平成22年4月24日 校正すみ
池内好員君の戦死
飯田 嘉郎
会誌に池内のお母さんが息子の戦死について詳しいことを知りたいと書かれている。俺は詳しくはないが、少々関係があるので、こんな不得要領のことを書くのも何かの手掛りになればと云うことで……。
当時、第四駆逐隊は舞風(片山誠郎、昭和19年2月17日戦死)野分(某)山雲(俺)の編成で、トラックに居た。 野分の某がどうしても思い出されない。3人して舞風の後甲板で阪妻の「無法松の一生」をみたことだけが記憶にのこる。19年2月15日、山雲は赤城山丸と云う約8,000屯ばかりの高速貨物船を護衛してトラックを出た。竹島、春島?の飛行場には翼を並べて零戦や彗星が並んでいたから、大丈夫と気強い思いで、一寸も心配等しない。
17日朝サイパンの主峰、と云っても低い山だが、タポーチヨ山宜候で之字運動をやり乍ら近付いて居た時、電報が入ってトラック空襲だと云う。彼等どうしたかなと気になって仕方がない。舞風、野分は香取と商船を1隻だったか2隻を護衛して、17日朝出航して内地に帰る予定であった。俺のところは一緒に帰るつもりなのが、赤城山丸の余分の重油をサイパンに揚げる為、手間取るから彼等より早目に出た次第で、当日は南のテニヤンとの間の水道を通りサイパン西海岸にあるガラパンの町に入港した。あれだけあった飛行機はどうしていたんだろう。毎日索敵しているのに敵をつかめなかったとは口惜しい。
ともかく横須賀に帰って少しすると野分が入って来た。以下野分の某の話である。水平線の向うに敵の戦艦のマストがみえる。上に敵の飛行機、それも観測機(弾着を測る飛行機)が居やがる。初弾 遠 次は近 3弾日はもう最後だと覚悟をきめたら、思った通り爽又(弾の散布界に艦が入ること)併し当らなかった。ザアツと一面に水柱が立ってその水をかぶった。
敵発見時、駆逐艦の弾の届かない距離だから、すぐに魚雷戦で肉迫したら、右の様に主砲でうたれ、至近弾の為方位盤と発射管が破損、こうなっては逃げの一手で逃げてきた。振り返ってみると香取は停止して煙を上げて燃え、舞風は沈みつつあった。(或は舞風も商船もみえなかった?)
と云うことなんだが、何の資料もなく、記憶だけなので間違いが多いと思う。自分でもあやふやな処は?印をつけておいたが。
要するにはっきりしたことは野分の某を捜して聞いて貰いたい。加藤が生存者から回答を求めた戦時記録用の葉書をみれば、もし某が生きておればすぐ分るだろう。
あの船団が空襲をどの位食ったのか話をきいたことと思うがすっかり忘れてしまった。もし某が戦死していたら、この手紙なりとも池内のお母さんに差上げて呉れ。
(注、当方の記録には当時野分乗組みのける某、見当たらず不明。転勤後戦死したか? 池内好員は香取で戦死(加藤孝二記)
(なにわ会ニュース11号10頁 昭和42年5月掲載)