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池田誠治少尉候補生の戦死

佐藤 静

 ご照会を頂きました故池田誠治君の乗艦「香取」の最後につきまして当時トラックにおりました私の記憶およぴ手許の資料に基づき、次のとおりとりまとめましたのでお届け

します。

1、当時私はラバウルで作戦に従事しておりました第三水雷戦隊の駆逐艦「文月」に乗艦しておりましたが、修理のためラバウル最後の引揚民間人が乗船した商船二隻(うち一隻は途中空襲により沈没)の乗員を救助の上トラックに入港しました。

 入港時、トラックには戦艦「武蔵」を始め連合艦隊主力が碇泊しておりましたが、二月十日までにほとんど出港し在泊艦船は商船が多く、艦艇では「香取」が一番大きかったと思います。この「香取」に池田君のほか同期の有村信義君、池内好員君、石川忠雄君が乗艦しているとはまったく知りませんでした。

 「文月」は早速修理のためボイラーのパイプの取り外し等の作業を始めました。「香取」は春島寄りの錨地に碇泊しており距離は五〇〇〜六〇〇米位離れていたと思います。

しかし、束の間の平隠も二月十七日、突如として破られました。この日午前四時三十分空襲警報発令、飛び起きて艦橋に上がりますと、まだ明けやらぬ春島の信号所からさかんに赤色信号弾が打ち上げられる中、「香取」が白波をたてて出港して行くのが望見されました。「動ける船は羨ましい」と

思ったものです。やがて五時頃第一波来襲、以後翌十八日まで間断なく空襲は続きました。

 爆音・轟音・紅蓮の炎、天に沖する無数の黒煙、傾く船、逃げ撃っ船、平穏だったトラックは一瞬にして地獄絵さながらの修羅場と化しました。

 戦後の資料によりますと、来襲米機は廷約一三〇〇機、日本の被害は沈没軍艦十三隻、商船三十三隻の多きに上り、戦死者については公表されていませんが、約一万名に及んだのではないかと言われております。

私の乗艦「文月」も被弾浸水により十七日深夜沈没しました。

、「香取」について防衛庁戦史室資料は次のように述べている。′

 「香取・特設巡洋艦赤城野丸・第四駆逐隊(野分・舞風)は香取艦長指揮し、十六日、トラック発の予定のところ、赤城丸の荷役が遅れたため十七日四時三十分、出港して北水道を通過後、午前五時から空襲を受け、十二時までに赤城丸沈没、舞風航行不能、香取大火災となり、十二時二十分、敵戦艦二隻と交戦、野分のみが避退することができたが他はみな沈没した」

 なお、赤城丸は日本郵船の商船でトラック在留邦人約六〇〇名が乗船しており、「香取」はその護衛に当たっていたものと思われます。

「トラック島海軍戦記」は次のように述べております。

 「赤城丸・香取・第四駆逐隊(野分・舞風) 二月十七日〇四三〇トラック出港、北水道通過後米機に捕捉され、〇五〇〇艦爆、一二二〇頃米戦艦各二隻の艦砲射撃を受け、赤城丸は一〇四二、香取・舞凰は一四二四沈没」

「トラック大空襲」(吉村朝之著)には赤城丸の生存者(約五十名が救助されました)の次のような証言が記載されています。

 「場所は北水道から北約一〇キロメートルの海面、証言者は赤城丸被弾大火災に伴い、十時半頃海に飛び込みその後内火艇に救助されたということです。」

 「香取と思われる軍艦が内火艇に近づいてきた、と思う間もなく数十機のグラマンが香取をめがけて襲撃をはじめた。香取はこれを回避するため内火艇から遠ざかっていった。そして五百メートルも離れたであろうか、真っ二つに折れ、轟音とともに海中に沈んだ、眼前に見た香取の最期はまさに轟沈そのものだった。」

このトラック空襲では香取の4名を始め、大淵立身君、小林恵君(以上那珂乗組)衣笠幸夫君(追風乗組)と同期の友七名が戦死しております。

 謹んでご冥福をお祈りする次第です。

(ニュース第78号26頁  昭和年月掲載)

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