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平成22年4月29日 校正すみ

逝きし友

村山  隆

 四号生は十一分隊、国生、高脇、豊住、園田、上原、佐原、千葉、(五十四期に編入)、私の八人。戦死者は、国生、高脇、豊住、園田の四人。十一分隊は静かな分隊で、他の分隊からうらやましがられていた。生徒長は、五十期清水通生徒、五十一期岸田一郎生徒、一号生全体が紳士ぞろいで、私達はそれほど絞られなかった。

 就寝前のお達しで、獅子吼えのような蛮声が他の分隊から聞こえてきて何事が起ったのかとびくびくしていると、私達の分隊も四号生全員の集合がかかる。いよいよ私達もやられるのかと観念する。しかし、一号生からうける注意は、意外にも諭すような静かなものであった。

 国生君は、東京育ちで頭は切れるが、身体を使う方はあまり得意ではない。

彼は、分隊の先任であるので、整列のときは号令をかける係である。彼としては精一杯声を出しているつもりでも何んとなく優しく聞こえるのか、何回もやり直しをさせられていた。気の毒であった。

歩き方は少しがにまた風で、駆け足は強くなく、いつも列から遅れ気味で、苦労していた。

寝室は一号館の三階東側にあり、モーションレースではもっとも条件の悪い位置にある。彼と高脇君両人は動作が遅く中央階段で止められ、今日もまたやられた、と気さくに話していた。わりあいに神経が太く、少々の失敗にもへこたれないでけろっとしていた。ハンディにもめげず、いつも青空のような晴々とした気持を持ち続け、私達を、さわやかな気分にしてくれっていた。

高脇君は、身体はいかつい感じ、正に戦艦型に似てラグビーのフォワードロック向きである。相撲も強かった。ひげが濃く、理髪店でひげをそるのをよく見掛けた。

練習航海が終って配属が決まり、赴任のため横須賀に待機していた昭和十八年十一月のある日のことである。彼と湘南の江の島に遊んだ。富士山の見納めでもするか、と語り合った。その日は快晴で風もなく、富士山がくっきりと近くに見え、頂上付近はうっすらと雪をかぶっていた。素晴らしい眺めであった。

彼は戦艦大和に乗った。彼は永遠に富士山を見ることはない。押して押しての押し技のとおり、本分に邁進した。純朴で、気立てのよい奴であった。

 豊住君は、典型的な九州男子、私などは機関学校の教育がどんなものであるかを知らないままに入校したので、その訓育の厳しさにはびっくりした。その点、彼は十分に弁えていて、模範的な軍人となるよう全力投球をしていた。ファイトの魂、飛び出していくのはいつも彼が一番、元気者であった。

 園田君は、大人しく控え目であった。中学四年から入校し、遠慮していたからであらうか。しかし、動作はなかなか敏しょうで、年が若いにもかかわらず、年長者に引けをとらなかった。純粋で、真面目であった。


 三号生は六分隊、岡本、寛応、勝賀野、森下、林、小暮、室井、吉本、私の九人。戦死者は、岡本、寛応、勝賀野、森下、林の五人。

六分隊のことはどうしたことか記憶が薄弱である。一号生(五十一期)には勉強家がそろっていたため三号生への風当りが弱かったからか、あまり取り立てるような事件がなかったからであろうか。クラスメートの思い出も短文になるが、お許し願いたい。

岡本君は、真面目、古武士をほうふつさせる。漢詩や和歌をよくした。彼の漢詩一編を転載する。

閑林獨座草堂暁   三資之聲聴一鳥

一烏有聲人有心   聲心雲水倶了々

寛応君は、リスのようにすばしこかった。何事にも一生懸命に取り組んで、自らを鍛えるのに積極的。一歩でもよい、二歩でもよい、前進。少しでも強く、少しでも智力を養わんものと、その真剣さは胸を打つものがあった。

勝賀野君は、気骨稜々としていかにも黒潮に鍛えぬかれた風格があった。何ものをも懼れずわれ行かんの気概が横いつしていた。

森下君は、分隊内でもあまり目立たなかった。自己を冷静に見詰めて精進していたのであらう。彼とは戦艦武蔵で八ケ月起居をともにした。彼は、士官次室の連中と付き合うことが少なく、主に下士官達と親しくしていた。特に先任下士官室に入り侵っていた。彼らと意気投合していた。部下の心をつかむのがうまかったといえる。

 武蔵当時は兄貴面をし、得意になって私に社会常識を沢山教えてくれた。戦艦金剛への転勤は、彼にとっては後ろ髪を引かれる思いであったであろう。

林君は、高脇君と同じ浜田中学出身、山陰地方独特の粘りをもった強じんさを感じた。表面に出ることはなく、黙々として不言実行型であった。

二号生は五分隊、重森、松山、谷田、二谷、詫摩、私の六人。重森、松山が戦死、谷田、二谷が戦後亡くなった。

 二号時代はある程度自由に過ごせる期間である。それだけに、智力体力を大いに充電することができる時期でもあった。私達二号生は、偶然、身体つきが中もしくは小粒を者(谷田を除く)の集まりであったが、よく纏まっていたし、重森、松山の二人の元気者がいて頼りにされていた。

松山君は、都会育ちにもかかわらず、野性味を帯びており、気力が充実していたし、頑張り屋でもあった。

 十哩駆け足では上位に喰い込んでいた。水泳が得意中の得意、特に平泳ぎが滅法早く潜水泳法は上級生も太刀打ちができなかった。蛇島の特設プールで行われる水泳大会ではいつも優勝の栄与を独り占めしていた。

 重森君は、眼光鋭く人を射すくめる強さをもっていた。上・下級生とも一目置いていた。熱血漢であった。剣道の猛者でファイトはすさまじかった。面を付けているのにわざと防御していない後頭部を強打する教官がいて私はさっさと剣道から逃げ出してしまったが、彼はこの教官と堂々と渡り合っていた。すごいと思った。

 谷田君は、周囲のことを気にせずマイペースでやっていた。戦後間もなく身体をこわしたが、健康を取り戻して自衛官となった。その後源田実参議院議員の秘書、次に外食産業の経営陣の一員と、その変り身の素早さには驚くばかり、彼が柔軟性に富んでいた証左であらう。戦後彼が一番早く死んだ。五十四才であった。

 二谷君は、地元舞鶴の出身、外出のときはよく家に帰っていた。大いにうらやましく思った。一度分隊員そろって彼の家へ遊びに行ったことがある。このことを彼のお母さんがいつまでも憶えておられ懐かしい思いをした。

 運動神経がよく、銃剣術の技は素早く、格好も様になっていた。明るく人懐っこい健筆、物事にこだわらなかった。頼まれたことはいやと言えず、誠心誠意やってくれた。

 舞鶴で催される合同慰霊祭のときは、必ずクラスの観光スケジュールなどの段取りをしてくれた。昭和六十年九月の会合で、顔色が勝れなかったので案じていたら、1年後に死去の悲報に接した。

一号生は一分隊。大垣、山崎、吉本、小暮・岩間、私の六人。戦死者は、大垣、山崎の二人。

 一般的に性格の激しい者がいなかった。分隊の中では割合に大人しい分隊であった。

大垣君は、真面目で誠実、中途半端なことはしない。徹底主義を貫き全力を出しきっていた。誠という制服を着て歩いている男であった。 三号生の面倒をよくみており、慕われていた。

 山崎君は、一見しゃに見えるが、愚痴や弱音は一言も吐かない。常に超然としていて喜怒哀楽はほとんど顔にあらわさなかった。三号生には絶対手を出さなかった。彼は、彼なりの哲学を打ち立てていたことと思う。

亡き友の冥福を祈る。

(機関記念誌138頁)

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