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平成22年4月24日 校正すみ

生田善次郎中尉を偲ぶ

日辻 常雄(元飛行隊隊長)

 

大東亜戦争開戦時、海軍飛行艇部隊は、横浜空、東港空の2隊、九七式大艇計48機で立ち上がり、長大なる航続力を誇って東奔西走、ハワイ、ソロモン、印度洋、アリューシャンと全海域にわたって奮戦していたが、戦局の急迫に伴い、戦争後半には全飛行艇隊を、八〇一空(横浜空)一隊に集結し、四国の詫間を作戦基地として、攻撃七〇三(中攻隊、鹿屋基地)を吸収して、第五航空艦隊、唯一の夜間索敵隊を編成し、沖縄、台湾方面の攻防戦に奮戦していた。

八〇一空飛行艇隊は当時二式大艇12機、搭乗員20組に過ぎなかったが、唯一のレーダー索敵隊として重要視されていた。

五航艦は別名菊水部隊と称し、宇垣中将指揮のもと、全力特攻を旗印として、九州南東海面において米機動部隊と度々死闘を演じていたのである。

 

一 生田中尉の性格

さて400機を擁した海軍飛行艇隊も激戦毎に次第に消耗し、士官塔乗員の大半は予備学生出身者となり、中堅で活躍した兵学校出身者の多くは散華して数名の偵察士官が残っているにすぎなかった。この中で飛行艇歴は浅かったものの、生田中尉は只1人兵学校出のパイロットとして飛行隊の陣頭に立って士気を鼓舞していたのである。暫らく彼の人となりにふれて見よう。

生田中尉は一言にして言うと、黙して語らず、不言実行型の青年士官であった。モソートしていて内に猛烈な闘志を秘めており、自らの行動によって部下を指導してゆく人物であった。今でも印象に強く残っているのは特攻出撃(後述)の日、司令の訓示をうけた後 あの鹿児島の天保山海岸に出撃クルーを集め暫らく無言で立っていたが、

『われわれはやるだけのことをやるんだ。かかれツ』と只一言、これが特攻出撃機長の激励の言葉だったのである。横に立っていた私に『今から征きます』と別れてゴム艇に乗り込んでいった姿が目に焼きついている。

また、こんなことがあった。その当時国民兵なるものがどんどん召集され、内地の航空隊等にも配置もないのに続々と入隊して来た。士官室で朝食の時、隣席にいた生田君が私に、モソモソと話しかけて来た。

『今飯を盛ってくれたあの従兵は、私が中学校の時の恩師なのです。まことに心苦しいんです』これを聞いて私は彼をどなりつけた。

「なぜ早くそれを言ってくれなかったんだ。軍隊とは言うものの、恩師に給仕させるとは何事だツ」

私は早速その従兵を呼んでお詫びし、その日から気象班長付に配置換をした。生田君は本当に喜んで私に礼を述べに来た。

このような性格の生田君が私には何か頼りになる人物として心引かれるものがあった。

二 第2次丹作戦 梓特攻隊

20年2月中旬、敵機動部隊の関東空襲があり、その後硫黄島付近をうろついていた敵の艦隊が次第に南下していたが、五航艦の懸命な索敵を以てしてもその全貌を捕えることができなかった。ここにおいて、我が方は敵が前進基地ウルシーに集結し、次期沖縄を狙うであろう米機動部隊に対し、好機を捕えて大特攻をかけようということになった。聯合艦隊の仕組んだ一大賭博でもあった。

情報によると集結する敵の空母は約20隻、これを銀河24機の体当りによって覆滅しようと言う計画である。

この作戦成功の鍵は鹿屋から1,500浬の渡洋進撃を可能ならしめるべき正確なる洋上航法一つにかかっていた。当時この任務を達成できるものは二式大艇以外にないと言うのが聯合艦隊司令部の意見であった。この大作戦は当然のことながら五航艦に課せられた。

八〇一空二式大艇3機と銀河24機を以て、ここに第2次丹作戦の決行が確定し、梓特別攻撃隊が編成されたのである。

大艇隊の夜間索敵は特攻ならずとも必死の戦闘であったが、神風特別攻撃隊の名を与えられたことによって偵察部隊には予想もされなかった特攻隊編入となり、われわれは新らたな闘志を燃え立たせたのである。

私はこの陣頭に立たせて貰えなかった為、この人選はまことに苦しかった。しかし、大艇隊は既にこのことあるのを予期し、特攻志願に全飛行隊員が署名しており、必要ある場合、いつでも飛行隊長が一存で選出できることになっていた。

私はこの大任を果す為には、最精鋭組をあてる以外になく、練度から見ても生田中尉組は選に漏れざるを得なかった。当時二式大艇は満載状態の夜間離水に難点があり、相当のベテラン操縦員を必要としたのである。私としては、生田君の練度向上に期待し、次回好機を狙うべく温存したい考えがあった。

いよいよ、梓隊の編成もでき、鹿児島に進出して銀河隊との死の協同訓練を開始してまもなく20年3月1日、悪天候避退時、不運にも大艇1番機殉職という悲劇が発生した。決行の時機が迫っていた為、早急に編成替の要があり、2番機以下を格上げし、新らたに3番機を補充することにした。

この新編成を黒板に書いていると、横合から『隊長1番機は私がやります。』と言う者が出た。ふと見ると生田中尉であった。

「生田君か、君はまだ早いよ。」私は別に気にもせず申出を軽く拒否した。所が生田君の顔は真剣そのものだった。彼は一言も言はず唇をかみしめて、ポロポロと涙を流しながらクルー室に閉じこもってしまった。

指揮所内がシーンと静まってしまった。要務士が私をにらみつけている。私は矢庭に黒板を消してブイッと室から飛び出した。

生田君のあの真剣な顔つきは只事ではない。彼の心情は私には十分読みとれているのである。海兵只1人のパイロットとして選に漏れると言うことは先立った級友に対しても彼の良心が許さなかったのであらう。出撃までに俺が特訓で仕上げよう、私は腹を決めた。再び指揮所に戻り黒板に大書した。

「1番機、生田中尉組、他は変わらず」

室内に歓声が起こった。生田中尉は満面に笑みを湛えて駆け寄ってきた。

「隊長わがままを言って申し訳ありません。必ずやって見せます。」

「現金な野郎だよ。これから出撃まで、俺と2人の特訓を続けるから覚悟しろ。」

かくて、特攻誘導隊は新編されたのである。

 

三 生田機 天候偵察の大任を果す

20年3月10日、第2次丹作戦が下令された。

1週間にわたる特訓で急速に自信をつけたというものの、それが死につながる特攻行動であったことを思うと全くやりきれない思いで私の胸はかきむしられるようであった。

生田機は銀河隊出撃の4時間前に単機出動せねばならない。進撃路の天候偵察という大事な任務であり、真っ先にウルシーを目指すことになる。0330真っ黒な鹿児島湾から初めて体験する超過荷重離水に挑むのである。

私は特攻任務そのものよりも生田君のこの離水の成功を祈るあまり、一緒に艇にのりこんで、細心の注意を与えたのである。彼の姿は神々しくさえ見えた。

特攻と言う崇高な任務、自ら求めた彼の決意はあらゆる面に発揮されていた。私の心配等は全く無視されたように、堂々たる離水をやってのけた。

この日ウルシー事前偵察についての彩雲の報告が、通信要務の不備から遅延し、作戦は中止され、翌3月11日に決行されたのである。生田君は前日の出撃ですっかり自信をつけ、本番では再び見事に発進、二式大艇の飛行極限に近い20時間の行動を敢行し.ウルシーまでの天候偵察任務を完遂して2345再び鹿児島に帰投できたのである。天佑というべきか。

第2次丹作戦は初日(3月10日)の躓きが祟って引き続き翌11日の出撃は整備の不十分等から銀河隊の不事着等が増え.僅か11機が突入したに過ぎず、大艇も2番機は銀河のあとを追ったがついに還らず、3番機が単機直接誘導の大任を果してメレヨン島に着水し、飛行機は処分し、2ケ月間も飢餓の島内生活を強いられる結果となった。

生田機はウルシー北方100浬附近で、敵戦闘機と遭遇したが之を排除して当日奇跡的に只1機帰還できたもので、12日宇垣長官に進撃状況を報告し、厚くその労をねぎらわれた。

 

四、生田中尉遂に還らず

丹作戦が予期の成果をあげ得なかったが、戦局は益々わが方に不利となるばかり、2週間後に生田中尉もまた、南漠の空に消え去る運命が待っていたのである。

ゥルシー集結中の米機動部隊は空母19隻を主力とし、護衛艦船を含むと膨大な兵力であり、上陸用舟艇 数100隻以上、明らかに沖縄上陸を準備していた。

米軍側からすれば、被害こそ少なかったものの梓隊の攻撃を受け、最早天が下には隠れ家もなしと考えたのか、ウルシー出撃はわが方の予測よりも早くなった。

20年3月17日から3日間、沖縄上陸の前哨戦として九州・四国に展開しているわが五航艦の基地に熾烈な波状攻撃をかけて来たのである。17日は陸攻を主として大艇を含み果敢な夜間索敵網を張ったが、索敵機の損害は大きく、18日は敵の昼間空襲の最後の波を追うようにして詫間基地から二式大艇5機が夜間索敵に出発した。

生田中尉を1番機とする5機は悲壮な決意を以て、182000前後相続いて出撃した。特に生田機には梓特攻出撃を記念して胴体に菊水のマークがつけられていた。

この夜の敵は九州東方意外に接近した海域にあり、大艇は詫間出撃後2時間、2200頃から各機共水上目標をレーダーで捕捉し、接敵を開始した。何れも翌0200頃まで敵に喰いついて友軍攻撃隊の誘導に努めていたが、2、3番機は夫々「敵夜戦と交戦中」の電を発したまま未帰還、4番機は延10機の夜戦の追跡をうけながら2機を撃墜し、自らも被弾の為19日黎明、鳥羽港に不事着、5番機1機だけが辛うじて帰還した。

生田機は182000詫間出撃後音信途絶のまま未帰還、しかし担当索敵線は会敵の算極めて大なるものであったこと、他の列機の会敵状況から推定して、2200前後に、夜戦の急襲をうけ、報告の暇もなく被弾自爆したものと断定されたのである。黙して語らぬ彼らしい最期であった。

今にして思えば、生田中尉はあの梓特攻作戦で彼の全身全霊を燃えつくしていたような気がしてならない。

前述のように梓隊大艇3機のうち2機喪失の運命を辿り、生田機のみが帰還できた。あの時以来彼は深く想に沈むようなことがあった。今回の索敵においても前日の17日には彼の後輩が還らなかった。18日1番機として彼の愛機{菊水マーク)を自ら選んで搭乗していった。ウルシーで叩き損ねた敵を膝元まで誘き出して戦友の仇を討つべく敢然として立ち向って散ったのである。

彼は心の中で再び梓隊の同僚達と靖国のみやしろで再会することを決めていたのではないだろうか。当時を偲び万感胸にせまるものがある。安らかに眠られよ。

死の道を 日頃教えし 部下なれど

出て征く姿に われひれ伏しぬ

(梓隊出撃時の一句)

 

(編者注、

日辻常雄氏は兵学校64期、58年5月、新生社から「最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録」という本、(250頁、980円)を出版された。

なお、51年2月に発行された「海軍飛行艇の戦記と記録」 浜空会編、非売品 にも生田機の最期と思われる写真に説明を加えたものを書いておられる。ご一読をお薦めする。)

(なにわ会ニュース49号18頁 昭和58年9月掲載)