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平成23年3月17日 追加

追悼の辞

            星野 道子

戦後五十有余年、靖国神社にまつられております父、兄の英霊に守られ、またその語らいを支えとし、子供二人も社会人として巣立たせることが出来この上なく幸福を感じております。

 また今度は厚生省の方々のはかり知れない御尽力、御配慮をいただきまして、みたまの最もおそばに立てたことは言いつくせぬほど感謝の念で一杯でございます.

 二十歳前後の若者が国を思いつつ散華していかれた志の高さと、その勇敢な闘志は日本人としてのアイデンティティを失っている現代の若者がその精神を形をかえ、創造的に受け継いでいくぺきものではないかと思います。

 昨日の厚生省の調査報告を聞きますと、昭和十九年十一月三日黎明五時三十分、戦闘機にてタクロバン飛行場攻撃に向かい進入直前に、猛烈な防御砲火をくぐりぬけ、目的を達した後の戦死ということを知り、折りしもその十日前十月二十四日戦艦「武蔵」と運命を共にした父の無念をはたされたことを知り、その散華が報われたように思い、今日こうして皆様と慰霊祭を行っていただくことの意義が一層深く刻まれたように思います。.

 父は国を思い「武蔵乗組員のことを思い、母はその遺族の方々を気づかいつつ他界した今、この思いを深く胸に致し、おのれ自分以外のためにいかに心をつくし、力を発揮し、役立っていかれるかが私の方向性、めざすところかと思います。どうぞこれからもお導き、お守りいただけますようお祈り申し上げますと共に安らかにおやすみ下さい。

 十数年前シブヤン海洋上慰霊祭にて母が兄上のことをよんだ歌を思い出します。

 「艦はるか シブヤン海に祈るかな   父のみ胸に 眠れいとし子」

一九九七年三月八日

レイテ島 タクロバン元飛行場跡の慰霊祭にて

相模原市 星野 道子

 

これは平成937日から13日までの一週間、厚生省派遣フィリッピン戦没者の慰霊参拝に参加した猪口智君の妹さんの追悼の言葉である。

 猪口父子の最期に就いては、叔父の猪口力平氏の著書「神風特別攻撃隊」(昭和26年)に辞しい。その一部を引用する。

 

十月三十日は、敵がまだタクロバンに上陸し始めてから間もない頃で、後から後からと人や物を揚陸させており、味方陸軍部隊も背後の山麓に拠って大いに抵抗をしている時であった。

 夕方私が指揮所にいると、今しがたここに到着した六機ばかりの戦闘機の一隊があった。しばらくすると、隊員は整列して隊長らしい若い士官が、指揮所にいる飛行場指揮官に到着の報告をした。よく見るとその士官は私の甥で同姓の智中尉であっだ。彼も私に気がついたとみえて、後から私のところにやってきた。
『飛行機を集めるのに時間をとって、皆より遅れ、岩国から今日クラークに着くと、直ぐ当地に進出を命ぜられてここへ来たところです』ということである。

 彼も多田中尉と同様、兵学校の七十二期生徒である。このクラスは十八年九月十五日に卒業すると大半は直ちに練習航空隊に入り、速成で修業、十九年三月には少尉に任官、その十月には更に進級したほやほやの中尉である。彼の率いて来た隊は、中川(健三)飛行隊長と同様、戦闘一六五飛行隊所属であった。

彼はそんな話をした後で、 『親父はどうなったかなあ!』 と尋ねるように独りごとを云った。

 『そりゃね、艦と運命を共にしたらしいよ』

と私は答えるより外なかった。実は比島沖海戦のあった前日の十月二十四日、栗田部隊がシブヤン海を東進中、終日敵機動部隊の空襲を蒙り、その大部は武蔵に集中して遂に落伍、流石に不沈艦を誇っただけあって、そうたやすくは沈まなかったが、夜に入って遂に沈没したのである.その際艦長であった彼の父は、予め乗員を退去させ、自身は司令塔深く入って、沈み行く艦と運命を共にしたことを私は既に知っていたのであった。

  『そうかなあ】とやや力を落とした声で彼は言った。

シブヤン海は今日彼がここに来る途中、その上を飛んで来たところである。

彼は何かに思いをはせている様子であった。周囲はうすぐらくなったので、私は彼を促して宿舎に引揚げた。何れにしてもお互いに永からぬ命であるが、私は彼に対して特別攻撃隊員になれともなるなとも云わなかった。

 十一月二日午後の偵察の結果、タクロバンの飛行場には一面に敵飛行機が着陸していて、その数は八〇機以上だとのことである。早速翌払暁を期してこれを奇襲、掃射壊滅させることに決した。 

翌三日、まだ暗いうちに中川隊長以下十二機の戦闘機は、列線をとった。ブルブルとゆるやかな爆音を立てている発動機の排気の焔が、むしろ綺麗にさえ見えていた。

 甥もおくればせに指揮所にやって来て、私の側にいた。やがて搭乗員も乗込み出発準備も終ろうとした頃、側にいた甥は何を思ったか、急に飛行服に着変え、飛行機の側に駈けて行った。間もなく闇の中を次ぎ次ぎに飛行機は出発してしまった。後程、甥の代りに分隊下士官が帰って来た。聞いてみると、 『分隊士(甥)が、「俺が行くから代れ」とのことでしたから、私は残りました』ということであった。

 払暁、レイテの空に防御砲火の曳痕弾のすじを引くのがかすかに見えた。こちらの奇襲隊が敵の上空に到着したんだなと思い、その成功を祈っていた。それから三十分もたたぬうちに一機だけ帰って来た。降りて来た下士官搭乗員を見ると、顔面血だらけである。

『レイテの山の頂きを越えるや否や、猛烈な防御放火で全滅です。』

という報告であった。敵の電探にひっかかり待ち受け射撃を蒙ったので奇襲が反対になったに違いない。勿論智中尉も還らなかった。彼はその父の没した程遠からぬ地で、父の後を追ったのである。しかも、それは、父の逝った丁度10日目であった。着かえて行った帽子と短剣と上衣が、きちんと指揮所の隅に残っていた。

 

(なにわ会ニュース77号50頁 平成9年9月掲載)

2011年3月11日(金)午前 行われた慰霊祭追悼の辞を追加した。

洋上慰霊祭 追悼の辞

                      星野 道子

(戦艦武蔵艦長 猪口 敏平 長女、 相模原市)

〔日時〕  2011年3月11日(金) 、午前

〔場所〕  戦艦武蔵沈没地点 シブヤン海、レイテ湾

 

戦後60有余年、平成23年3月、戦艦武蔵沈没地点の間近で父及び戦死された御霊をお慰めし、お話できる機会を頂きました厚生労働省、遺族会の関係者の皆様のご尽力に心より感謝申し上げます。

靖国神社に奉られています、父、兄の英霊に守られ、また武蔵艦長の家族としてその名を汚さぬよう、戦場を越える過酷な状況はないはずと、いかなる事にも全身全霊で取組み、曲りなりにも、古希を目前にするまで、自分を生かせる道を歩みつつ、小さいながら、夢を実現出来てきている事に、至福の喜びを感じております。2歳半では、父との会話、触れ合いの記憶はない今、「安らかにお眠りですか?これでいいのでしょうか?」 ときいて見たい気持が募ります。どんなお声、どんなお言葉をきけるのでしょうか?耳をすまします。

 英霊の願いである国の繁栄、安寧、発展は、残念ながら、様々な局面で日本人としての誇りが失われ、恥を忘れ、リーダー不在で進むべき将来像を描けぬままさまよっております。

 今こそ、英霊の魂を心にきざんで、日本人として何をすべきであるか一人一人が考え、己の道を切り拓き、選択していくことが、お慰めすることになるのではないかと思います。私個人としましては、数年にわたる教員、翻訳、ボランティア活動を通して、国際会議の支援、観光ガイド、日本語支援等により、来日の外国人、留学生の皆様と交流して、日本文化、日本の精神を紹介し、国を超え、人間同士として理解していくことを続けていきたいと思っています。この活動を通し、差別のない、争いの無い平和の世界へ少しでも役立つことが出来れば、英霊にお応えすることにも繋がり、安らかにお眠り戴けるのではと思っています。今回、参加できなかった皆様にも代わりまして、慰霊の言葉とさせて頂きます。

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