を見事に練り上げて、中学校を終ったか終らぬ新入生徒たちから見れば、まるで鬼としか思えぬ点だけ目立ったのである。
この上級生徒達も十二月下旬から冬の休暇に入り、江田島には新入クラスだけが残された。「鬼のいない間に洗濯」というわけでもないが、とにかく割合にのびのびとした気分で、その年の大晦日を迎えた。事件はその夜起こった。
一、至誠にもとる無かりしか
一、言行に恥ずる無かりしか
一、気力に欠くる無かりしか
一、努力に憾み無かりしか
一、不精に亙る無かりしか
毎夕就寝前、彼等はこの五省を唱えて一日の自分の行動を反省するのが日課であった。当番の生徒が一つずつ区切りながら、厳かな声で問いかけてくる。他の者は瞑想し、静寂な時が流れる・・・。突然クスクスと笑い出した者がいた。石山である。その夜の五省当番は田村であった。田村には笑われた理由がすぐ判った。九州出身の田村には「セ」の発音ができない。どうしても「シェ」と発音してしまう。江田島に来てから田村はこのことを気にしていた。注意している時はよいが、不用意に「五省」となり「至誠」になってしまう。彼は石山をにらみつけた。石山は真剣な顔に戻って再び瞑目した。
しかしながら気のおさまらないのは田村である。大衆の面前で笑われるということは九州男子の彼にとっては、甚だしい屈辱であった。ペットに入ってからどうしても寝つかれない。口惜し涙が出た。ついに彼は意を決した。決闘してやろう。就寝後は用を足す以外寝室を出ることは禁ぜられている。しかし、その夜は上級生徒も休暇で不在だ。
「石山、起きろ、表に出ろ」
石山は既に寝息を立てていたが、ぐずる石山を引っ張るようにして二人は寝巻のまま、寝室を出た。
校内の一隅に八方園神社を祀る林に囲まれた小高い丘がある。田村は石山をそこに連れ出して詰問した。
「何を笑った。何がおかしい」
「おかしいから笑った。何が悪い」
石山も水戸ッポである。平然と答えた。
忽ち田村の鉄拳が石山の頬で鳴った。
二人はそのまま格闘に入り、十数分くんずほぐれつの乱闘が続いた。
「止めろ! 二人とも何をしている」
突然、怒声が聞えた。騒ぎを聞きつけた当直教官の林大尉がやってきたのである。
「除夜の鐘までここで頭を冷しておれ」
林教官はそういって立去った。
汗でぬれた寝巻が凍てついてくる。裸足の足裏から、素手の手先から、はだけた胸元から寒気は容赦なく二人を襲う。頭も体も冷えに冷えた。
二人は向い合ったまま一時間。やがて昭和十五年をおくる除夜の鐘が鳴り始めた。
◇ ◇
「林大尉も戦死されたらしな」と田村。
「うん、去年のサイパン沖だ。もっとも、俺もあの時は艦が沈んで、半日程泳がされたよ。貴様はあの頃はどこにいた?」
「大竹だ。潜水学校の学生だった。
艦のゆれがピッチングに変った。敵襲に備えて、たえずジグザグ運動を繰り返しているためだ。二人の間に沈黙が続いた。
石山は何を考えているだろう。田村はそれが知りたかった。
◇ ◇
昭和十九年四月、日本海軍はついに必死必殺の兵器を採用した。その名を「回天」という。潜水艦から発射する魚雷に人間を乗せて必殺を狙うというアイデアは、開戦時の真珠湾攻撃の特殊潜航艇にその兆しを見ることができる。そして、昭和十八年のガダルカタルの敗退、さらに彼等の教官、林教官を失ったサイパン沖海空戦以来、この態勢を一挙に挽回すべく、この恐るべき特攻兵器は石山等の若い士官によって開発され、実用化されたのである。
◇ ◇
石山はその特攻兵器回天の搭乗員、そして田村は石山を搭載し、発艦する母艦潜水艦の乗組砲術長である。
昭和十九年十二月三十日、この2人を乗せたイ五十八号潜水艦は、瀬戸内海の基地を出港し、はるか南海の彼方、グァム島の敵艦隊攻撃に向かった。
攻撃予定日 昭和20年1月12日
石山の死は旬日の間に迫っていた。しかしその言動は平素とすこしも変らなかった。
むしろ、田村の方が緊張していた。冗談をとばしながら五目並べや将棋をさし、日本刀を振りかざし魚雷にまたがり大鯨を退治している漫画をかきちらしている石山。
あの大晦日の夜、「何がおかしい」と平然と構えていた
彼と全く変らぬ石山に、むしろ羨望に近い感情をすらいだかされた。
◇ ◇ ◇
昭和二十年の元旦は、太平洋上に明けた。東の水平線遥か彼方から大きく浮び上ってくる初日の光は、たくましく黒い潜水艦の船体を暖かくつつんで、海面にまぶしいばかりの金波を漂わせていた。そして航海中は禁ぜられている酒も、この日ばかりは特に許された。
缶詰の餅で雑煮がつくられ、司厨員の心づくしの正月料理に舌づつみを打った。
「うまいなあ、しかしあの時の雑炊はもっとうまかったなあ」
祝盃に顔を赤くして、いつになく多弁になった石山が田村に話しかけてきた。
「あの時? あゝあの漁師の雑炊か」
雑炊にはもう一つの思い出があった。
それは彼等が兵学校二年生の時のことであった。その前年の十二月八日、戦争が始まった。しかし兵学校生徒の生活には大した変化もなかった。「生徒は平常通り勉強しておればよろしい」という校長の方針で平常の授業が、平常の日課通り行なわれていたからである。
帆走巡航もその一つ。全長九米、幅員二・三米、大型のカッターにマストを立て二枚の帆を張って、瀬戸内を終夜帆走する。生徒にとっては最も楽しい行事だ。
毎週土曜日、兵学校名物の棒倒しに渾身の勇をふるった後、生徒達の操縦するカッターは、軍艦旗をなびかせながら江田内を出港する。
カッターは出て行く ポンドは暮れる
さして行く手は宮島よ
帽子ま深かに 月の眉かくし
微笑をふくんでチルラ取る
生徒達のうたう巡航節が夕暮の海上から聞えてくる。やがてとっぷり日が暮れると、艇首の波を切る音がさわやかにきこえ、航跡の中に夜光虫が青白く光り出す。
石山、田村たちの七十二期第二十分隊二号生徒のカッターはその日、先頭を切って湾口を出た。
天気晴朗、風向西の微風、セイリングには絶好の天候である。湾口を出た所に安渡島という小島がある。周囲約五十米、枝振りのいい松が数本、格恰の航路目標である。その安渡島も忽ち航跡の彼方に。厳島神社のある宮島まで約十海里。厳島神社の朱塗りの大鳥居は折柄の満潮に海中に吃立している。
「大鳥居、宣侯」
艇長の増田が針路をぴたりと鳥居の中央に向ける。
「合戦準備夜戦に備え。両舷砲戦用意」
時ならぬ号令がかけられたが、実は、昔から兵学校生徒の間には、甚だ怪しからぬ習慣がうけつがれていた。
厳島神社の鳥居を船でくぐる時には必ず放尿せよ、小便が鳥居の脚までとどけば、祭神である女神がご満悦なさる、というのである。児戯に類する行為ではあるが、一同は大真面目になって、両舷砲戦を行なった。鳥居を抜けるとオールを立てて、艇内に起立、海上からの参詣を終って帰路につく。
天候は依然として快晴、風は微風、四月の夜空には乙女星が青白く輝やき、正子(午前零時)をまわると、さそり座の主星、アンタレスが南東の水平線にその華麗な姿を見せ始める。その頃になるとそろそろ疲れが出て、眠くなる。当直員を残して艇内にごろ寝をはじめた。
何時頃であったろうか。田村は体の上に重圧感を覚えて目がさめた。気がついて見ると大帆が下され、その上に水が一杯たまって、田村を圧しているのである。風と雨とがかなりはげしい。
「どうしたのだ。船の位置は何処だ」ねぼけ声で尋ねると、石山が
「早く起きろ〃‥大変だ、風と雨がひどくて湾内に入れない。総員橈漕中だ」と叫ぶ。
起き出して見ると皆必死になってオールにしがみついている。田村も勿論こぎ始めた。しかし、南西の風雨はますます強くなり、艇内は雨水と湖水が浸水、根限りの橈漕を続けても船は風と潮に流されるばかり。洋角灯はもう用をなさぬ。懐中電灯もつかなくなった。外は真の暗である。艇の位置も判らなくなった。時折りゴオッゴオッと海水が艇内に入ってくる。昨夜あれほど好天気だったのが、今は全く正反対。九名の生徒達もなすすべがなくなった。マストを倒し、シーアソカーを入れてみたものの、ただ運を天に任すばかり。 ようやく東の空が白んで来た。波しぶきと強い雨足の中にうすぼんやりと陸岸らしきものが見え始めた。
「陸が見えるぞ−」誰かが、アメリカ発見のコロンブスのように怒鳴った。
「とにかくあそこへつけよう」一同最後の力を振りしぼって漕ぎに漕いだ。
見れば断崖の下にわずかばかりの砂浜がある。カッターは打上げられるようにそこに着いた。
◇ ◇ ◇
「うまかったなあ、あの時の雑炊は」と石山が言ったのは、その時、附近の漁師たちがたき出ししてくれた雑炊の味のことを思い出していたのである。
「あの時の艇長だった増田だけどね。レイテ沖海戦で、索敵に出たまま帰って来なかったそうだよ」と石山。
「あいつは運動神経が発達していて、体操も水泳も特級だったのになあ。去年の夏、横須賀で会った時、いかにも飛行機乗りらしくなっていたよ。長髪にポマードなどつけ、急降下が得意だと話していたが……。先に行っちまいおったか、惜しい男をなくしたもんだ」
そこまで言って田村は、ハッと思った。 そうだ、この石山だって俺をおいて十日後に行ってしまうのだ。これが戦争というものだろうか。
昭和十八年の九月に、江田島を卒業した彼等のクラスは、彼等が入校当初考えていた憧れの遠洋航海もなく、直ちに海に空に第一線の初級指揮官として展開していった。
そしてわずか十五ケ月の間に、すでにその五分の二が散華していた。
散る桜 残る桜も 散る桜
誰かが潜水学校の学生舎の壁に書き残していったが、それが実感として田村の脳裡をかすめた。
◇ ◇ ◇
一月十日、呉にいる潜水艦隊長官から、「各艦所定の奇襲を決行すべし」という電報を受理した。いよいよ予定通り決行である。
ウルシーをはじめ、アドミラルティー、バラオ、コッソル水道、ホーランディアに向った僚艦も、イ号五十八潜水艦と同様に、それぞれの攻撃目標を限前にして、最後の仕上げをしているであろう。田村も忙しくなった。
石山に最後の目的を果させてやるまでは、一瞬の油断も許せない。もし途中で敵に発見されたり、回天の発進に支障を来たすようなことでもおこれば、それはすべて田村の責任である。石山を犬死させてはならない。これが兵学校入校以来五年間、石川との間につちかわれた最後の友情であり、せめてもの餞である。眼を血走らせての見張が続いた。
◇ ◇ ◇
昭和二十年一月十二日午前三時。愈々決行の時が来た。
「行くぞ」 石山はただ一言。
「頼むぞ」 田村もただそれだけ。
互いに 一言だけの応答の中に充分意は通じた。
「一号艇発進始め」
艦長の命令が艦内に響いた。石山艇のスクリューが廻り始めた。今まで、連絡電話を通じて聞えていた石山の「目ん無い千鳥」の口笛が消えた。この最後の瞬間、田村の耳タブには、「天皇陛下萬歳」と高らかに唱える石山の声だけが残った。
◇ ◇ ◇
あれから二十五年、石山は永遠に還らず、田村は残った。そして増田をふくむクラスメートの三分の二が戦陣の彼方に消えていった。
田村は時々夢を見る。
石山が白い寝巻を着たまま「おかしいから笑った。何が悪いと平然と言う時がある。
飯粒をほっペたにくっつけて、うまそうに雑炊を喰っている時がある。
狭い潜水艦の中で漫画を書いている時がある。
◇ ◇ ◇
『決行期日に至る 搭乗員四人とも元気旺盛、アブラ港を震験せしめんとす
月淡く星影疎にして一月初旬の大宮島、眠れるが如き姿態を浮ぶ
誰か知る数刻後の大混乱を
大君の御為 命の礎にわれ等は来るべき所に来たれり
人生二十有二年唯夢の如し
生の意義を本日一日にかけ 日米決戦の一奇峰として額勢を一挙に挽回、以て帝国三千年の光輝ある歴史を永遠に守護せんとす
大日本は神国なり 神州不滅 吾等が後には幾千幾万の健児ありて 皇国防衛に身を捧げん
いざ行かむ人界の俗塵を振り払い 悠久に輝く大義の天地へ!
出発四時間前記す 石山中尉』
田村の手許に残っている石山の遺品といえばこれだけである。しかし形として残っていなくてもそれ以上の物が残っている。石山のあの時の澄んだ瞳である。
◇ ◇ ◇
澄んだ瞳が私の中にいる
いつもは忘れているんだけれど
楽しい時 悲しい時 決断の時
いつの間にか 微笑を含んで私をみている
防人の道をともに歩んだ
あの時のままで
貴様の瞳は澄んでいる
この世がいかになろうとも
いつもとびきり光っているぞ
貴様は二十 俺は四十の親爺だが
時々 はほえみの視線をかわそう
国の防人と とにも励んだ
あの時の瞳で
−−あ と が き−−
なにわ会ニュースに掲載された次の諸兄の記事をアレンジして書いたものです。
田中宏謨の石川誠三君等を偲ぶ
後藤 脩の特殊潜航艇の誕生から葬送まで
加藤孝二の澄んだ瞳
押本直正の有志短艇巡航経過所見
(なにわ会ニュース22号23頁 昭和46年2月掲載)