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平成22年4月24日 校正すみ

今井義幸供養の記

久米川英世君に対する返信

白根 行男

 七月一日は激しく雨の断続する日でした。しかし、本堂での供養を終え、両親の墓石にお参りする頃から霧雨模様となり、会食場の養浩館を出る頃からは雨も上りました。

 クラスからは沢本、若松、岩波正幸氏(欣昭の兄)・・・以上麻布中、樋口、名村、大谷、山田(穣)・・・以上潜又は艦、富士、押本・・・以上空の一〇名、中学の同窓約一五名でした。中学からの参会者の中には、何回か催された同窓会の類には一切顔を出さなかったという者もおり、今井のインパクトが偲ばれたことです。後先になりましたが、タイミソグよいご連絡並びに貴い絶筆、有り難うございました。本会の契機をなした、激しく今井を懐しむ中学の友は「是非コピーして欲しい。こんな清純な気持に接して、ほんとに心が洗われる気がする」というので求めに応ずることとします。従ってお返しするのが一寸遅れます。

 今でいう折伏的衝動が、一八歳位の年齢の頭を支配していた結果でしょうが、暗然たる追想ともなるように思います。貴兄のように戦後を高等学校からやり直した教養人にとって、顧みて、一入感慨深いものがあると想像します。

 今井の中学時代、国防研究会なるものがあって彼も会員でした。七三期に入った我々と同年の一人が、あるクリスチャンを徹底的にいじめていた場面に遭遇したことがあります。士官の配属将校が、中佐、少佐、中尉、各一名ずついた時代でした。国防研究会はそれ等の配属将校の主催下にありました。その会員であったことと、軍神杉本中佐がどう結びつくのか小生にとっては何の手懸りもありませんが、想像できることのように思います。約十年前になりますが、中学の同窓会に出た際、ある男が、兵役を逃れまわってあの戦争中を過したという身上話をききました。小生にとってその頃最大のショックでした。頑是ないあの頃の少年を、そのようにしむけたのは、親しかいないと思ったからです。真実冷めた具眼の士ならば、子供の無駄死を、百方手をつくして防いだかも知れぬと思えたからです。

 昭和二二年だったと思いますが、森山修一郎の今は亡き母君が、渋谷中将宅に来られた時、(渋谷中将は終戦時艦政本部長、小生は戦後の縁で同中将宅に同居していた)昭和二〇年当初に何故終戦にもちこめなかったのか?将官連は一体何をしていたのか・・・・と激しく泣きじゃくっておられた姿を、まざまざと想い出します。渋谷中将の長男は、第二期兵器学生長として、森山、小生等と約一年の訓練を共にし、比島沖海戦で戦死した七〇期です。そのことへの慮りよりか、昭和二〇年初めを画して、地球より重いわが子の生命を救いたかったというのが、森山の母者の衷心からの叫びのように思われます。                               

 そのような親心から、身を挺して兵役を逃れさせた親のケースも考えられると思ったからです。岩波新書、近衛文麿の中に、緒戦の大戦果に酔った昭和十七年の宮中慶賀式においてハシャイでいる岡田啓介を心の中で冷笑し、それこそ覚めた眼で戦争の帰決を予想している場面がありますが、「戦いに強い軍人」への道から離れて遠い、我々生存者として、生きている限り漂っている幾多の闘魂に対しほんとは適切な慰めの言葉が見当たらないというのが真実ではないでしょうか。

一方、果てしなく続く戦争という現実に対処して、愛する祖国、同胞のために、進んで犠牲となる勇気も、言うまでもなく崇高な人間愛として称えられます。あのような時局下、ただ漠然と畳の上では死ねそうにないし、いっそ華々しく且つ格好よくと考えて海軍に身を投じた小生、今井の幼児からの生活振りを知る麻布中の友人が、今井はその環境から官費での立身を考えるようになったと発表しましたが、彼此思い巡らすと杉本精神を胸に収めるだけでなく、果敢な折伏行為に出た今井が、それだけに壮烈な最期を遂げたであろうと思うと、矢張り痛ましさが先に立ってしまいます。

 しかし、ともあれ、国防研究会のメンバー、機械体操部のメンバー等、今井にスキンシップのあった面々が、それも中学の会には一度も出たことのない幾人かを交えて集ってくれたことは、今井の余徳といえるし、又絶筆かも知れない貴兄提供の書面を斉しく純真さの現われとして懐しんでくれたことを報告出来るのは、ほんとに貴兄のお蔭でした。

 会は、少年の日、今井から小生、小生から沢本へと伝播した(麻布サークルの中で)汨羅の渕を一同で高唱した後、散会しました。 上京の際は、是非ご一報下さい。

 今井の想い出を又聞かせて下さい。

昭和5378(今井の命日)

 

今井から久米川への書簡

  (白根注=1号になる直前のものと思われる)

 これから俺の思っていることを取り止めなく書いてゆく。

 何といっても真先に浮んで来るのは、あの松並木で忠告してくれたことだ。あの時の二ヵ条は決して忘れられぬ。

第一に、貴様が言ってくれたのは肉親の愛のこと、俺は貴様の知る如く、両親に早く別れてしまった。人生の非常な不幸といっても良いと思う。それで俺は三つの時から祖母に育てられた。非常に甘やかされたことは事実だ。

しかし、俺が中学に入ってから、家の都合で旧父の家に寝起きした。そこで居候生活を三年間やった。この三年間が俺の最も苦しい期間だった。従兄弟と争いをする度に、「親無し子」といわれなければならなかった。又「居侯」と悪罵されたことも一回や二回ではない。その度にその子供は伯父にひどく叱られた。しかし、その時の俺の気持を考えてくれ。俺は泣いた。しかし、その度によみがえって来るのは、杉本精神である。

 

杉本五郎は常に俺を叱りつけた。「馬鹿者下らんことはうつちやつて了え。唯殉皇に向って進め。」

しかし、これ等のことによってひがんだ心持になるのは嫌だったが、自然僻んだ心持ができてしまったのではないだろうか。

かかる気持で兵学校に入って来た。四、三号の時は、そんなことを考える暇が無かった。しかし、二号になり貴様の忠告を聞く日が来た。                                                      

 貴様は兄となり弟とも成ってやるといってくれた。実に嬉しかった。涙が出る程嬉しかった。今後も兄となり弟となって確り俺を引っ張って行ってくれ。

最後に、貴様は俺が杉本精神云々を以て高速なる理想を説くといったが、大義の精神は最も早道であり、最も近づき易いものだ。貴様はそれを読まぬまだ。大義を三読して見られよ。必ず、大義の具現者たらんと欲するに違いない。 

 貴様は、俺が貴様は純真だというと、怒ったふりをする。しかし、人間は馬鹿にされても構わぬから純真でありたいものだ。

貴様が張切る時は、実に勇ましい。一号になってからの張切りもあの通りだ。今後の再会の機を最も楽しみにして、多端なりし二分隊生活と離別する。

義幸拝

英世大兄

(なにわ会ニュース39号19頁 昭和53年9月掲載)

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