平成22年4月24日 校正すみ
今井義幸の墓標について
白根 行男
今井 義幸 | 白根 行男 |
思いがけないことから今井家の墓所が判明した。つきとめることのできた契機は、今井を慕う中学の友からの呼びかけであった。
又クラスと縁の深い岩波正幸先輩のお蔭であったことも奇遇であった。
墓所は白金の専心寺内にあった。墓石に「今井義幸」は刻まれておらず、久しく供養のないまま、無縁仏化しようとしているそうである。(父君は大正十四年、母堂は昭和二年相前後して病没)
中学生の頃、彼から直接教えて貰ったものは、藤田東潮の詩吟であり、昭和維新の歌であった。昨日のようにその頃の状景が眼に浮かぶが、当時の彼は、殊の外ラ・クンパルシータに魅せられていたというが、そのような軟弱な面を少しも知らないできたのは、小生におけるディック・ミネとかダイナ・プラザースと同様、国情がそうさせたのであろう。
彼は、その頃中学にあった国防研究会の部員であり、又機械体操部の部員でもあった。
小生は、生来のなまくら四つで、てれながら中道を歩いた、といえば恥多きことか。
戦後の遺族名簿の今井欄は絶家として知るようになったが、彼の家族事情など全く知らぬままの戦中戦後であった。初代の名簿係大谷から、麻布中のつきあいはそんなもんかといわんばかりのクレームであったが、心の隅にいつもひっかかっていたことであった。
それにしても、サイパンでの玉砕、絶家。真に悲しい運命である。この世に遺族のない今井であるが、両親の墓石のあるうちに今井を偲ぶ小供養の集いを七月一日、(命日は七月八日)その墓所で行い、夏雲に彼の墓標を刻みたいと思う。
彼の最期に近い時機の写真で、複製できそうなものお持ちでしたら、白根まで届けて下さい。必ずお返しします。複製の上中学有志に配りたいので。
今井義幸供養の次第
日 時 昭和五十三年七月一日(土)一四〇〇
場 所 専心寺 電話 03−441−5930
実行委員 沢本 倫生 名村 英俊 白根 行男
会 費 香 料 1,000円
会食費 4,000円
今井義幸の号令
押本 直正
四号の入校教育の時、広島見学で大本営や浅野泉邸などを見学した時か、あるいは一号の時の広島馬術訓練の帰途だったか、いずれにしても宇品港で号令官だった今井の号令
「○分隊と×分隊は△△艇に乗っかる…・」
この「ノツカル」という号令?が、九州育ちの小生にとっては、いとも珍奇妙に聞えたのである。江戸ツ子で麻布中学出身の今井にとっては何の気なしに発した言葉であったろうが、未だに小生の耳にこびりついている。
(なにわ会ニュース38号25頁 昭和53年3月掲載)